@「行動力」が信頼を得る
山岡鉄舟が江戸無血開城を命を賭け西郷隆盛の敵本陣へ出かけ交渉し、江戸(徳川家)を守った。歴史では勝海舟とあるが鉄舟の明治維新政府への貢献度は高く、明治天皇からの信頼を勝ち取るなど鉄舟の信念「礼節を持って誰でも会い全力で取り組む」全ての行動力にあった、と読める。寝る暇もなく誰よりも素早く行動に移せる気迫力の鉄舟で圧倒させられる。 「信頼」とは「行動力の結果」なのだ。
『命も入らず名もいらず(下)』山本兼一
「概要」最後の将軍・徳川慶喜の意向を受けて官軍の陣を決死の覚悟で突破。西郷隆盛と談判し、江戸無血開城への素地をつくった。そして無私の人となりを見込まれ、侍従として明治天皇の教育係に任じられた。自らは地位や名誉や金銭を求めず、他人には思いやりをもって接し、雄々しく清々しく動乱の時代を生きぬいた山岡鉄舟。その志高き人生を通じ、現代日本人に生きることの意味を問いかける傑作歴史小説。
ー勝海舟は数人の薩摩人を居候させており、その一人益満休之助を鉄舟と同伴させ、清水次郎長などの協力の下、西郷隆盛への談判に向かった。(慶喜の恭順)その時に西郷は鉄舟に「命もいらず、名もいらず、簡易もいらぬ人は、始末に困り申す」と言われた。そこで7箇条が提案される。
慶喜の恭順と備前藩にお預け
江戸城の明渡
軍艦を残らず譲渡
軍器一切を引き渡し
城内家来等向島に移動
慶喜の妄挙を助ける者等を取り調べ謝罪させること
氾濫するものは官軍を持って相慎むこと
ー鉄舟はそうそう江戸に帰り勝つとの面談で「少しでも、こっちの分が欲しいじゃないか。交渉ってのは、てめえに有利になるように進めるもんだぜ」勝はイギリス等へも話を持ち込み、慶喜次第では海外隠居も考えていた
ー寛永寺に集まった彰義隊、約3千人の浪人、藩の武士などに対して鉄舟は「家名が残すというが所領はどうなる。家の名が残ってもどうしようもない。せめて徳川の領地を残さねば」と口説いた。それに対して「徳川家が愚弄されている。連中は官軍と称しているが、ただの薩摩。関ヶ原の恨みを晴らすつもりなのだ。
ー徳川家の家来等(約3万3千人)の選択は、3つ;家臣として支える、朝廷で支える、農業や商業を始める。勝は新たな行政に1千人、藩邸に3百人、陸軍3千人、遊撃精鋭部隊5百人を想定 約7千人が定かではなく徳川家を頼らず生きていくことを決めた、と言う。農業は牧之原台地など開拓し茶畑を主とした。
ー幼い天皇への提言「大君の学問はひとえに仁を極めるところにあります。人への慈しみ、思いやりでございます」1873年明治天皇の断髪(鉄舟は侍従から宮内省大丞へ昇進)
ー1874年常陸国北相馬郡郷士、50歳を超えた木村安兵衛が「あんパン」を製造、銀座にオープン
ー西郷の西南の戦争、新政府軍5万8千5百人:戦死6千5百人、9千人負傷。薩摩軍は4万人:4千人が戦死、1千人が行方不明、1万人が負、 西郷は51歳だった。
ー鉄舟の晩年 鉄舟の信条:その場その場で全力を尽くす
あらゆることに全力を出して取り組む 一生懸命にやること
会いたい人にはいつでも会い(礼を持って接する)、一生大酒飲みを続ける
全100巻3千53部の大蔵経の書写・坐禅・試練・書写
剣の理:勝ちに執着してはいけない、死を覚悟して打ちかかれ(無刀流)