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恵まれた上司による人生の選択『人生を変えるクローゼットの作り方』

2022-04-19 11:35:03 | 経営・リーダーシップに必要な事
@一人のファッションデザイナーが顧客の「何でも相談」人生相談役的な存在になり、顧客の心を鷲掴み、顧客との強い絆を作り上げ40年間もの間仕事を続けることができた。それは特にファッションではつい迷った挙句の果てには同じような色合い、スタイルを買ってしまう顧客に「ファッションで自信を持たせ、輝かせる事」を一心に自分の意見をズバリと切り込んでアドバイスしていることだ。やはり一流プロの目、感覚は、人付き合いが長ければ長い程信頼、信用されることにつながると言うことだ。
仕事に重要なのはやはり「尊敬する上司」でなければ仕事が上手くいかないし、昇進、昇格にも影響する。だから上司次第で転職する時代が既に有ると思う方が良く、精神不安定になる前に素早い転職はいい人生になると思うことだ。
『人生を変えるクローゼットの作り方』ベティー・ホールブライシュ
「概要」服を替えれば人生が変わる! ニューヨーク・マンハッタン五番街の高級老舗デパート、バーグドルフ・グッドマンに世界中のセレブを顧客に持つパーソナル・ショッパーがいる。恵まれた幼少期、華やかな結婚生活と破綻、自殺未遂、乳がん…。その波乱万丈な人生が、彼女に唯一無二の人間力をもたらした。傷心の彼女が40代にして初めて仕事を得たのがファッション業界。そして、90歳でもなお、ショッピングを通して顧客をセラピーし続ける。伝説のパーソナル・ショッパー、ベティ・ホールブライシュが語る半生。
ー1930年代、シカゴで裕福な家庭のひとり娘として、何不自由ない暮らしを送る。
ーマイアミでホテル・オーナー大富豪の息子サニーと出会い、1945年結婚。ニューヨークでのゴージャスな新婚生活を送り2児の母となる。だが子供たちに精神的異常が発症、保護施設などへと別居する羽目になる。夫の気を引こうと、浮気と自殺未遂を起こし、精神病患者となる。
ー精神科を退院したベティは、バーグドルフ・グッドマンで働き始め、「ソルーションズ部門」のディレクターに就任、超多忙な日々と新たなパートナー、ジムとの出会い。その後ジムとは何でも話し合える恋人として29年間付き合う。
ー映画やドラマ用の衣装リースサービスを開始。母の遺伝子を継いだのか衣装デザイナー、有名女優らが次々にクライアントになる。だが、乳がんが発症したことで、逆に生きがいと慰めを与えてくれる仕事の力で精神科通いを卒業する。
ー身内や親しい人たちを亡くすベティ。ファッションの世界も様変わり、86歳、クオリティもスタイルも姿を消しつつあると嘆くが、メディアにひっぱりだこで有名人に。ベティーの一番の生きがいは女性に自信をもたせ、輝かせることだと悟る。
ー「顧客が求めるのは買い物だけではなく、多くには母親役を求め、様々な形でそれに応える」
ー顧客の要望を叶えるために顧客と店内を歩き回り顧客のソーシャルライフを知り、セラピストのように振る舞う
ー「これはなかなかね」「面白みにかけるわ」「ほんと、とても綺麗ね」「似合っているわ」「絶対に買うべきよ」究極の褒め言葉は「ほんと凄くいい、気に入ったわ」(I love it)
ー3択「3つの選択肢を提示し顧客に決めさせる」
ー話を聞いてくれる人の存在・仕事を任せてくれる上司・何事も信頼し合える仕事仲間・必要とされる存在になる事
ー晩年「手と頭の動きが鈍くなるのは悲しい。だから、わざわざ思いワゴンを引っ張たり体を動かすようにしている、チャレンジが大事」


食糧不足、食の高騰化がやってくる

2022-04-19 09:41:26 | 世界の動きから見えるもの
世界でも有数な穀倉国ウクライナとロシアが戦争で近隣諸国など穀物不足となる、と言う記事は、今後日本にも大きく影響する。
小麦の輸出大国であるウクライナとロシアは戦争の影響で食糧の輸出が落ち込んでおり、特に中東・北アフリカ諸国は食糧を大量に輸入しているため、食糧価格上昇の影響をとくに受けやすい。


「凄い人」とは女医を目指して生き抜いた高橋瑞『明治を生きた男装の女医』

2022-04-19 07:42:08 | 歴史から学ぶ
破天荒の人生、「女医」として「女性」として結婚、離婚、流産、中絶、出産などを経験した経験は遂に語らなかった高橋瑞。「前例がない」として女の医学への道は皆無の時代、当時結婚した女性は「産むも地獄、産まぬも地獄」と言われ「妊婦や赤ん坊を一人でも救いたい」と女医になる前の産婆の経験は2万件を超えていた。男女差別が酷い時代に女医を目指すためにドイツに単独渡航、読み書きも、公的資金もない一人の女性がベルリンの大学を目指し苦労したことがこの書に表れている。
『明治を生きた男装の女医』田中ひかる
「概要」明治23年(1890)、横浜港を出航したドイツ汽船に乗っていた唯一の日本人 女性、高橋瑞。ドイツへの女子留学生、それも私費で渡ったのは瑞が最初だった。嘉永5年(1852)、西尾藩士の末っ子として生まれた瑞は幼い頃から利口な娘 だった。維新後に家は没落、未婚のまま長兄の家で子守として過ごす。しかし、「瑞 は学問をやるといい」という亡父の言葉を胸に24歳で家を出る。旅芸人の賄い、住 み込みの女中、短い不幸な結婚など、様々な職を経て、明治13年(1880)、前 橋の産婆・津久井磯子の内弟子となる。磯子の後押しで東京に出た瑞は、28歳で念 願の学生となり、産婆の資格を取る。だが、産婆では救えない命がある、医者になりたい――瑞は、女にも医術開業試験の受験を許可するよう、内務省への請願を始め る。この頃、荻野吟子(公許女医第一号)や生澤久野(同第二号)、本多銓子(同第四 号)らも個別に請願を行っていた。彼女らの動きが実り、ついに明治17年(188 4)、女子受験者を迎えた初の医術開業試験が行われた。瑞は女学生として初めて済 生学舎に学んだ後、2年間の医学実習を終え、明治20年(1887)、公許女医第 三号として医籍登録し、翌年、日本橋に「高橋医院」を開く。36歳だった。医院は 繁盛したが、1年半後、「もっと産婦人科学を究めたい」とドイツへの留学を決める女には大学で研究する道が閉ざされていたため、外国へ行くしか方法がなかった のだ。ドラマチックな高橋瑞の人生とともに、瑞が出逢い、見送った無名の女たちの運 命、また、女医誕生への門戸を開いた仲間たちとの友情も感動的である。
日清戦争で命を無くした1万3500人の9割は脚気やコレラの病死者だった
「気になる無中の言葉」
60歳で医者を引退、その時に友人に告げた言葉は「私が死んだら、遺体はあんたの学校にやるから解剖して役に立てておくれ。それから骨も活かせ。私は死んだ後、骨標本になりたい」と遺言はそのまま東京女子医大に校宝として保管されている、という。
桐生悠々・ジャーナリスト(瑞の支援者の一人)「言いたいことを言うのは、権利の行使、言わなければならないことを言うのは義務の履行であり、義務の履行は多くの場合、犠牲を払う」