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星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

昭和の時代劇

2008-02-15 | 劇空間
新婚時代5年間、宝塚ファミリーランドをベランダから望める場所に住んでいた。時折賑やかな園内放送がきこえてきた。
2003年に閉園して、今では唯一残ったメリーゴーランドが、住宅展示場の真ん中で、子ども達を乗せて回っている。

 

宝塚大劇場の宙組公演「黎明の風」は、昭和の時代劇。
遠山の金さんのように、後の人が実在の人の名前を借りたフィクションである。
歴史考証を気にしては楽しめない世界。

                 

主役の白洲次郎を演じた専科の轟悠さん、歌声が素晴らしい。
初めて宝塚を観た姪は「かっこいいー」と絶賛。
最初のシーンの背景には、「葬式無用戒名不用」と彼の遺言が書いてある。
白洲次郎という人物の、数々のエピソードを散りばめたストーリーになっている。しかし、これはフィクションである。暴れん坊将軍である。政財界の暗黒面にもどっぷり漬かったけれど、人に言えないことは語らなかった人である。
見せたくない姿は見せないのが、宝塚の舞台である。

幕末の変動期、活躍した人達の年齢は若い。近藤勇も土方歳三も34才で、坂本龍馬も32才で生涯をとじた。
それに比べ、昭和20年代という変動期は、戦争で多くの優秀な若者が命を落とし、歴史の表舞台で若者の活躍した時代ではない。
終戦の昭和20年、白洲次郎は43才、マッカーサーは65才、吉田茂は67才である。それが、宝塚の舞台では青年群像になってしまう。
最も実際とかけ離れたイメージはマッカーサーであった。舞台では大和悠河さん演じる金髪の青年マッカーサーが日本に平和をもたらした人のように描かれてる。ほんとは昭和天皇より20才以上年上の60代後半の狡猾な爺さんなのに。
しかし姪達のマッカーサー像はきっと、大和さんになってしまっただろうなぁ。困ったなぁ。
      

宝塚のパンフレットには、これだけ見たら絶対にひくと思う独特の化粧をした団員達の写真が並ぶ。この化粧の理由は、舞台を観ないと到底理解できないだろう。
2階席の隅っこの席の人にまで、ちゃんとアイコンタクトをとるために、スターの目は大きく輝かなければならないのだ。
全ての客席から直線で見える大階段10段目のセンターはトップスターの聖域で、フィナーレでは必ずここで立ち止まる。その時、大劇場内2550席5100個の視線がこの一点に集まる。

宝塚のプチミュージアムでは、こんなことも体験できるのだった。ランドセルのように背負うの。二人がかりで持ち上げる20㎏の重さのダチョウの羽根を背負ってあの大階段を優雅に歌いながら下りてくるトップスターは、やはり凄いです。

       

                 (4月の舞台頑張ってね)
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ミラーボール

2007-12-12 | 劇空間
100円ショップでミラーボールを売っていた。
私が初めて劇場内でミラーボールに陶酔したのは、広島郵便貯金ホールでの、ポール・モーリア・コンサートだった。♪恋は水色 の演奏が流れ、涙が出るくらい幸せになった夜だった。

            

先日、BSTVでみた、昨年7月の和央ようかさんの引退公演、宝塚歌劇宙組「NEVER SAY GOODBYE~ある愛の軌跡~」は、スペイン人民戦線を扱った硬派の感動作だった。脚本も良し、歌も良かった。何といっても、こんな人いない~と、思わせるくらいの和央ようかさんの格好良さ。この人、実際に劇場で観たかったなぁ。が、時すでに遅し。

ということで、久しぶりに宝塚大劇場へ。
宝塚歌劇星組公演「エル・アルコン~鷹~」「レビュー・オルキス~蘭の星~」を観た。

         

青池保子原作。青い鷹のイメージは美しかった。だけど、作品としては残念ながら途上段階。歌が…。そもそも曲自体が…。だからドタバタ感が…。レビューも大階段の場面が少ない。
でも、ミラーボールが劇場内をぐるぐる照らす中で展開するレビュー観てると、やはりワクワクする。今でもミラーボールが回りだすと、いろんなこと忘れて素直に単純に幸せだなぁ~と、思えるのだ。未だこれをみたことない人連れてきて、この空間の幸せ教えてあげたいな、なんて不遜なことさえ、思ってしまう。

大劇場の一隅に、プチミュージアムがあって、ベルばらの衣装や、小道具が展示されていた。
アントワネットのドレスは、25㍍の布地を使い、円周4㍍のプラスティックペチコートの重さを入れて10㎏あるという。

 

オスカルの剣は軽かったけど長くて、これを振り回しながらの踊りは大変なこと。
あ~、あの群舞のシーンが蘇る~。
やはり、宝塚はベルばらよ。

愛、それは甘く 愛、それは強く 愛、それは尊く 愛、それは気高く
 愛、愛、愛 あー愛あればこそ生きる喜び
       あー愛あればこそ世界は一つ 愛ゆえに人は美しい
 愛、それは悲しく 愛、それは切なく 愛、それは苦しく 愛、それは儚く
 愛、愛、愛 あー愛あればこそ生きる喜び
       あー愛あればこそ世界は一つ 愛ゆえに人は美しい

 
 
                        (作詞:植田紳璽)

永遠に残る昭和の歌謡曲という感じがするこの曲を、時々歌う私は、
年に一回しか大劇場には行かないけど、ミュージアムに貼られたスターの写真に読めない名前もあるけれど、名前と顔が結びつかないけれど、やはりヅカファンなのかしら。
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ヘアスプレー

2007-10-31 | 劇空間
♪OH、OH、OH♪
…トレーシー(ニッキー・ブロンスキー)のこの♪GOOD MORNING BALTIMOREで始まった映画。
元気いっぱいの歌とダンスの世界、2時間一気に観てしまう映画。
席にじっと座ってられない、つい途中でリズムとってしまう映画。
「ヘアスプレー」(監督アダム・シャンクマン)

            

そして、観た後、ふーっと深呼吸して、アメリカという国について、考えてしまう映画でもある。

1962年、まだ公民権法が議会を通過していないアメリカ社会。
”I have a Dream"のキング牧師のワシントン大行進(1963)前夜頃である。
TV局の番組は白人しか出てこない。
黒人が出演できるのは、週に一度の「黒人デー」のみ。
そういえば私が小さい頃白黒TVでみてた外国の(アメリカの)ホームドラマには、白人しか出てこなかった。
現在アメリカでケーブルTV局の数が異常に多いのは、今でもこの傾向が残っているのかもしれない、などと考えてしまう。

          

♪みんなで一緒に踊れば楽しいわ~♪
♪時代は変わっていくの~♪って歌いながら前進するトレーシー。
当時こんな子、いたの~?…いたのよ、きっと。今でもいるわ、きっと。
それが、アメリカの今を変えていく、残された希望よ。

ミシェル・ファイファーが悪役の似合う女優さんになっていた。
(「恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」で♪マイファニーヴァレンタインを歌う彼女が好き。「レディ・ホーク」もよかった)。
歌はやはり、クィーン・ラティファが素晴らしい。
トレーシーのパパ(クリストファー・ウォーケン)の揺らぎない愛、説得力があるのは、ママ(ジョン・トラボルタ)が可愛いから(笑)

もう、女の子じゃないけど、高校生じゃないけど、
たとえ、太ったおばさんになっても、フットワークが軽ければいいの。
明るく前向きに生きていれば、いいの。
自分が正しいと思うことを行動に表せたらいいの、
周りの人からの愛を真っ直ぐに受けとめることができたらいいの。
周りの人への愛を、笑顔で伝えることができればいいの、たとえ太っていても。
太った身体なら、喜びも大きく表現できるわ。

という、単純に明るいメッセージを、勝手に受け取った私は、映画を観た帰り、
久しぶりにソニープラザに寄った。
あの映画の延長にある空間にもう少しいたかったからかもしれない。
そこには、ふたつきポケットが12個もついてるTシャツや、
胸の前にファスナーのついたお花のポシェットが縫いつけてあるTシャツがある。
揺すると鳴くガチョウ…これはトレーシーのパパの店にありそう。
…そうだ、ハーバーランドのヴィレッジヴァンガードってまだやってるかしら…
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包帯クラブに入ります

2007-09-25 | 劇空間
柳楽優弥君、やっと君の映画ができましたね。「包帯クラブ」




連休最終日、駅前のMINTに集客されてるのか、久しぶりのセンター街シネフェニックスは、人が少ない。空と駅前の雑踏が見晴らせるここの明るいロビーが好きだ。

スタッフがほとんどいないフロアには、ワンカップ200円で飲み放題のコーラ。スナックの入った温め自販機が置いてある。フロアで開場を待っていたのは、わたしたちと高齢の男性2人以外は、若い高校生十数人だった。自販機がよく似合う場所である。

温め機械、試してみたい。機械から女の子二人が離れソファーに座ったので、では、私もやってみようと300円入れて、鯛焼きのボタンを押したら、先程の女の子達があわててやって来た。よく見ると、からあげくん温め中の赤ランプ。50・49・48…と、残り時間が点滅している。「フライングしたのね、ごめんなさい。」といってるうちに、緑のランプに変わった。女の子がサッと手を出したので、「熱いから気をつけて」といったら、上手に紙ナプキンで押さえて取り出した。「お先で~す」と彼女達は去っていった。
サァ入れるわよ。鯛焼き50秒と書いてあるのに数字は120から始まった…できたー。さっき偉そうに人に気をつけてなんて言ったくせに、アッチッチ、アッチッチ、と何度も取り損なう。高校生の前でとても恥ずかしかった。でも、なんだか楽しかった。ポスターの中から、柳楽君が「ドンマイ、ドンマイ」と言ってるような気がした。

こんな始まりの「包帯クラブ」…良かったですー。

     ~外の景色と、心の中の風景は、つながっている~

映画を観て、明るいロビーに出たら、大きな窓から、下の雑踏に向かって、
「おーい、ゲームセンターにいる高校生諸君、この映画、観においでー!」
と叫びたくなった。
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千秋楽の「エレンディラ」

2007-09-19 | 劇空間
シアターブラバのロビーに鳴りだした音楽で、私は20年も前のランボォが出てくるサントリーのCMを思い出した。動き出した楽隊に導かれるように、私は入場し座席に着いたのだった。

     

開演前から何だか贅沢な予感がする蜷川芝居、「エレンディラ」の千秋楽。
パンフレットには、21世紀最高の「見世物祝祭劇」とある。
蜷川演出といっても、エレンディラというのは、ギリシア悲劇ではない。
ガルシア・マルケス原作、南米コロンビアの話を、坂手洋二さんが、3幕の悲劇に脚本化した。

1F客席の後ろ中央パイプ椅子には、蜷川幸雄氏が座っていた。

舞台前面全体をおおう紗幕。
その後ろの白い光の中、バスタブが優雅に舞い上がっていく。シュールな世界の始まり。…紗幕の向こうの、屋敷内には、エネルギッシュな巨体の老女と、「はい、お婆さん」としか言わない少女が住んでいる。時折ダチョウが舞台を横切っていく。
やがて、強風が吹いた夜の、炎上シーン。
…映像と照明がコラボして、0.1秒たりともずれてはいないプロの舞台芸術を見せてくれる。ワクワク。

群衆ダンサーの踊りも素晴らしい。
風景は寂しい砂漠に変わり、白い翼の男が登場する。彼は何者?

3幕物で4時間に及ぶ劇の間中、「エレンディラ」という名前が何度も何度も唱えられる。名を呼ぶことで伝説になるかのように。

祖母の屋敷を失火によって消失させた罪を背負わされた少女エレンディラは、償いを求める祖母によって娼婦にされる。彼らは砂漠中をテントで移動した。
どこに行ってもそのテントの入り口には、強欲な巨体の祖母と、好色な男達が並ぶ。どこまでも続く行列。男達は順番にテントに入っては出てくる。テントのまわりには大道芸人。やがて砂漠中でエレンディラのことを知らない男はいなくなった。

この行列に、私は嫌悪感を抱いた。この状況を、祝祭とよぶのか?と。
この可哀想な少女が、どうして伝説になるのだろう。

(彼女を一目見て恋に堕ちる主人公ウリセスは、中川晃教君。初見である。セリフ・演技が、宝塚の男役みたいだ。これは爽やかだと誉めてるの。だから「君が僕のすべて。僕にとって君を失うのは全てを失うということ」などという、キザなセリフも許せる。
エレンディラは、美波さん。昨年の「贋作・罪と罰」で松たか子さんの妹役でいい演技していた人だ。今回は脱ぎます。見事に、何度も。鎖をつけ、後ろ向きに舞台をぐるぐる回るあなたは、本当に体当たり演技。)

ウリセスは、彼女のために、祖母を殺す。毒薬では死なない、魔女のような巨体のお婆さんを、剣で刺し殺す。緑色の血に染まる巨体。
自由になったエレンディラは、ウリセスの前から姿を消し、砂漠を抜け出し、海を見に行ってしまう。祖母を殺したウリセスには白い翼が生えるが、彼女のところへ飛んで行くことはできない。

この時なぜ、エレンディラは彼から去っていったのか?
ウリセスにはなぜ翼が生えたのか?願いによって翼は生えるものではない。ある時翼は生えてしまうのだ。翼が生えると男は飛ばなければならない。神話的必然だ。

第3幕では、エレンディラのことを小説に書いた作家が登場する(渋いというより、1F後部席では聞き取りにくいほど声が小さい、私の中ではトレーニング不足の×俳優)。エレンディラを世に広め伝説にした人物だ。

伝説は彼が作ったのか?
…その謎は、時が経ち、祖母とそっくりの巨体となったエレンディラによって明かされる。

これは、エレンディラ自身がつくり上げた伝説だったのだ。
自由を手に入れるために、祖母を殺したエレンディラ。
彼女はつくった。…砂漠の娼婦の彼女に、ひたすら愛を捧げる、美しい青年を。彼女のためには殺人さえ犯す、オレンジをダイヤモンドに変える男を。殺人を犯した後は白い翼で飛び立った男の伝説を。

この日の幕間に、私は、難解なガルシア・マルケスから、意外にシンプルなメッセージを受け取った。それは、
女はもともと自身が世界の中心として存在している。
男達は世界の中心はどこかと探しながら放浪している。
SEXという行為は、まさに世界の中心はここだーと叫ぶ行為なんだ。
という、恥ずかしいくらい青々しいものだった。
でも、それは女系社会の神話そのものであるような気もする。

楽隊以外のマイケル・ナイマンの音楽は、旋律の定かではない長い憂鬱な曲が多く、中川君も瑳川哲朗さんも、よく歌えたものだと感心する。瑳川さんは素晴らしかった。「ハウルの城」に出てくる荒地の魔女のように、最初は無情な巨体の老婆が哀れみのある人物に変わっていった。さっきのメッセージはあなたから受け取ったのかもしれない。

千秋楽のフィナーレ。やはり瑳川さん登場で、スタンディングが始まった。前の人が立つと、見えないから次々と立っていく。やがて全員総立ち。舞台には蜷川さんんも登場した。繰り返されるカーテンコール。役者が手を振ると、より高く手を掲げて拍手で応える観客。
…今日の本当の祝祭はこの瞬間訪れたような気がした。どこかから、ランボォの楽隊の音が聞こえてきた。
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人魚亭の「迷い猫」

2007-08-01 | 劇空間
尼崎ピッコロセンター中ホールで、綺想舎人魚亭の第59回公演、
「迷い猫」を観てきた。原作ダニエル・キイス。構成・演出小林千夜詞。



「かれはうたえり 
 これ花を愛するにあらずんば すなわち死せんと欲す と
 われはこたへむ 
 死せんと欲すれど 夢に咲きいづる花 愛を誘ひてやまず と」

…チラシには、杜甫の「不是愛花即欲死」に、清岡卓行さんが応えた詩が載っている。
おー、久しぶりの、赤い薔薇一輪・汚れた赤いドレスの出てきそうな芝居、人魚亭だわー。
ゆきさんの、ドスのきいた声がまた聴ける…ワクワク。

舞台と客席の段差がないピッコロの中ホール。装置は木のテーブルと2脚の椅子だけ。
座席はフリーなので早めに来て座っていたら、足元をエアコンの冷気が走る。「寒いわー」ってつぶやいていたら、隣の席の見知らぬ高齢の女性が、幕が開く寸前に膝掛けを受付で借りてきて、なんと、「ついでですから」って、そっと私にも渡して下さったのだ。自分より年配の方の好意に少し恥ずかしくなる。それは、心まで温まる膝掛けだった。私はこんな風に歳をとっていけるかしら。

「迷い猫」という題であったが、原作はあの「アルジャーノンに花束を」だった。
赤い薔薇ではなく、青い矢車草かな。
ハツカネズミのアルジャーノンがジロキチに、チャーリーが波子さんに、なっていた。もちろん波子さんは人魚亭の不老不死の人魚、萩ゆきさんが演じた。

「彼らは、自分たちこそ迷路の中で右往左往していることに気づいちゃいない、彼らは自分たちで解けない迷路に私たちを追い込んで、謎解きをやらせようとしてる…ジロキチ、もう、彼らのために走り回ることはないのよ…」
と、波子がジロキチを連れて研究室を脱出し暮らし始めた棺桶のようなアパートの隣に住む、絵描きの哲郎…今回この哲郎を演じた志摩馨さんが、よかったー。語り口が自然で、個性的。彼の芝居、また観てみたい。

波子が作ろうとするジロキチのための立体迷路の話に、
「どこまでも続く回廊、壁、分岐点、そしてやっとみつけた出口。だが、その出口は次の入り口にしかすぎない…」
と、彼がさらっと言った台詞が、心に残る。

演出の小林千夜詞さんは、この劇に「迷い猫」という題をつけた。
実験対象になった、ジロキチや、波子が、特別な存在ではなく、誰だって、出口求めて迷路を彷徨っているんだ、と告げる役割を、志摩さん演じる哲郎が担ってる。
希望を語るはずの科学者は、いつも、袋小路に追いつめられたかのように、イライラしてる。

「私にはもう他人と分け合う余裕はないの。時間とともに自分が消えていく…」
「ダメよ、もう私はもう私じゃない。ばらばらに崩れていく…そんな私を、あなたに観ていられたくないの」と、愛する人に告げる波子は、せつない。
のどから絞り出すようなゆきさんの声、好きだなー。

最後は、「どーかついでがあったら、うらにわのジロキチのおはかに花束をそなえてやってください」という波子の声で終わる悲しい劇だった。

花束というのは、出口と入口のどちらに飾るのがふさわしいのだろう。
それは、出口と新たな入口の境目の目印なのかもしれない。
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のだめベートーヴェン

2007-07-09 | 劇空間
和服姿の千秋君見たさに、抹茶ドーナツを買いに走ったのは、半年前のこと。
先日、三宮のセンター街を歩いていたら、のだめのガチャポンを発見。
出てきたのは、緑のカプセル。黒木君のストラップだった。
あれから1週間、どうしても千秋くんのが欲しい!!
ただそれだけのために、古本屋に行くという夫について三宮に行った。

ガチャポン!ガチャポン!
…ラッキー!!違う色のカプセルが次々と出てきた。
裏軒、のだめ、ピアノバッグ、千秋君の順番。
結局、千秋君が出てくるまで、やってしまったわけだけど、とても嬉しい。
ピアノバックは、デジカメケースにぴったりの大きさ。
    

ついでに、「のだめカンタービレDVD全11話」を一気にまた観てしまった。
いいわー、いいわー。

…が、昨日の兵庫県立芸術文化センター管弦楽団第7回名曲コンサートに続いたのである。
 
こんな、色違いのコントラバスを見ても、これを弾く演奏者一人一人に、サクラちゃんみたいに、この楽器を選んだそれぞれの理由があるのだわ、と思ってしまう。

曲はベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番変ホ長調「皇帝」と、交響曲第6番ヘ長調「田園」。指揮者岩村力、ピアノ若林顕。生演奏会では初めて聴く曲。

「皇帝」は、のだめ第6話の終わり頃、黒木君達登場のシーンに流れる曲だった。この穏やかな曲に「皇帝」という題名がしっくり来ないなぁ…そろそろ安らかな眠りにつきそうになっていた私の目が覚めた。突然トランペットのハンサムな演奏者が楽器を持って立ち上がり、舞台上手に消えたのである。彼に何があったのか?戸惑ううちに、やがて舞台裏から遠く聞こえるトランペットの音、しばらくして彼はまた、なんでもなかったように元の席に戻ってきた。ふ~ん、そういう演出なのか…それとも、これはこの曲を演奏する際の決まり事?

後半はそんなクラシックビギナーな私でも知ってる「田園」。これを初めて聴いたのは、中学校の音楽のレコード鑑賞の時間。あの時も様々な音に驚き、交響曲っていいなぁと思った。今回も、小鳥のさえずりや雷鳴の音に酔う。

一昨年の夏、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットにある、ベートーヴェンが遺書を書いた下宿屋さんを訪ねた。1802年、失恋し、耳の聴こえなくなった32才のベートーヴェンは、この小さな家の2階で、弟に宛てた遺書を書いた。
一度は死のうとした彼は、結局死なずに、その後の25年間で素晴らしい曲の数々を作曲する。遺書を書いた後、ここで彼に何が起こったのか。
               
「絶望から希望へ」(=のだめカンタービレにも出てきた印象深い言葉)」と転換する瞬間がここで彼に訪れたはず。…部屋に通じる狭い外階段、小さな窓、中庭の大きな木…彼もこの木を眺めたのだろうか。そして、どこからか彼にだけ聞こえる音楽が聞こえてきたのだろうか。

ベートーヴェンがいる限り、一度耳で聴いただけの難曲を、あっさり弾きこなす、のだめちゃんの存在も信じてしまう私です。
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不条理劇を観る

2007-06-17 | 劇空間
尼崎のピッコロシアター大ホールで、別役実作、松本修演出の、
ピッコロ劇団第28回公演「場所と思い出」を観てきた。

滑らかな白い斜面の舞台には、赤い郵便ポストに傾いた電柱、古びたベンチとバス停。
もの悲しいファドが場内に流れる。1970年代だー、という気がした。綺想舎人魚亭の雰囲気に似ている。
開演直前、私が手に持つチラシに印刷されている特徴のある横顔の痩せた背の高い老人が、目の前を横切り、六つ横の席に座った。別役氏本人だった。

彼の書く芝居の登場人物には、名前がない。今回も登場人物は男1、男2、男3、女1、女2、女3。「場所と思い出」は、1977年初演の不条理劇である。

皮トランクを持つ歯ブラシのセールスマンという設定も、バスの切符・バスの車掌といった、今では通用しないセリフが、修正されないまま残されているため、私に近い関西弁ではあったけど、どこか外国の話のような気もする舞台だった。女達がひく美しい乳母車も、どこか外国のホームレスを連想させる。

相手の言葉をはっきり否定せず、なんとなく「まあいいかー」とつきあっているうちに、事態をどんどん変化させていく男に、イライラ。何かを取り出そうと底なしの器のような乳母車をかき回す女に、イライラ。
そんなイライラが観客に積み重なっていく。どうやらこれが不条理劇の醍醐味らしい。
別役氏の演劇の基本が、「会話の積み重ねによる状況の変化にある」という前提が、痛々しいほど、展開されていく。

自分とは違う奇妙な言動に出会ってとまどう時、
自分の言葉の一部分だけが勝手に一人歩きを始めた時、
無関心でいて欲しい他人が自分のことをほおって置いてくれない時。
過去にそんな瞬間が自分にもあったと思う。自分がどうやって乗り切って来たのか、思い出せない。それでも、この男のような羽目に陥らずに生きてきた。
考えれば、私は、自分が決定的なマイノリティになった経験がない。
自分の味方が誰もいない状況で、周囲に振り回されずに、自分を貫くことなどできるのだろうか。

インドから送られてきた葉書に付着していたコレラ菌に感染して夫が亡くなった女は、果たして実在するのか? 
あの乳母車にはいったい他には何が入っているのか?
男から奪い取ったネクタイや靴下や靴は、これから彼らのどんな思い出になっていくのか?
など、普通の感性で楽しめる余韻の他に、限りなく不安にさせる後味が残った。

私はこれから、初めて訪れた街のバス停で、いつ来るのかわからぬバスを待つ時には、この劇を思い出して、不安が増幅すると思う。
そして、やっとバスが来たら、嬉しくて飛び乗ってしまう。「よかったーっ」て、微笑みながら、ふと、行き先確認するの忘れてたことに気がつく。
…なんてことのないようにしよう。

さんまのからくりTVにご長寿クイズというのがある。
なにげなく一人が誤った解答をすると、次の人はその解答に誘導され、解答はどんどん、当初の問題とはかけ離れた方向にいってしまい、このままでは永遠に、正答が出ないという状況に、問題を出した鈴木史朗さんは、どうしていいかわからなくなる。自分の世界に住んでいるお年寄り達と、なかなかコミュニケーションがとれない。接点を探そうと新たなヒントを出す。それが、彼らの今まで生きてきた「思い出」に触れた時、やっと答が出てくるのだ。

この番組で、主導権をお年寄りに預けてしまったらどうなるか?
2時間後、彼らにマイクを奪われ、ベンチにぽつんと取り残された鈴木史朗さんが、自分の出した問題は何だったのだろうと、ボーッと思い出そうとしている。

…サクランボを食べながら、そんなことを想像してしまった。             
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南河内万歳一座の「滅裂博士」

2007-05-28 | 劇空間
大阪城公園のウルトラマーケットで、南河内万歳一座の「滅裂博士」を観てきた。

   

私の中の、「帰ってきた時効警察」が、前のクールに比べて、今ひとつだなぁというストレスが潜んでいた部分を、見事ぶっ飛ばしてくれた、久しぶりの面白い舞台だった。

今回は、幕開きすぐから、私のおなかヒクヒクヒクヒクが始まった。そう、万歳一座の醍醐味は、これです。クスっじゃあだめ、涙がにじんでくるくらいおなかヒクヒクさせながら、汗まみれの役者を観るのが、万歳一座ならではの観劇法。

怪しげな魔術師のようにカールしたヒゲをつけてる安宅慶太さん、彼は時々役柄以上にハンサム過ぎるから、これくらいのヒゲが必要かな。いい動きしてる。
三浦隆志さん、今回は頭と胴の別れたマッド博士。どうやら土砂崩れで、孤立した病院で、怪しげな手術を息子にさせている様子。

前田晃男さん演じる気の弱い息子博士と、額がセクシーな木村基秀さん演じる地上げヤクザの、砂山崩しゲームの緊張感。もう、おなかヒクヒク最高潮。最前列真ん中という、BESTの席でみてたので、砂山のてっぺんのホームランバーの芯が、私の鼻息で崩れそうでドキドキしたわー。

土壇場に来ている病院経営に、前田君が何度か口にする「もう、だめかもしれないなぁ。もうあきらめなきゃならないかなぁ」というセリフに、一緒に見た夫は、「臓器移植だけでなく、日本国憲法のことを思い出した。内藤裕敏さんは、そんな今の時代の雰囲気をこの芝居で表現してしているのかもしれないなぁ」と言っていたが、私もそんな気がした。たしか「それでいいのかなぁ」というセリフもあったような。…砂山のようにもろいのか、崖っぷち日本。

ウルトラマーケットは倉庫だから、中にトイレはない。「日本一きれいな公衆トイレを目指しています」という張り紙のある公衆トイレでは、「わかってるわね。きれいに使うのよ」って、目力ビームを出してる黒猫さんが迎えてくれた。
            みんなもっと目力出そうよー。(←万歳一座のことではありません)
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女王エリザベスの恋

2007-05-28 | 劇空間
兵庫県立芸術文化センター小ホールでの、古楽シリーズ。素晴らしい出会いがあった演奏会だった。

エリザベスⅠ世の時代、シェイクスピアの舞台で奏でられた、楽器リュートを、本当に繊細なタッチで弾く、つのだたかしさん。そして、小学4年生の時に聴いたウィーン少年合唱団のスメタナ君以来、こんな美しい声に出会ったことがないと思った波多野睦美さんのメゾ・ソプラノ♪

彼女がその素晴らしい声で歌う曲の多くを作曲したジョン・ダウランド(1563~1626)というリュートの名手の名前も初めて知った。
女王の宮廷音楽家になりたかった彼のイメージは、私の中では、ジョセフ・ファインズだ。
(映画「エリザベス」「恋に堕ちたシェイクスピア」)。   
演奏会の間中、ジョセフ・ファインズの奏でるリュートに合わせて、波多野さんが歌っているような気がしていた。(つのださん、ごめんなさい)

演奏会は、ダウランドの♪「甘い愛が呼んでいる」から始まった。(*ClickしてCDを開くと視聴できます。)
「ウィンザーの陽気な女房たち」の劇中歌だったといわれる♪「グリーンスリーヴズ」や「♪サリー・ガーデン」…イギリスのフォークソングは、なんていい曲なんだろう。彼女の声の届く場所にいるだけで、自分もきれいになっていくような気がする。

後半は、オペラの出発点をつくった、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567~1643)のオペラ「アリアンナ」から♪「アリアンナの嘆き」…有名なギリシャ神話のアリアドネの歌だ。クレタ島の怪物ミノタウロスを倒す為にやってきたアテネの王子テセウスを、赤い糸で迷宮から救い出した彼女を、テセウスはなんと絶海の孤島に置き去りにして出航してしまう。一人目覚めた彼女が絶望と怒りの中で歌うアリア。…イタリア語はわからないけど、彼女の怒りと無念さが伝わってくる。白に金糸の揺れる大胆なカットのプリーツ地の素適な衣装の波多野さんが、アリアドネに見えてくる。

歌の合間で説明をする彼女の声も、本当に素晴らしい。その曲に対する彼女の思いが伝わってくる。高校の音楽の先生もしていたらしい彼女は、初心者への配慮をちゃんと考えて話してくれる。

アンコールで歌ってくれた♪スカボロフェア、大好きな曲だ。英語って素適。
メゾ・ソプラノがとてもあう言語です。
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東京タワー

2007-05-07 | 劇空間
私は、東京には4回行ったことがある。最初は、70年代高校の修学旅行で1泊、2002年仕事関係2回で計8泊、そして2005年春の日帰り。
思い出すのは、銀座・国会議事堂・六義園・東京大学・井の頭公園・玉川上水・ジブリ・皇居・将門墓・お台場・浅草・泉岳寺・六本木・新宿・渋谷駅・原宿通
…あれ?東京タワーが出てこない。
高校時代のお上りさん修学旅行のコースに入ってなかったはずがないのに、記憶がない。外から見た姿すら記憶にない。
…高校時代の友人に電話で確かめたらやはり彼女の記憶もなかった。銀座の文房具屋さんは覚えているのに。…二人が忘れているのか、本当に行かなかったのか、30年前の謎である。

最近、東京タワーが出てくる映画を、立て続けに見た。
「東京タワー」2004年 監督:源孝志
「東京タワー~オカンと僕と、時々オトン」2007年 監督:松岡錠司
「ALWAYS~三丁目の夕日」2005年 監督:山崎貴

そして、昨夜TVで見たのが、
プロジェクトX挑戦者たち~東京タワー・恋人たちの戦い~世界一のテレビ塔建設、333mの難工事~」(2000年9月5日放送)である。
私は、上記どの映画よりも、感動し、結局2回見て2回とも泣いてしまった。

昭和33年、まだ大型クレーン車もない時代、手作りで世界一の鉄の塔を組み上げた若い男達の物語。そして、現在に至る2組のカップルの物語。

現場監督の竹山正明さんは、当時31歳。若い責任者だ。思わず、「華麗なる一族」を思い出した。番組のバックに流れる曲もあのテーマソングに似ている。鉄の時代。工事中の緊張の日々、洗濯する暇もないのに正明さんは、せっせと京都の恋人に手紙を書いた。その100通以上のラヴレターは、棺の中に持って行きます、と奥さんになった亮子さんは茶色くなった手紙の束を抱きしめる。

一番高い所を担当した鳶職人の桐生五郎さん…当時25歳、無骨だけど、見合いをした彼女に一目惚れ、赤い糸が見えたと語る陽気な職人さんだ。返事に迷ったみさをさんは、こっそり東京タワーの工事現場を見に来て、鉄骨の先端で働く彼を見て承諾の決意をする。二人は東京タワー完成の翌日に結婚した。番組の最後に二人で東京タワー展望台に上るシーンがあって、奥さんが「なんだかこわいわ」って言ったら「俺がつくったんだから、こわいことなんかない」って五郎さんが言うの。

地デジ対応の新東京タワーができる前に、私は、彼らがつくった東京タワーに上らなければならないと思う。
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夜の博物館

2007-04-16 | 劇空間
○十年前、E・L・カニグズバーグの「クローディアの秘密」(松永ふみ子訳・岩波書店)を読んだ。ヴァイオリンケースと、トランペットケースを持ってメトロポリタン美術館に家出した姉弟が、夜の美術館で不思議な彫刻と出会って、違う世界を発見する、最初から最後までわくわくするカニグズバーグさんの傑作だ。それ以後、私の不思議世界の中に、「夜の美術館」というのが加わった。

夜の美術館、想像してみる…高い天井、静寂の中に響く自分の足音。前にも後ろにも自分を見つめる目がある空間。一枚の人物画があれば、それを描いた画家の魂が、そして描かれた人物も魂が、そこに存在している。そこでは、それを描いた時間が止まっている。

これが、恐竜も、ネアンデルタール人も、ファラオも、モアイも、アッティラもいる、「夜の博物館」だったら、もっと凄いはず。そこでは時間は止まらず、博物館での時間が重なっていく。
…そんな映画「ナイト・ミュージアム」を神戸MINTで観た。

「ジェラシック・パーク」を観た夜は、夢でうなされた私だけど、嬉しいときにシッポを振る恐竜は可愛い(骨だけだから?)。昼間、腰を痛めそうな姿勢で展示されてるティラノザウルスは、夜になると、ワンちゃんのように、骨を追いかけて無邪気に遊ぶ。

オールド警備員として、「メリー・ポピンズ」や、「チキチキバンバン」のディック・ヴァン・ダイクが出ている。彼がまだ元気なのが嬉しい。やはりただの警備員じゃなかった。

ジオラマがいい。コンピューターゲーム開発する人より、ジオラマつくる人の方が私は好き。大陸横断鉄道建設に多くの中国人が使われていたのも正確だ。彼らは夜になっても、そのままの大きさで、活躍する。心通わせた小さいオクタヴィアヌスとカウボーイに、私はいつのまにか声援を送っていた。

ロビン・ウィリアムズ扮する第26代大統領セオドア・ルーズベルトは、ガラスの向こうのネイティブ・アメリカンの女の子に恋してる。サカジャヴィア…アメリカの1ドルコインに刻まれた、西部開拓史の伝説の女性である。400年前のポカホンタスはディズニー映画で知っていても、200年前の彼女のことは、日本ではあまり知られていない。彼女は、アメリカ人にとって、西部開拓の礎、正確には、白人の西部進出の端緒となったルイス・クラーク探検隊(白人で初めて北米大陸を太平洋まで横断して帰ってきた)の女神のような存在である。ルイス・クラーク探検隊は、生まれたばかりの小さな赤ん坊を背負った16歳の少女が通訳・道案内として同行することで初めて大陸横断の8000㎞、1年5ヶ月に及ぶ旅を達成し得た。サカジャウィアが素晴らしい能力を発揮したおかげで、その後の「Manifest Destiny」の歴史が始まったのだ。でもそれは、ネイティブ・アメリカンの悲惨な衰退史の始まりでもあった。
ただし、映画の中のサカジャヴィアは、実際の博物館の展示では必ず背負っているはずの、彼女の大切な赤ん坊を背負っていない。

博物館は、この地球上のいろんな時代のいろんな生き物たちを、同時に存在させることのできる不思議な場所だ。ラストの、パーティーシーンは、みんな仲良く共存しましょうというメッセージにも思える。

ま、この際、大英博物館は、世界中からの強奪品である、というようなことは忘れて、踊っているわけだけど…
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十二単を着てみよう

2007-04-15 | 劇空間
先月の終わり、大阪千里のよみうり文化ホールで、十二単装束着付けショー(by雅和装学院)を見た。

 髪は大垂髪(おおすべらかし)、小袖に長袴から始まった。

姿勢も表情もほとんど動かない御方様モデルさん。着付ける衣紋者は、御方様に息を吹きかけては失礼にあたるので座ったまま。

重ねていく、重ねていく。そのたびに、前の腰ひもをサッと引き抜いていく。腰ひもは着付けに2本を交互に使うが、最終的にはたった1本で12枚を支える。

最後に唐衣と後ろに長くひく裳をつけてできあがり。所要時間約30分。

後ろ姿も素適。長い髪が映える衣装だわ。

藤原紀香さんのように、結婚式で着ようと思ったら、20㎏を覚悟しなければならない。

この長い髪、寝る時はやはり邪魔になるため、枕元の、打乱箱(うちみだればこ)に髪をいれて寝ていた。と、昔古典の授業で習った。卒業式の壇上の賞状を入れているお盆を見ると、そのことを思い出したものだ。
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アントワネットが聴いた曲

2007-04-15 | 劇空間
兵庫県立芸術文化センターには、阪急電車で行くので、いつも駅から続く2Fから入っていく。
昨日、古楽器の演奏会「マリー・アントワネット~革命前夜のヴェルサイユ」に行ってきた。演奏するのは、バロック・アンサンブルの「ラ・フォンテーヌ」4人組。

 

開場まで少し時間があったので、前から気になっていた、1F正面玄関入ったところにある外車くらいある大きな茶色い石の正体を確かめに下りた。
そして、その大きさから隕石か?と今まで思っていたそれが、石ではない!ということを知った。たまたま、バッグが触ったら、金属音がしたのだ。
周りに何の解説もない、ということは芸術作品ではない。
そういえば、この間ここのスタッフさんがこの上に座っているのを見た、という人がいる。これはオブジェ風の大きな椅子だったんだ(?)。ひんやりとした感触、夏の暑い時期にはここで寝そべったら気持ち良さそうである。

でも、ずっと石だと思っていて、金属だったというこの感じは、パイナップルが木になってる果実ではなく、キャベツのように畑に育つ作物であったことを知った時の驚きにも似ている。

小ホールは初めてである。高い丸天井、中央の舞台を四方から見下ろす客席。
チェンバロの調律を、演奏開始直前までやっている。繊細な楽器なのだろう。
オーボエもリコーダーも、シンプルな形である。
チェンバロの水永牧子さんは、コスプレ看護婦さん姿でも登場していて、とても可愛い。
楽しい演出ではあったけど、今日のバロック音楽は、私の心には届かなかった。音楽に集中しようとしたら、何分間か心地良く寝てしまった…4000円の贅沢な眠り。

バロックのこうした曲は、宮廷で、王侯貴族が、飲み食いして、ざわめいていたり、ウトウトしている日常のバックに流れていたんだという印象を深めた。
あの時代、こんな曲を演奏しながら、こんな寸劇が行われたのかもしれない。
リコーダーの江崎浩司さんは、宮廷でも活躍したに違いない。
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春山ワールド「王妃の肖像」

2007-03-31 | 劇空間
JR伊丹駅の近くには、荒木村重が築いた有岡城趾がある。
桜の木が1本だけ、というお城跡にしては少し寂しい風景である。
城跡から見下ろすと、若者達がたくさんいた。
制服の中に、爽やかなチェックのシャツ姿の少年達がいて、春だなぁと思う。
今日は隣のAI・HALLで中学高校演劇フェスティバル2007が開かれているのだ。

     

兵庫県立西宮今津高校「王妃の肖像」を観に行った。
もちろん作・演出・主演は、春山昌紀君。
太陽の箱」ではまった春山ワールド
…今度は、なんと彼が、マリー・アントワネットを演じた。
もう宝塚歌劇に真っ向から挑戦しているわね。
そして、今日は3月31日、ということは、彼の高校演劇最後の舞台である。

前回の「太陽の箱」の音楽は、ルイ14世のお抱え音楽師リュリの宮廷オペラ曲が、ルイルイと流れて南朝の朝廷の雰囲気を盛り上げていた。今回は、バッハである。相変わらず格調高い。

マリー・アントワネットの「家族の肖像」というヴェルサイユにあるあの絵を描いた実在の女流画家、ブジィエ・ルブランを、これまた高校最後の加藤彩香さんが演じる。王妃と同じ年に生まれた彼女の、画家であった父の葬儀の日は、アントワネットがフランスに嫁いできた日だった。彼女は母と弟を、絵筆一本で養っている。
パリ市民の間では、王妃の浪費やフェルゼンとの醜聞のせいで、王妃に対する憎しみが増大しつつある頃、王妃に気に入られたルブランは、ヴェルサイユ宮殿で王妃の肖像を描いている。この動乱の時代を乗り切る女流画家を、加藤さんは凛とした力ある女性として演じた。立ち姿も美しい。

王妃取り巻きの貴族を代表するポリニャック夫人の口癖は「美しい国フランスを守るのが私達貴族の役目」…結局平民を恐れ、一番に逃げ出そうとする彼女にとって「美しい国フランス」の中に貧しい平民は入っていない。(当然、美しい国日本、という言葉を喚起するこのセリフ。春山くんの脚本、素晴らしい。)

アンシャン・レジームは、多くの平民に自由はなかった。「でも、王妃の私にも自由はないわ。」と不幸せな王妃はいう。
背景の赤い薔薇のつたう木枠は、ギロチンだった。

サンキュロットを演じた白井三賀さんの声がいい。あの時代の平民の声を見事に表していた。
劇の最後は、フランス人権宣言の朗誦。「自由とは?」で終わった。

舞台は終始、絵のような構図に人物が配置され、動きは優雅な踊りを伴う。
高校演劇の枠を越えた春山ワールドは、これからはどこで展開するのだろう。
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