星降るベランダ

めざせ、アルプスの空気、体内ツェルマット
クロネコチャンは月に~夜空には人の運命の数だけ星がまたたいている

不条理劇を観る

2007-06-17 | 劇空間
尼崎のピッコロシアター大ホールで、別役実作、松本修演出の、
ピッコロ劇団第28回公演「場所と思い出」を観てきた。

滑らかな白い斜面の舞台には、赤い郵便ポストに傾いた電柱、古びたベンチとバス停。
もの悲しいファドが場内に流れる。1970年代だー、という気がした。綺想舎人魚亭の雰囲気に似ている。
開演直前、私が手に持つチラシに印刷されている特徴のある横顔の痩せた背の高い老人が、目の前を横切り、六つ横の席に座った。別役氏本人だった。

彼の書く芝居の登場人物には、名前がない。今回も登場人物は男1、男2、男3、女1、女2、女3。「場所と思い出」は、1977年初演の不条理劇である。

皮トランクを持つ歯ブラシのセールスマンという設定も、バスの切符・バスの車掌といった、今では通用しないセリフが、修正されないまま残されているため、私に近い関西弁ではあったけど、どこか外国の話のような気もする舞台だった。女達がひく美しい乳母車も、どこか外国のホームレスを連想させる。

相手の言葉をはっきり否定せず、なんとなく「まあいいかー」とつきあっているうちに、事態をどんどん変化させていく男に、イライラ。何かを取り出そうと底なしの器のような乳母車をかき回す女に、イライラ。
そんなイライラが観客に積み重なっていく。どうやらこれが不条理劇の醍醐味らしい。
別役氏の演劇の基本が、「会話の積み重ねによる状況の変化にある」という前提が、痛々しいほど、展開されていく。

自分とは違う奇妙な言動に出会ってとまどう時、
自分の言葉の一部分だけが勝手に一人歩きを始めた時、
無関心でいて欲しい他人が自分のことをほおって置いてくれない時。
過去にそんな瞬間が自分にもあったと思う。自分がどうやって乗り切って来たのか、思い出せない。それでも、この男のような羽目に陥らずに生きてきた。
考えれば、私は、自分が決定的なマイノリティになった経験がない。
自分の味方が誰もいない状況で、周囲に振り回されずに、自分を貫くことなどできるのだろうか。

インドから送られてきた葉書に付着していたコレラ菌に感染して夫が亡くなった女は、果たして実在するのか? 
あの乳母車にはいったい他には何が入っているのか?
男から奪い取ったネクタイや靴下や靴は、これから彼らのどんな思い出になっていくのか?
など、普通の感性で楽しめる余韻の他に、限りなく不安にさせる後味が残った。

私はこれから、初めて訪れた街のバス停で、いつ来るのかわからぬバスを待つ時には、この劇を思い出して、不安が増幅すると思う。
そして、やっとバスが来たら、嬉しくて飛び乗ってしまう。「よかったーっ」て、微笑みながら、ふと、行き先確認するの忘れてたことに気がつく。
…なんてことのないようにしよう。

さんまのからくりTVにご長寿クイズというのがある。
なにげなく一人が誤った解答をすると、次の人はその解答に誘導され、解答はどんどん、当初の問題とはかけ離れた方向にいってしまい、このままでは永遠に、正答が出ないという状況に、問題を出した鈴木史朗さんは、どうしていいかわからなくなる。自分の世界に住んでいるお年寄り達と、なかなかコミュニケーションがとれない。接点を探そうと新たなヒントを出す。それが、彼らの今まで生きてきた「思い出」に触れた時、やっと答が出てくるのだ。

この番組で、主導権をお年寄りに預けてしまったらどうなるか?
2時間後、彼らにマイクを奪われ、ベンチにぽつんと取り残された鈴木史朗さんが、自分の出した問題は何だったのだろうと、ボーッと思い出そうとしている。

…サクランボを食べながら、そんなことを想像してしまった。             

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