@「論語」は孔子の死後300年後に出来上がった、と言う。架空の愛弟子蔫薑(えんきょう)が物語る本書のように多くの弟子たちが教えを聞き伝えた事で可能となった書物なのだ。ちなみに約2500年前の中国春秋時代末期に生きた孔子と弟子・思想家が、14年間に及ぶ遊説で人々に教え伝えた思想知恵などを綴った書物である。気になった孔子の詩「60にして耳順う、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」60歳になったら人の言葉が素直に耳に入ってくるようになり、70歳になると自分の心の欲するように振る舞っても、道を踏み外すようなことは無くなった。即ち、聞くことに素直になると知恵と考えが人生経験から自信に変わる、と言うことか。孔子が多くを語った字は「天命」「信」「仁」であり、その行動は不幸な人を助けようとする人への愛情、正しいことへの情熱だったとある。
『孔子』井上靖
「概要」聖人の生き方、その言葉に自らの来し方、人生観を重ねる――。二千五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を描く歴史小説。『論語』に収められた孔子の詞(ことば)はどのような背景を持って生れてきたのか。十四年にも亘る亡命・遊説の旅は、何を目的としていたのか。孔子と弟子たちが戦乱の中原(ちゅうげん)を放浪する姿を、架空の弟子・蔫薑(えんきょう)が語る形で、独自の解釈を与えてゆく。
ー孔子の職歴
・51歳の時に教育課として声望、魯の中都の宰として仕官し、門人も増えた
・52歳で司空なる土木工事省の長官と昇進、定公の補佐、外交の手腕を中原一帯に広めた
・55歳で魯を追われる形で衛を目指す旅に出る
ー孔子・子路・顔回・子貢、それに著者に当たる架空の弟子・蔫薑(えんきょう)が14年間の旅
・孔子は55歳の時、14年間に及ぶ亡命・遊説へと旅に出る
・その時の愛弟子は子路は46歳、顔回25歳、子貢24歳、身の回りをお世話した蔫薑は20歳
・孔子は73歳で逝去、子路は63歳、顔回は41歳、子貢は孔子なのど葬儀を行い70歳頃
ー孔子の魅力
・人間への愛情、正しいことへの情熱、そして不幸な人間をたとえ1人でも少なくしようと言う執念の如き意志
・この世に生まれて来た人間が、やはり生まれて来てよかった。そう思うような社会を作るために、真剣に努力する人間の養成すること
・他人の悲しさ、苦しさがわかる人・いつも感ずる無比の優しさ・常に正しく、真剣に生きようとするその凄さ・年練を感じさせない行動・二人とない明晰な頭脳と教養・隙のない生き方・妥協なく立派な努力・正しく生きることを己に課した人・他人を優しく許す大海のような人間愛・生涯燃え続けた人間愛・威あって猛からず・心にもないことをは一切口から出さなかった
・14年間にわたる遊説で講学を行ったことが功績として残る(多くの弟子に伝えた)
ー愛弟子の魅力
・子貢:弁舌巧み、頭脳明晰、魯・衛に官吏を務めた人物、理財の知恵(旅費・葬儀の工面)
・顔回:非凡な頭脳、純真な心を持った俊才、常に勉学に励み、思索、修養努力を惜しまない
・子路:何事も上手く仕切る、嫌なことでも嫌な顔せず尽くす純粋で情熱ある人柄
ー孔子の言葉(詞)
・「天命を信じて人事を尽くす」「人事を尽くして天命を待つ」「天命に安んじる」
「天が投げつけてくる禍福を心安らかに受ける」「人生は成敗を度外視しての奮闘」
・「言」とは「信」「仁」(人間が高いに相手の言うことを信ずることができて初めて社会の秩序というものは保たれてゆくのである)
・「近くの者説び、遠き者来る」(政治の政策)
・「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず」(生きる力:愛弟子との決別に思う)
気持ちを新しく、強く持って、一歩一歩足を踏み締めて生きていこう
あっという間に人間の一生は終わる水の流れと同じで、その短い一生の間に、人は学び、務め、励み、片時も修養を怠ってはならない
・「美なる哉、水。洋洋たる呼たり、丘が渡らざるはこれ命ならんか」(天命)
・「60にして耳順う、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
60歳になったら人の言葉が素直に耳に入ってくるようになった、70歳になったら、自分の心の欲するように振る舞っても、道を踏み外すようなことは無くなった
・「天、何をか言うや、四時行われ、百物生ず」
人間は生まれて来たからには何も言わず一つ黙ってやるべきことがある
己が正しいと思うことを黙ってやり、黙って見ること
・「怪・力・乱・神」次に「背徳・不倫・死逆・乱逆」人の興味を持つもの
・「巧言令色、鮮なし仁」「仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」
仁の徳を備えたものだけが、好むべき人を好み、悪夢べき人を悪むことができる
・「人にして仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば。楽を如何せん」
・「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり」
人間は大きな天の下で生きさせて貰っている。人間が心を虚しくして、一切の邪念を払えば、天の心は自ら見えてくる筈である。