第一志望でない大学に入り悶々としていた頃に手にして以来、幾度となく救ってもらっている本『道は開ける』。
イヤな上司の下で働いていた時、扱いにくい部下に振り回されていた時、ひどく体調が悪い時、やることなすことうまく行かない時など、ずいぶん助けられてここまでやって来ました。(おそらく今後も世話になるでしょう)
中でも特に気に入っている言葉がこれ。
コロナ騒動に限らず、世の中いろんな不都合/理不尽なことが起きます。著者デール・カーネギーも言っているように、不可抗力に逆うのをやめるとある種のエネルギーが湧いてくるようで、僕もそれは何度も経験しています。(スーッと無駄な力が抜けて視界が明るくなるというか)
もちろん、すべての理不尽に対して最初から諦めるのではなく、やることやった上で、とも言っています。この考え方は非常に役に立つし実にいい本なので、まだ読んだことのない方は立ち読みでもいいので是非。(文庫版で770円)
なお、最近の版では「避けられない運命には調子を合わせる」となっていますが、主旨は同じです。
同じ章に『マザー・グース』(欧米のわらべ歌)の一節も紹介されていて、これまた頭の中でよく反芻しているところ。
すべてこの世の病には
治す手だてがあるか、なし
手だてがあるなら見つけよう
手だてがないなら忘れよう
ちなみにこの本の原題は“How to Stop Worrying and Start Living”(悩むのをやめ生き直す方法)。まさにそんな本です。
…前回の「ステイホームの最中に」にたくさんの〈いいね〉ほかもらいました。ありがとうございました。
今年も許せんことが多々あった。
上から目線でマウンティングしてくる奴、グチグチと文句ばかり言う奴、下っ端なのに偉そうに物言う奴、いつも吠えかかってくる近所の犬、…。
でもでも、いちいちそういうのに付き合ってもいられない。こちらの血圧上がるし、頭の片隅にあるだけでゆっくり家でもくつろぐことができなくなってしまう。「許せん許さん」と思うよりは「許す許す」と考えた方が、きっといいに違いない。
カトリック系の幼稚園に通っていたころ、「ゆるせばあなたもゆるされる」という言葉を意味がよくわからないまま唱えていた。しかし年取ってくるとよくわかるようになる。
僕だけでなく他の人からも「許せん」と思われているような奴/犬ってのは、僕が何か仕返ししなくても、はやり憐れな目に遭うはずだし事実そのとおりになっている。どうせロクな死に方はしないだろうし、自業自得とはいえ、かわいそうと言えばかわいそう。
(いや僕だって、誰かから「許せん」と思われているの、かも)
そうそう、気分がクサクサして寝つき悪かった時、ふと斎藤一人さんや小林正観さんの言う「ありがたいありがたい」を唱えるようにしたところ、スッと寝付けるようになり、今も続けているところ。
とは言え、政治家や権力者の不正は許しちゃいけないの、だろうな。
(またまた自慢話で恐縮です)
毎朝会うたび、すれ違うたび「ニコッ」と挨拶してくれる子が、数えてみたら会社で10人くらいはいる。こちらに好意を持っているんじゃないか、と。(「いやいや、自分ならもっといる」なんて人もきっといるだろう)。もちろん「ニコッ」としてくれない子も、それ以上にいるんだけど。
僕の部下でも何でもないので、見返りを期待しない〈無償の笑顔〉なのだが、毎朝“プレゼント”をもらっているようで元気になるし仕事の励みにもなる一方、こちとらあまり愛想いいわけではないので申し訳ない気もする。男はヘラヘラするもんじゃないと育てられてきたものの、少しは愛想よくした方がいいのかもしれない。(いやいや、女性は男の真剣に仕事している顔が好き、らしい)
とは言え、個別に食事に行くだのお付き合いするだのってことは、おそらくないだろうし、もしそうなったらなったでまた仕事やりづらくなることだろう。
もしこれが、会う女性会う女性みながみな無愛想だったとしたら、避けられるようだとしたら、何とも哀しい気分になるだろし会社行くのもイヤになってしまうに違いない。
いずれにしても、女性の笑顔ってのはいいよなあ。
ところで、カミさんにはあえて言わないが、女性に嫌われているダンナより好かれているダンナの方が、嬉しいに違いない(と勝手に思っている)。
ついでながら、うちのカミさんも愛想が良くて「おはよう」と言いながらニコッとしてくれる。(惚れてんじゃないだろうか…)
まあ考えてみれば、何ともありがたいこと。
〔写真は、去年のサッカーW杯の時の美人サポーター(かわいい!)〕
悲惨な事故や事件が続く。特に子供が犠牲になるのには、いたたまれない気持ちになる。新しい令和の時代になっても、大きな自然災害含め事故/事件はおそらくなくなることは残念ながら、ないだろう。
登下校時の見張りも増えているようだ(僕も時間あれば街角に立ちたいとは思っている)。ただ、それでも盲点は残るに違いない。
そもそも犯罪をすべて未然に防ぐことは、残念ながら不可能。(AIで以って映画『マイノリティ・リポート』みたいな世界が実現すれば、話は別)
ゼロを目指しつつ、できるだけ減らすには、と考えざるを得ない。
個人個人の性分は変わらないにしても、その行動なら、社会が変わることで変化させられ得るかも、という発想。
格差を縮めるとか認知症を減らすとか核兵器をなくすとか、時間掛かることはともかく、少しでも世の中過ごしやすくするため、ごくごく小さなことならできるだろう。
たとえば、
・公共の場ではむやみに怒鳴らない
・コンビニや店でも丁寧な言葉遣いを
・あおり運転はしない
・落ちているゴミは拾う
・電気はこまめに消す
・挨拶のあとにはひと言添える
・「ありがとう」「ごめんなさい」はちゃんと言う
・できるだけ笑顔でいる
・子供には優しいまなざしを
・困った人がいたらひと声掛ける
怒鳴られた店員さんやあおられた運転手は、どこかでウサを晴らすしかない。それは回り回って、立場弱い人、場合によっては自分に返ってくることになるの、かも。
その上で。
電車に乗ったら周りをひととおり見まわし、怪しげな人間がいたらそれとなく目を付けておく。また、街中で不審な行動をとる人物がいたらそれとなく注視する。
これくらいだったら、僕でもできそう。
ところで、顔認証の技術も発達してきたことだし、高性能のカメラと高度なAIで以って、そろそろ凶器の識別はできるんじゃないか。手に持った物が刃物と認識されれば、警告を発することができるような。
…実現するといいなあ。
去年何が悲しかったといって、岡山だったか14年前の事件の報道ほど悲しかったことはない。
容疑者が逮捕されたのであるが、命を奪われたその被害者というのがいたいけな小学生の女の子で、何ともやり切れない気持ちになったもの。縁もゆかりもなく、また知らなかったとはいえ、その子の死を悼むこともできず14年間のうのうと生きてしまったことに、ひどく落ち込んだもの。
さて、毎年初日の出を拝みに行っている。
今年の元日も晴天に恵まれ、近くの小山に上って無事拝むことができた。(途中のお寺で甘酒など振る舞ってくれるのもいい)
その帰り、混雑する下り坂で、脇道から小学生らしき兄妹が僕の前に入ってきた。男の子は5年生くらい、女の子は2年生くらいか。かわいらしく「失礼します」と入ってきた女の子が、かの亡くなった岡山の女の子とダブって見えて、後ろから「頑張って生きてね」と思った次第。
かの女の子もこんな感じだったろう。そして目の前にいる女の子が代わりに生きてくれているのでは、とも。ご遺族にとっては何の慰めにもならないんだけれど。
まったく関係のない2人の女の子ではあるが、昨年来のモヤモヤが大きく晴れた気がした今年の元旦でした。
…少々重い話になってしまいました。m( )m
「なかいま」と読む。神道の言葉で「今、ここを生き切る」という意味らしい。
昨年末、疲れがたまっていた時に読んだ、矢作直樹氏の『自分を休ませる練習』という本に教えられたもの。
何かを感じるのも考えるのも、今ここでだけ。はるか彼方から続く〈過去〉、そしておそらく永遠に続く〈未来〉はあるけれど、今ここだけ。遠大な過去の中に生きることも、無限の未来の中を生きることも、誰にもできない。(禅問答あるいは哲学的になってしまうが)
ちょっと難しいんだけど、この感覚を摑むと、すごくいい感じになれる。今…いや最近はやりの〈マインドフルネス〉にも通ずるものらしい。
去年だったか、「世界は驚きに満ちている」という一文を載せたことがあるが、それにも近い感じ。
もちろんノイローゼやイジメ、病苦に貧困など、現時点から一刻も早く抜け出したい人もいるはず(僕もすぐノイローゼっぽくなる)。それでも、何かができるのは今ここだけ。ツラいだろうけど、今しかない。少なくとも「明日やる」ということを今、決めなくてはいけない。
そうそう、これまた去年『僕らは奇跡でできている』というテレビ番組があった。非常にいいドラマで、高橋一生扮する主人公・一樹が、はるか昔から続く先祖のお蔭で僕ら生きているということを熱く語っていた。(これはまた、かの有名な『いのちのまつり』でもある)
もう一つ、樹木希林の遺作となった『日日是好日』という映画があった。雨の日は雨を楽しみ、寒い時は寒さを味わう、というような意味だったと思うが、黒木華も上手く演じていて、実にいい映画だった。
そう言えば、マインドフルネスや「今ここ」をテーマにしたような本や映画が多くなっているような気がする。中今を生きるに通じるような、そんな時代の要請なのかもしれない。
とまあここまで考えると、今という時がいとおしくなるし、今を同時に生きているすべての人たち/動植物たち/物さえも、いとおしく思えてくる。
…感覚的なものなので、分かりづらかったかもしれません。
ひとまず「最後」と決めていた大井川マラソンから1ヶ月半。筋肉痛もすっかり取れたものの、週1回の練習もなくなり、何だか物足りない気もしている。
我ながら、よく走ったものだと思う。おそらく、だけれども、周りの応援なければ完走はできなかったに違いない。
家族はもちろん、会社の女性陣、そして沿道で「ガンバレー」と声を掛けてくれるボランティアほか多くの人たち、氷砂糖やチョコの差し入れをしてくれる人、そして風船掲げて応援してくれる女性も。そのほとんどが見知らぬ人、縁もゆかりもない人。
たぶん人生も、多くの人たちの「応援」がなければやって行けないだろうと思う。
親だったり奥さん(旦那さん)だったり子供だったり、職場の同僚・先輩・後輩、近所のおじさん、居酒屋のおばさん、その他たっくさんの人たちに支えられ/応援されて、僕らはやって行ける。
この世の人ばかりじゃない。ご先祖様やいわゆる守護霊だって、見守りつつ応援してくれているに違いない。何ともありがたいこと。
逆に僕だって、誰かを応援することはあるし、誰かの励みになっていることだってあるだろう。持ちつ持たれつ、お互いさま、give and take,win-win,…。
そうそう、マラソンの練習時「無事完走できますよう」願を掛けていた神社に、先日御礼参りに。(クルマで行ったんだけど…)
我ながら、よく走ったものだと思う。おそらく、だけれども、周りの応援なければ完走はできなかったに違いない。
家族はもちろん、会社の女性陣、そして沿道で「ガンバレー」と声を掛けてくれるボランティアほか多くの人たち、氷砂糖やチョコの差し入れをしてくれる人、そして風船掲げて応援してくれる女性も。そのほとんどが見知らぬ人、縁もゆかりもない人。
たぶん人生も、多くの人たちの「応援」がなければやって行けないだろうと思う。
親だったり奥さん(旦那さん)だったり子供だったり、職場の同僚・先輩・後輩、近所のおじさん、居酒屋のおばさん、その他たっくさんの人たちに支えられ/応援されて、僕らはやって行ける。
この世の人ばかりじゃない。ご先祖様やいわゆる守護霊だって、見守りつつ応援してくれているに違いない。何ともありがたいこと。
逆に僕だって、誰かを応援することはあるし、誰かの励みになっていることだってあるだろう。持ちつ持たれつ、お互いさま、give and take,win-win,…。
そうそう、マラソンの練習時「無事完走できますよう」願を掛けていた神社に、先日御礼参りに。(クルマで行ったんだけど…)
「命に関わる危険な暑さ」なんて表現が出て来るとは思わなかったが、ここのとこ天気にまつわるニュースでは常套句となってしまった。ここ静岡でもそこそこ気温高く、埼玉県熊谷市では7月23日に41.1℃とな。
(南国・宮崎出身の僕は暑さには強いものの、横ではカミさんがしきりに「あっつい!」とボヤいている)
さてこの暑さ、地球温暖化の影響なのだろうし、その原因としてはやはり、温室効果ガスである二酸化炭素の増加なのだろう。そしてその増加をもたらしたのは僕ら人間。
地球の恩恵とはいえ、石炭・石油を燃やし、二酸化炭素を増やしている。快適な生活のため。
一人一人の責任はごくごく小さいのかもしれないが、これってきっと、あの世に行く前に閻魔様から問われることだろう(世の中の大きな流れとして、許してもらえるのかどうか)。僕なら僕なりに、何かできることはなかったのか。せめて冷暖房の温度設定を控え目にするとか、クルマをできるだけ使わないようにするとか。
あるいは、無用な殺生はしないとかゴミを拾うとか人の嫌がることをしないとか困っている人を助けるとか寄付をするとかして、〈マイナスポイント〉を極力減らすべきなのかも。
同じことは戦争の前にも言える。その時代に存在していなかった人はもちろん何もできないが、“同席”していれば何かできたろうか。
いや、少なくともコトが起きる前に生きていれば、文章を残すなり子孫に伝えるなりの手立てはあっただろう。
話戻って。
一方、もっと暑く/熱くなった地球に住まざるを得ない未来人(や未来の動植物)は、今の時点では何もできない。一番被害を受けるはずだし、何ともかわいそう/気の毒としか言いようがない。
僕らは子孫に謝らなければならないのかもしれない。ありきたりながら、彼らの身になって考えてみるしか…。