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武田勝頼の傲慢さと強気の性格が招く大敗『家康の軍師 2(朱雀の巻)』

2025-05-16 07:34:10 | 歴史から学ぶ
長篠の戦いで武田勝頼の敗戦は信長の高天神城をわざと落城させた事前作戦で、勝頼の傲慢さから有頂天になり自分が強いと錯覚をうまく利用した戦いとなる。武田の騎馬戦と信長、家康の鉄砲隊と戦いで武田側は1万2千いた兵力の内1万数千を失い壊滅状態となる。また強引な新たな城作りで領民に重税を課したことで武田家の滅亡を招いた、とある。人間貪欲で独りよがりの傲慢さはどの時代でも結果は同じになるを証明したと言えよう。現代、ロシアvsウクライナの戦争でもプーチンの傲慢さと強気な性格はやがて敗退へ進む事になるが、果たして「核」はどうなるのか疑問だ。
『家康の軍師 2(朱雀の巻)』
岩室忍2025年5月
「概要」清州同盟で信長側につくことを決断した家康は、正親町天皇と信長との駆け引きの行方を気にしながら、一向一揆との戦いに明け暮れ、三方ヶ原の戦いでは信玄の強さを目の当たりにし、完敗する。そして、信長を恐れた家康は、自らの妻子に決断を迫られることになる。家康がひたすらに「隠忍自重」の第二巻。
信長の軍師は沢彦宗恩(天下布武を唱えた)、その後随風(36歳)、後に天海僧正と名乗る
・信長は叡山を焼き討ち、義昭を追放「将軍」としての肩書は相互も残る信長の失態
家康の軍師は元今川雪斎禅師、戦国時代の戦略は「遠交近攻」
・家康は圧倒的兵士の数で武田信玄(2万2千)の攻略で大敗、浜松城に命からがら逃げた
・次は浜松城への奇襲かと思われたが信玄の健康状態が悪化、長篠城で逝去する
・信玄の遺言は葬儀は行わず3年間は死を隠し、以外は諏訪湖に沈めることを願った
家督は信勝とし、諏訪四郎勝頼ではなかった、信玄は影武者を使い死を伏せた
・信長の勝頼戦略、それは高天神城をわざと落城させ内部の弱体化を図った
・長篠城での織田方3万8千、2千丁の鉄砲、武田騎馬隊8千騎、1万2千はほぼ壊滅
・勝頼の敗戦要因:傲慢、自分が強いよ錯覚、新たな城作りで領民への重税
ー信長の上洛、正親町天皇、将軍足利義昭
・信長は信玄が南から攻めて来ると浅井・朝倉への攻撃も躊躇、罠を仕掛ける
・伊勢長島の一向一揆撲滅で信長は12万人の兵を招集し3万人を殺戮、犠牲は1千人
織田軍3万は兵農分離で即兵士を招集、京へ登る策を立てる(1ヶ月の食糧)
    兵糧@6合の米、3万人で1日180石、台車5俵で2700台必要、人足5400人
・義昭は1年もしないで復活し信長に反抗する
・京の正倉院「ランジャタイ」の一部を切り取った信長、縁起が悪いと言われた沈香
毛利水軍との戦いは新たな武器「焙烙玉」(陶器の中に火薬を詰め込んだ物)で大勝
・信長は対抗策として鉄の船(鉄甲船)を製造させ毛利軍を追っ払い兵糧運搬を阻止
    全長18間、横幅6間、小型大砲を搭載(マゼンランは14間、4間、170トン
・上杉謙信が馬上で亡くなる(酒が好きで馬上でも酒盃を手放さなかった)
・荒木村重を重宝するが裏切られる(黒田官兵衛が交渉に幾多とらえられ投獄される)
ー家康・信康・築山殿・信長・五徳姫・於方
・お愛との間に家康の3男、後に二代将軍となる秀忠を産む(長松丸)
・五徳姫は罪状12ヶ条なるものを父である信長に酒井忠次から嘆願させた
姑とのいざこざから築山殿と信康が武田との内通があったと信長が知る
・家康と築山殿との関係も悪く、さらに家康の浜松派と信康の岡崎派に分裂を恐れた
・信長は築山殿に自決、信康に切腹を命じした(あくまでも徳川家安泰の為)
・家康は三河・遠江・駿河の東海3国で七十万国の大名になる


軍拡への流れは止めれない『戦時下の政治家は国民に何を語ったか』

2025-05-10 07:38:13 | 歴史から学ぶ
昭和初期の多くの首相答弁は建前として国民生活の為の経済活性化を狙っての発言が目立つが、本質は軍事費への負担増を如何に対処するかが伺え、軍拡への抑止のたびにテロによって首相が暗殺、抑制された。また、金本位制、金輸出解禁などの政策の陰で操る政治家の一部が大儲けしている姿も垣間見える。当時、景気回復のためには戦争は必須であるという軍需関係の政治家vs軍拡を止め軍需・軍事費削減を図ろうとする政治家の対立構造となったが、国民生活よりも国家主体の軍事的発想が国民を幸せになると解き、陸軍などの圧力から無責任な軍拡への勢いが目立った
現代のこの「平和論」vs「戦争論」では、ロシアが言う「核の使用もありえる」と言う極めて威圧的な声明で抑止できる国が不在になったことだ。よって今後世界各国は「核大国の暴挙を防ぐには核保有が必須」との意見も同調できる。しかしそれは究極「人類破滅」への道を極める事になる。果たして日本は今後どんな国策を取っていくのか、無策、無能と言われる今の政治家に期待できそうにない。さらに今の政治家は増税ありきで自己主義者が多く国民生活は全く視野には無い、ことが恐ろしい。


孔子の描く世界観を観る『孔子』

2025-05-09 07:40:49 | 歴史から学ぶ
「論語」は孔子の死後300年後に出来上がった、と言う。架空の愛弟子蔫薑(えんきょう)が物語る本書のように多くの弟子たちが教えを聞き伝えた事で可能となった書物なのだ。ちなみに約2500年前の中国春秋時代末期に生きた孔子と弟子・思想家が、14年間に及ぶ遊説で人々に教え伝えた思想知恵などを綴った書物である。気になった孔子の詩「60にして耳順う、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」60歳になったら人の言葉が素直に耳に入ってくるようになり、70歳になると自分の心の欲するように振る舞っても、道を踏み外すようなことは無くなった。即ち、聞くことに素直になると知恵と考えが人生経験から自信に変わる、と言うことか。孔子が多くを語った字は「天命」「信」「仁」であり、その行動は不幸な人を助けようとする人への愛情、正しいことへの情熱だったとある。
『孔子』井上靖
「概要」聖人の生き方、その言葉に自らの来し方、人生観を重ねる――。二千五百年前、春秋末期の乱世に生きた孔子の人間像を描く歴史小説。『論語』に収められた孔子の詞(ことば)はどのような背景を持って生れてきたのか。十四年にも亘る亡命・遊説の旅は、何を目的としていたのか。孔子と弟子たちが戦乱の中原(ちゅうげん)を放浪する姿を、架空の弟子・蔫薑(えんきょう)が語る形で、独自の解釈を与えてゆく。
ー孔子の職歴
・51歳の時に教育課として声望、魯の中都の宰として仕官し、門人も増えた
・52歳で司空なる土木工事省の長官と昇進、定公の補佐、外交の手腕を中原一帯に広めた
・55歳で魯を追われる形で衛を目指す旅に出る
孔子・子路・顔回・子貢、それに著者に当たる架空の弟子・蔫薑(えんきょう)が14年間の旅
・孔子は55歳の時、14年間に及ぶ亡命・遊説へと旅に出る
・その時の愛弟子は子路は46歳、顔回25歳、子貢24歳、身の回りをお世話した蔫薑は20歳
・孔子は73歳で逝去、子路は63歳、顔回は41歳、子貢は孔子なのど葬儀を行い70歳頃
孔子の魅力
・人間への愛情、正しいことへの情熱、そして不幸な人間をたとえ1人でも少なくしようと言う執念の如き意志
・この世に生まれて来た人間が、やはり生まれて来てよかった。そう思うような社会を作るために、真剣に努力する人間の養成すること
・他人の悲しさ、苦しさがわかる人・いつも感ずる無比の優しさ・常に正しく、真剣に生きようとするその凄さ・年練を感じさせない行動・二人とない明晰な頭脳と教養・隙のない生き方・妥協なく立派な努力・正しく生きることを己に課した人・他人を優しく許す大海のような人間愛・生涯燃え続けた人間愛・威あって猛からず・心にもないことをは一切口から出さなかった
・14年間にわたる遊説で講学を行ったことが功績として残る(多くの弟子に伝えた)
ー愛弟子の魅力
子貢:弁舌巧み、頭脳明晰、魯・衛に官吏を務めた人物、理財の知恵(旅費・葬儀の工面)
・顔回:非凡な頭脳、純真な心を持った俊才、常に勉学に励み、思索、修養努力を惜しまない
・子路:何事も上手く仕切る、嫌なことでも嫌な顔せず尽くす純粋で情熱ある人柄
孔子の言葉(詞)
・「天命を信じて人事を尽くす」「人事を尽くして天命を待つ」「天命に安んじる」
    「天が投げつけてくる禍福を心安らかに受ける」「人生は成敗を度外視しての奮闘」
・「言」とは「信」「仁」(人間が高いに相手の言うことを信ずることができて初めて社会の秩序というものは保たれてゆくのである)
・「近くの者説び、遠き者来る」(政治の政策)
・「逝くものは斯くの如きか、昼夜を舎かず」(生きる力:愛弟子との決別に思う)
    気持ちを新しく、強く持って、一歩一歩足を踏み締めて生きていこう
    あっという間に人間の一生は終わる水の流れと同じで、その短い一生の間に、人は学び、務め、励み、片時も修養を怠ってはならない
・「美なる哉、水。洋洋たる呼たり、丘が渡らざるはこれ命ならんか」(天命)
・「60にして耳順う、70にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」
    60歳になったら人の言葉が素直に耳に入ってくるようになった、70歳になったら、自分の心の欲するように振る舞っても、道を踏み外すようなことは無くなった
・「天、何をか言うや、四時行われ、百物生ず」
    人間は生まれて来たからには何も言わず一つ黙ってやるべきことがある
    己が正しいと思うことを黙ってやり、黙って見ること
・「怪・力・乱・神」次に「背徳・不倫・死逆・乱逆」人の興味を持つもの
・「巧言令色、鮮なし仁」「仁者のみ能く人を好み、能く人を悪む」
    仁の徳を備えたものだけが、好むべき人を好み、悪夢べき人を悪むことができる
・「人にして仁ならずんば、礼を如何せん。人にして仁ならずんば。楽を如何せん」
・「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり」
    人間は大きな天の下で生きさせて貰っている。人間が心を虚しくして、一切の邪念を払えば、天の心は自ら見えてくる筈である。


古典の魅力は「解釈次第」が面白い

2025-05-06 07:36:45 | 歴史から学ぶ
@「古典」として著名な「論語」「中庸」取り上げ、人それぞれの環境において「解釈」することだ、と言う。「切磋琢磨」では教祖うる事ではなく、自分の在り方に合ったやり方で自分を磨くこと、であり、「温故知新」では古いものを大切にする事だけではなく、古いものを知ることで新たな視点・考え方を生むだすことだ、と言う新たな「解釈」をすることが「古典的魅力を引き出す」手法だと教えている。中でも「中庸の5つの理解」(博学:知の空白を一つ埋めていく、審問:詳細な問いを立てる、慎思:じっくり思考する、明弁:答えを分けていく、篤行:丁寧に行う)である現代的な解釈をしてみると、疑問を持ち、詳細を調べ、思考し、仮説を立て、実行してみる、と解釈できる。 
『役に立つ古典』安田登
「概要」私たちは、あの名著を「誤読」していた。
『古事記』『論語』『おくのほそ道』『中庸』──代表的4古典に書かれている「本当のこと」とは? 私たちは何を知っていて何を知らないのか。古典の「要点」さえ理解できれば自分だけの生きる「道」が見えてくる。自分なりの価値観を見出していくために。古今東西の名著に精通する能楽師による、常識をくつがえす古典講義!
ー「学びの基本」古典からいかに学ぶか(転ばぬ先の杖よりも、転んだ後の絆創膏)
ー「論語」孔子 不安はこうすれば和らぐと言う処方箋を伝授「心のマニュアル」
    「我十五にして学に志、三十にして立ち、四十にして迷わず、五十にして天明を知る。六十にして耳順雨、七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」では「解釈」の仕方次第 「四十にして迷わず」は40にして区切らずと理解、それまで手を出さなかったことをあえてやってみる事を解釈する
・「切磋琢磨」(仲間と競い合って向上する)
    手を加えて付加価値をつけること・人の在り方に合ったやり方で磨く    
・「過てば則ちあらたむるに憚ること勿れ」
    悪いところだけを観る
・「己に如かざるものを共とすること勿れ」
    自分と共感ができる人を共とすべき
・「温故知新」(ぐつぐつ煮て知識等を温める)
    煮詰め温かくすることで全く新しい視点や方法が突如浮かぶ
・「仁」人を超えた人
    AI時代に求められる人材「超人」価値観の限界を超えた考えを持った人
ー「奥の細道」松尾芭蕉 俳句を作ると言う環境・旅に出る・リセット(亡霊に出会う能の旅)
    芭蕉の旅「深川~北関東~東北~北陸~大垣」
    体験は受け止め方次第(出来事をどう解釈するか)
・「夏草や兵どもが夢の跡」(義経主従と藤原氏の鎮魂)
・芭蕉の流儀 場所を変える・古典を知る・俳諧的に生きる
ー「中庸」(誠・誠実)
    時代的には新撰組と二宮尊徳「誠」を大切にした人物
    「常にピッタリ」な行動をとれる人、選択ができる人
    「喜怒哀楽」の究極の感情を「中」(中和)と言う
    自分を知り他人に尽くす


「人」を観る目、選択と判断『家康の軍師(青龍の巻)』

2025-04-27 07:33:50 | 歴史から学ぶ
「家康の軍師(青龍の巻)」この第一巻は家康が生まれ桶狭間の戦いまでの小説。今川の人質にいた時の今川義元の軍師太原宗孚雪斎(たいげんそうふせつさい)の元信(家康)への教訓。「其方は死ぬまで忍辱の鎧を脱いではならぬ。どんな時でも我慢をすれば天下の方から近づいてくる」「急ぐな、急ぐとつまずいて転ぶ。転ぶと乱世では立ち上がれなくなる」「臆病は悪いことではない。その代わり知恵を得るため人の話をよく聞くことだ。そして少しばかり勇気を持て、蛮勇はいかんぞ」「彼を知り己を知れば、百戦して危うからず」「人を見誤るな」
戦国の軍師とは己の立場を知り冷静に敵の動きに敏感に戦略戦術を組む、全ては「人」なのだという。現代も同じことが言えるが、さらに生成AIなどを利用したあらゆる可能性を弾き出した上での選択は「人」ということになるのか。
『家康の軍師(青龍の巻)』岩室忍
「概要」天文11年(1542)年の三河岡崎城。弱小大名の松平家に誕生した家康は、人質として各地で幼少期を過ごす。尾張の織田家での信長との出会い、駿河の今川家での太原雪斎との出会いなど、生涯にわたって影響を及ぶ武将との出会いに恵まれ、家康は成長し、乱世に一歩を踏み出した。これまでの「強い」家康像を覆す、岩室流「泣き虫家康」、開幕。
今川義元の軍師太原宗孚雪斎(たいげんそうふせつさい)
・雪斎は信玄の軍師山本勘助と同じ駿河庵原城主の一族
・雪斎は常庵龍宗で三男の芳菊丸のちの義元を鍛えた(上二人の兄が亡くなり当主となる)
・足利幕府の一族である今川は衰える足利幕府を支えるための上洛を考えていた
    足利御三家:吉良家・渋川家・石橋家、今川家は守護
・雪斎と宗恩は同じ妙心寺で修行、今川軍の支柱・宰相は60歳で織田との戦い前(桶狭間の戦い)に逝去
・竹千代は駿府での人質として雪斎から「万民を助くべし」を学ぶ
・竹千代と同伴した家来は11名、外祖母の於大の母の世話になった
・「天下3分の計」
    甲斐との交渉で「塩」は越後が欲しい、互いに敵の領土を後方に気にする事なく戦える交渉をする
    北條・今川・武田との交渉(娘の婚姻・領土を互いに広げる策と互いの同盟)
    北條には武蔵、上総、上野、下総
    武田には信濃、美濃、越後、越中、越前
    今川には三河、尾張、伊勢
・軍師太原宗孚雪斎からの教訓
「其方は死ぬまで忍辱の鎧を脱いではならぬ。どんな土器でも我慢をすれば天下の方から近づいてくる」「急ぐな、急ぐとつまずいて転ぶ。転ぶと乱世では立ち上がれなくなる」「臆病はあるいことではない。その代わり知恵を見に他受け人の話をよく聞くことだ。そして少しばから勇気を持て、蛮勇は如何ぞ」「彼を知り己を知れば、百戦して危うからずとは人」「人を見誤るな」
織田信長の博学・軍師沢彦宗恩(たくげんそうおん)
・義元を闘う兵士の数は7~800人
・信長が元康(家康)と清洲城で再会・和睦(信長29歳、家康21歳)
竹千代のちの徳川家康の守護神大雲永瑞和尚(文殊菩薩)
・母親於大は再嫁し知多阿古居城に和尚と移る
・織田家の人質:泣き虫竹千代時代、家臣として半蔵などもお供した(七人の家来)
・関口義広、今川一族・花澤城城主の娘・瀬名(のちの築山殿)と婚姻、娘を授かる
・義元上洛の時には元信は初陣、先鋒、三河へ出陣(近習10数名)登誉天室の僧侶で増兵
駿府の源応尼の書状で登誉天室「厭離穢土欣求浄土」を抱えて元信を助ける
・今川軍の死者は二千七百人余り、織田軍は七百二十人余り、六角軍二百七十人
・義元が信長に奇襲を受け今川軍は撤退、三河岡崎城へ元信は陣取る(3千人の石高)
姑問題(母於大と妻瀬名「織田方vs今川方」)が後々の子供に影響する
・信長の娘が家康の信康と婚姻、だが今川寄りの育ちで信長とぶつかる
・家康は正室2人、側室20人(男11人、女5人、落胤9人、養子3人、養女22人)
・家康は従5位を近衛前久の交流から得る


関東一円に勢力を伸ばし800年続く一族家系を築く『佐竹一族』

2025-04-07 07:40:45 | 歴史から学ぶ
茨城を中心に関東一円、更に全国に勢力(分散)を伸ばした「佐竹一族」は1055(平安時代)年から1871年(明治初期・廃藩置県)まで800年続く大規模で長い家系一族(佐竹宗家:36代)である。因みに1086年に白河上皇の院政が始まり1159年には平治の乱(平清盛vs源頼朝)、1189年には奥州合戦(藤原氏滅亡)、1192年源頼朝の鎌倉幕府、1221年承久の乱(後鳥羽上皇公家と北條幕府)などが続くが、佐竹一族は同族の戦いが100年毎に繰り返され、特に南北朝内乱では後醍醐天皇公家側と足利尊氏の幕府側に兄弟が相見える争い、足利幕府内での観応の乱では尊氏と義栓との間での争いも佐竹一族は互いに戦った。佐竹義宣の時代には上杉家からの後継者(竹に杉は継なげない)でも一族での内乱を起こした。佐竹一族では仏僧系になるもの絵師になるもの現れ、その後北条家、伊達家、豊臣家、徳川家などに仕えた。佐竹一族は上杉、伊達に次いで金山の運上が多く、製塩なども構築、1590年本拠を太田から水戸(豊臣時代:54万石)へと移る。1600年には秋田藩主20万石(12代と続く)となり明治を迎える。また、佐竹一族は日本各地に多くの支流・分家一族で京都・美濃・和泉・土佐に拠点を構えた一大家系である。一族を支えたものは互いに争いしたが、主張を尊重したことなのか。


600年継続させたオスマン帝国の秘訣『オスマン帝国は如何に「中世」を終わらせたか』

2025-03-20 07:35:52 | 歴史から学ぶ
千年続いたビザンツ帝国(東ローマ帝国)をオスマン皇帝メトメフ2世が征服、徳川幕府は264年間だが、オスマン帝国(一部現ウクライナ領土含む)は600年続く、第一次世界大戦まで継続した史実に驚愕した。その秘密は妻は奴隷とカーヌーンと言う規範書(中には「世界秩序のためには兄弟を処刑しても良い」)で築かれた歴史だ。妻は他の勢力帝国・権力者系との結婚はせず、決して兄弟、高い地位にある高官・宰相などを完全に信頼することなく、皇帝自らが妻を選び、英才教育を施した奴隷らを抜擢していくことを優先したことだ。政治における懸念材料(オスマン帝国の滅亡の要因)は当初は宗教との共存、平等であり、オスマン帝国は3つの宗教、イスラム、ユダヤ、キリストを混在させ、中央集権国家としてバランスをとっていた。だが、イスラム(ムスリム)を凌ぐキリスト教徒勢力で弱体化、時代と共に周辺領土の権力者が独立、更に軍団の分裂で滅亡、トルコ共和国となる。
『オスマン帝国は如何に「中世」を終わらせたか』小笠原弘幸
「概要」辺境の地から現れた謎の戦士集団――彼らは一千年の都を滅ぼし、新時代の幕を開いた。オスマン帝国は、なぜビザンツ帝国を滅ぼすことができたのか? そこから続くオスマン帝国の興隆は、キリスト教とイスラム教という二つの文明が交錯する、その転換点であると共に、新時代へと移行する歴史の分岐点でもあった。稀代の征服者メフメト2世がもたらした一大事件の世界史的意義について考える。
330年ローマ帝国から分裂した東ローマ帝国「ビザンツ帝国」となり、その後1453年オスマン帝国が征服、1922年にトルコ共和国となる(都市名がイスタンブルと変更)
ー千年も続いたビザンツ帝国をオスマンがその都市コンスタンティノーブルを征服
・皇帝メフメト2世が難攻不落の城「3重の城壁」(テオドシウス城壁)を2か月で征服
・入江にルメリ城塞を建設、外国船の監視、海峡を封鎖(20門の大砲)海峡の制海権を握る
・巨砲と艦船の造設(600kgの砲弾で距離1500mと40隻から100隻)
・報復への言葉「我がこの都を奪うか、この都が我を倒すか」10万近くの戦闘兵士vs数千人
・「艦隊の陸ごえ」と言う説、封鎖された海を陸超えで侵入、防衛の弱い海側側攻め入った
ー征服後の対応
・住民・人的資源を利用し破壊された城壁等を修復させた、略奪を最小限に止めた
・捕虜となっていたオスマン帝国兵士を解放、金銭的支援をした
・敵であった貴族役人等は復興に取り立て活用した
・皇帝コンスタンティヌス11世は行方不明、高官ノタラスは処刑された
・隣国のベネチアは同盟し2%の関税で合意、商業を続けさせた
・敵国であるキリスト教徒諸国などの十字軍は自国の混乱等で遠征できず壊滅
オスマン帝国は3つの宗教が存在(イスラム教・ユダヤ教・キリスト教)
・トプカプ宮殿の建設(内向外交・人材育成・ハレムで後継者教育)400年利用
・伝統的なワクフ(宗教寄進制度)を推薦し社会インフラで街作り、人口増を図った
    ムスリム、非ムスリムを問わず帝都への移住を強制的に行い7万から40万人に増やす
権力争いが無かったのは後継者の子=奴隷を妻・妾にしていた事(他の君主の娘には避妊操作)
・重要は人材もほとんどすべて奴隷からの抜擢したことで2人を除き謀反などなかった
    ヴィラド3世ワラキア公、アルバニアスカンデル・ベグも元ムトラ2世の小姓
ー歴代皇帝
・「世界秩序のためには兄弟を処刑しても良い」が後日メフメト3世は19人の成人・弟を処刑
・バヤズイト2世でメフメト2世の政策から逆行、遠征せず、中央政権の緩和から低迷始める
・征服活動(遠征)・中央集権化・宗派化をセリム1世が緩和、スレイマン1世が完成させる
・第28代セリム3世から第30代マフムト2世はイエニチェリ軍団の権力と近代化で内乱西洋干渉
民族・宗教の「共存」「平等」での国家は永続しない
    1829年以降民族的主義旺盛・ギリシャ・セルビア・ルーマニア・モンテネグロ独立
バルカン戦争(1912~13)で敗戦、ムスリムトルコ民族主義でオスマン帝国破綻 オスマン帝国は600年継続した
オスマン帝国家系図から現代大統領
    オスマン1世(1299~1323)~ムトラ1世(1362~89)~メトメフ2世(1413~21)
    ムトラ2世(1421~51)~セリム1世(1512~20)~スレイマン1世(1520~66)
    トルコ初代大統領ムスタファ・ケマル(1881~1938)~エルドアン現大統領(2002~)
ートルコ映画「征服 1453」 ドラマ「オスマン帝国外伝」


「時の勢いに駆り立てられる」無謀な行動と陰謀『昭和史1926~1945』

2025-03-18 12:19:25 | 歴史から学ぶ
1926年から満州・上海での一連の事件・戦争は前線陸軍の単独行動と暴走(天皇・元帥の命令なしで行動「統師権干犯」)軍の陰謀から満州事変へと発展、更に分派(統制派と皇道派)との争いから、皇道派による2.26事件(政治腐敗や農村貧困を訴えた)により国政は軍事一色へと大きく傾いた。結局、現在でも置かれた環境の機運で事が悪くても進めざるを得なくなる政治体質は変わっていないと感じた。史実で昭和天皇への報告は偽りが多く、当初内閣、軍隊官僚が事件発端の軍人行動を軍律で押さえ付けられなかった怠慢責任は重大で且つ致命傷で、その後の第2次世界大戦への火蓋は、近衛文麿首相など強力なリーダーシップのない人物が祭り上げられ米国の戦争への引き金(日米の最終交渉に望みを捨てた行動)を許したことは決して許されるものでは無い。歴史から学べることは多く、戦前の二の舞を踏まないように近隣諸国との交渉を持ち、米国頼りからの脱皮が必須とされる時期が来たと感じる。
本書の歴史から学べる事柄:
1、時の勢いに駆り立てられてはいけない(周りから判断し慎重に行動するべし、選択・判断力)
2、過剰な自信とエゴは方向を見誤る(思い上がり、うのぼれなどエゴと自信過剰に注意)
3、課題・問題対処を先送りせず、責任の所在等を明確に、対処する(問題処理と説明責任)
4、最新・近代化へ目配りから先を読む努力と時の政策を打ち出す(最新情報の収集と予測・展開)
『昭和史1926~1945』半藤一利
「概要」授業形式の語り下ろしで「わかりやすい通史」として絶賛を博した半藤一利さんの「昭和史」シリーズ戦前・戦中篇。日本人はなぜ戦争を繰り返したのか――。すべての大事件の前には必ず小事件が起こるもの。国民的熱狂の危険、抽象的な観念論への戒めなどがある。
ー昭和史の根底には“赤い夕陽の満洲”があった(5大強国への慢心)
・ポーツマス条約により満州の利権を持つ(当初1万人の関東軍が最終的に70万人に増加)
資源(鉄、石油、錫、亜鉛)を求め植民地化
・日本国人口問題(流出先として選択)満州には40万人から50万人が移住した
・清国の孫文、蒋介石の辛亥改革勃発、中華民国へと動き中国共産党軍との衝突(満州事変)
・第一次世界大戦後の戦勝国(27カ国)、ベルサイユ条約を経て国際連盟で軍縮となる
・日本の劣勢(中国における利権保護を廃棄され)国際連盟を脱退、独自の外交を進む
昭和は“陰謀”と“魔法の杖”で開幕した(最前線の陸軍人たちの陰謀による暴発)
・辛亥革命後に張作霖爆殺事件を陸軍が故意に実施
・「統師権干犯」(魔法の杖)天皇に周りの人間が虚い報告(軍師は北一輝と言う)
・軍人石原莞爾らが中国軍張学良の仕業に見せかけ鉄道を爆破、満洲事変につながる
・新聞・ラジオ等での報道で関東軍擁護に戦争を煽ったことで国民も火がつく
    国家予算:昭和8年度22億3千8百万円の巨額
・分派(統制派と皇道派)による軍内部の混乱が勃発(首相・大臣の交代)
・皇道派による政治腐敗や農村貧困を訴えた二・二六事件で国政は軍事一色へと傾く
ー日中戦争・旗行列提灯行列の波は続いた(危惧した高級幹部・国家総動員法・日中戦争へ)
・蒋介石の国民政府軍と毛沢東の中国共産党軍の内乱から対日本軍へと(抗日民族統一戦線)
盧溝橋での中国軍による銃撃事件で日本軍と中国軍が戦闘状態になり(1937年)南京事件へ
    最初の1発目は中国の抗日は学生か共産分子の仕業(第三者による双方に発砲の陰謀)
    南京虐殺(30万人)は無かった(30万も存在せず中国軍逃亡者3万人があった事実)
・政府も軍部も強気一点張り、そしてノモンハンでソ連軍との対峙(1939年失敗の連続となる)
    巨大戦艦5隻建造計画大和と武蔵(4万m飛ぶ主砲)=低水準の火力能力・気力のみ
    関東軍の強気でソ連との国境紛争(4千km)に独自行動(双方の不法侵入で言いがかり)
    (日本軍5万8925人の内3分の1が死傷、大敗したvsソ連2万4992人)
    1939年ドイツとソ連が不可侵条約締結(日本との3国同盟間近)
ー第2次大戦の勃発があらゆる問題を吹き飛ばした
・日独伊の三国同盟に反対したのが海軍大臣米内光政、次官山本五十六、軍務局長井上成美
・陸軍の「他人の褌で相撲を取る」(対ソ連)同盟に賛同、海軍の対米英協調論が消える
    山本五十六の遺言「戦場で死ぬのも内地で銃後で死ぬのも同じだ、むしろ戦場で弾に当たって死ぬほうが易しい。自分の思いを貫き、いかなる俗論にも負けずに『斃れてのち止む」方がよほど難しい。この身は滅んでもいい、しかしこの志は奪う事はできない」
・北シナ方面山下奉文「矢はすでに弦を離れた。もはや容疑者の引き渡しで終わるものでは無い。イギリス租界官憲が日本との建設に合意する新政策を高く掲げるまで武器を捨てる事はない」日本の報道は一斉に「イギリスよ日本の言うことを聞け」等宣言報道を出した。
・1939年9月1日ヒトラーによる第一号命令書にサイン、ポーランド進撃開始(第2次世界大戦)
    1940年パリ陥落で日独伊3国同盟締結、近衛文麿首相で更に戦争悪化と混沌
・1940年日米通商航海条約を破棄により米国は敵対行動を開始する(米国の輸出規制強化)
    同年米国は原子爆弾の製造への道を開く・日本は零戦闘機配置
・ドイツの選択(ソ連との不可侵条約)はソ連による英仏との接近を恐れた
    ソ連は対日本軍にノモンハンへの強力部隊派遣・「見れど見えず」状態へ
    天皇は英米に対して協調しなくてはならないと主張していた
    吉田海相は三国同盟は米国を敵に回すと最後まで断固反対した(米内・山本・井上含め)
・山本五十六「海軍内部の統制に完全服従するが、三国同盟で英米勢力圏からの資材調達失い、どう変更するべきか聞かせて欲しい」と参議官等に問うが誰も返答無し。海軍は陸軍と違い戦闘機および戦艦の多くの原料が必要であり調達先が不明のまま、軍事行動せざるを得なかった。そこで生まれたのが「奇襲攻撃:ハワイの軍艦・空母」だった。
・山本の親友堀悌吉中将「内乱では国は滅びない。戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」
ー御前会議から戦争開始への決議
・近衛首相は米国との最後の交渉会議を諦め辞任、開戦を迫った東條内閣を推奨
・開戦強行派らの内閣、松岡外相の断固たるアジアでの南北への開戦を進めた
・米国国務長官コーデル・ハル「ハル・ノート」は一才日本の条件は承認せず
    米国は既に日本の暗号解読から事前に了解していた(日本の資源不足と開戦決議)
ー開戦前の日本vs米国戦力(米国の7割を確保できる予測で、「戦争にノー」と言わなかった)
・飛行機:3800機vs 米国5500機、戦艦:10隻vs17隻、航空母艦:10隻vs8隻、
    重巡洋艦:18vs18、軽巡洋艦:20vs19、駆逐艦:112vs72、潜水艦:65vs111
    総艦艇数:235隻・97万5793トンvs345隻・138万2026トン
・海軍は最後の最後まで日米交渉の前途を思い、奇襲作戦はギリギリまで待機した
・最後通牒での不手際は米国外務省の職員の怠慢で攻撃30分前となった
    米国は日本からの暗号解読で完全に読み取っており、日本の先制攻撃が必須だった
    ルーズベルト大統領は「侮辱の日」「騙し討ち」と非難した声明文を国民に発表
ーハワイ奇襲(12月8日)
・飛行機353機、米国の太平洋艦隊を攻撃、空母はいなかった
・日本として「自存自衛のためにやむを得ずして立ち上がる」として報道
ミッドウエー海戦からガダルカナル島へ敗北への道
    「運命の5分間」攻撃用の魚雷と陸の爆弾の積み替え作業のロスで艦隊惨敗
    海軍の勝ちに驕り、うのぼれのぼせで敵の監視をしていなかったのが主の理由
・米国の大規模な上陸作戦に兵器、食糧不足(米国輸送船など輸送路を抑えが逆転)
・山本五十六長官の戦闘機攻撃を受け戦死(暗号解読で尾行)
・無謀で個人的な野望のインパール作戦で3万人戦死(病気・食糧不足)
    後方支援なし、補給なしの無謀な牟田口中将の勲章欲50日戦略
・サイパン島玉砕から特攻隊「志願兵」(250k爆弾抱えた戦闘機)が開始
    神風:敷島隊(5機)、大和隊(6機)、朝日隊(2機)、山桜隊(2機)
    B29爆撃機がサイパンから東京上空へ発進(1944年11月)
    闇取引など国内では物価が10倍以上値上がり(非国民告発運動)
ー日本降伏ーヤルタ会談
・1945年ルーズベルト・チャーチル・スターリン領土占領・制空権獲得
 ・当初ソ連は樺太南半分、千島列島、大連、旅順、南満州鉄道を返して欲しいと嘆願
・8月15日以降にソ連は無力の日本へ侵入、できるだけ領土獲得を狙った
        戦死者8万人、57万4538名が捕虜としてソ連に連行(帰還者は47万2942人)
・ロシアの日本への貪欲な奪回戦略を知った米国は日本を早く降伏させようと原爆投下計画
    焼夷弾で焼き尽くすことかでの攻撃開始(原爆投下計画は1945年4月23日決定)
・戦艦大和は米軍380機で沈没、2740人が戦死、その他巡洋艦等で980人も戦死
・最後の内閣鈴木貫太郎が「最後の一兵まで戦う」と宣言
・1945年4月13日ルーズベルト死去、4月28日ムッソリーニ銃殺、4月30日ヒトラー自殺
    1943年9月イタリア降伏、1945年5月7日ドイツ降伏、ポツダム宣言7月24日
・1945年8月6日広島、9日長崎原爆投下、ソ連が日本へ侵攻開始
    ポツダム宣言受諾、「米国制限下におかる」とした連行最高司令官判断となる
    天皇の「聖断」に対する軍部は納得し得なかった(8月10日軍部クーデタ計画あり)
    14日連合国へ通達、9月2日ミズーリ艦船上で「降伏の調印」となる
ー占領後の軍隊・国民(各国の軍隊配置9ヶ月)
・米軍85万人本土統治(関東・中部・近畿に31万5千人配置)
・英国軍16万5千人(中国・九州)
・中国軍13万(四国・近畿)
・ソ連軍21万(東北・北海道)
3百10万人の戦死者
    8月15日ラジオ放送で天皇自らが終戦をつげる
    1926年から1945年までに戦死者3百万人以上
    戦争末期での特攻隊では海軍2632人、陸軍1983人が戦死した
歴史に学べ
・国民的熱狂を作ってはいけない(時の勢いに駆り立てられてはいけない:三国同盟など)
・抽象的な観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論を全く検討しない(勝手な論理)
・日本型蛸壷社会における集団主義の弊害(エリート集団のエゴと過剰な自信)
・降伏は正式な調印がなければ宣言だけでは認証されない(国際常識)
・ことに対する対処療法的でその場その場を誤魔化し処理する(複眼的な考えを持たない)
ーノモンハン事件から学ぶ(1万7700人の戦死者)
・思いあがり「敵は日本軍が出動すれば退却する」
・敗北を素直に認めない(更なる敗北へとつながる・反省しない)
・旧式銃で対抗(本営での近代化兵器への開発・戦略・努力不足)
・最前線での事実・結果を参謀等が正しく伝えない(天皇への報告も偽り)
・軍律の怠慢人事・配置など(失敗した服部・辻参謀を再採用、敗戦への再編と無責任)


リーダーシップの基本は部下を信頼し任せる『歴史を応用する力』

2025-03-05 07:35:07 | 歴史から学ぶ
中国呉漢王朝の光武帝(劉秀)などやはり人物に共通することは信用し、信頼される部下が多いことだ。その前の「項羽と劉邦」時代で20万人もの兵士を生き埋めに恩賞必罰が厳しい項羽など劉邦との格段の人格の差が天下統一できない理由でもあった。その劉秀の3つの言葉が気になった。「赤心を推して人の腹中に置く」銅馬を殺さず高位に取り立て、身を晒し信用を得た、「疾風にして勁草を知る」激しい風が吹いて初めてどの草が強いか分かる、「隴を得て蜀を望む」人間の欲望はキリがないものだ
『歴史を応用する力』宮城谷昌光
「概要」中国歴史小説の第一人者が、光武帝と呉漢、項羽と劉邦の生涯をたどりながら、ビジネスや人間関係における考え方のヒントを、具体的に平易な語り口で解説する。伊藤忠元会長、丹羽氏との対談も収録。文庫オリジナル。
ー光武帝・劉秀と呉漢
    夏王朝から後漢王朝(紀元前2070年~)「酒池肉林」紂王の悪辣を表現・快楽の表現
    殷王朝から周王朝(紀元前1046年~221年)800年続く戦国時代(春秋時代ともいう)
    その後秦の始皇帝が全国統一、始皇帝の死後、劉邦と項羽による前漢王朝をとなる
    25年に光武帝(劉秀)が後漢王朝を打ち立てる(日本は室町から戦国時代に)
    劉秀は王莽を圧制、王郎に奪われるが白衣の老人から更始帝を味方に光武帝として統一
        劉秀:人を赦し、恨みを返さない肝っ玉の大きな人物
    劉秀の3つの言葉
    「銅馬を殺さず高位に取り立て、身を晒し信用を得た」(赤心を推して人の腹中に置く)
    「疾風にして勁草を知る」(激しい風が吹いて初めてどの草が強いか分かる)
    「隴を得て蜀を望む」(人間の欲望はキリがないものだ)
    呉漢という男 (劉秀の情報参謀的役割・軍師を果たす)    
        亭長(町の警察署長)情報収集のため食客を養って王郎に疑問、劉秀に参画
        常に配下の兵に武器を手入れさせ常に油断をせず 猛烈な速さで出陣した
ー項羽と劉邦 (形式主義者vs老子思想家:劉邦は漢の高祖(農民から帝初めての皇帝)
    少年時代は家を手伝わず、遊び人(渡世人)、食客身分から沛県の亭長(40歳代)
    47歳の時に始皇帝が没、胡亥が皇帝になるが内乱が続き殺される
    48歳で挙兵(陳勝・呉広を傍観)感の良さで動く、県令を後ろ盾に沛県を守る
    韓の大臣の息子・張良が事務方軍師になり戦略を立てる
    「背水の陣」を謳った韓信戦略家軍師
    元楚の項梁将軍と組み、函谷関を閉めたことでの項羽に赦免(鴻門の会)
    宋羲・秦兵士20万人を生き埋めた項羽(56万の兵士)との戦いとなる
    項羽vs劉邦(恩賞と刑罰:負けは厳しく処罰vs賦役を免除、強制労働を許可)
    劉邦は思想的な垣根、感情的な好悪をあえて作らず老子思想を重んじた
            人間的な魅力持った劉邦は自立性を重んじ任せる(独創性や発想力)    
小林一三「一度や2度の失敗くらいで、挫けるものか」
丹羽宇一郎「社内の命令は言葉ではなく背中をみせ、背中で部下を引っ張って行くこと」
マキャベリ「自分がそういう立場になった時にどうするか今のうちに考えろ」
ドラッカー「成功する人は、言葉を大切にする人だ」
本田宗一郎「信長の暗さから突失した気性、新しいものを発見するあくなき好奇心、発明してお行く強い発想力、旧弊を破っていく比類のない勇気」


「老人の跋扈」で悩ます日本企業の成長『住友を破壊した男』

2025-03-04 07:37:43 | 歴史から学ぶ
@日本は200年も存続する企業があるが、本書にあるこの言葉が気になった「企業は人間の組織だ。それは成功すればするほど保守的になっていく。成功は日々、過去になっていく。人は過去に執着し、成功体験を壊すことはできない。その結果企業は低迷する。成功体験を破壊する強い意志を持って行動しなければ、すぐに陳腐な企業になる」また、「事業の進歩に最も在するものは青年の過失ではなく、老人の跋扈である」という企業存続秘訣の言葉だ。政治体制も含めて古い体制、ロートルばかりでは下の者は意見すら言えない環境となり、権力と地位を守ろうとしがみつく。気がついた時には崩壊寸前、または大きな負担を次世代が背負う羽目になるのだ。そろそろ日本でも国民が納得する大改革が必須な時代になった、そう感じる。
『住友を破壊した男』江上剛
「概要」十倉雅和氏(経団連会長・住友化学会長)、絶賛!「住友の事業精神の原点は、ここにあった」煙害問題の解決、企業の利ではなく人々のために……。”ESGの先駆者"伊庭貞剛の生涯を描き切った感動のノンフィクションノベル。この男なくして「住友」は語れない! 幕末、志士として活動後、司法官となった伊庭貞剛は、叔父で総理事の広瀬宰平に招聘され、住友に入社する。しかし当時の住友は、別子銅山の煙害問題を抱え、さらには宰平の独断専行が目にあまるほどであった。住友財閥の中にありながらも、住友を破壊せんばかりの覚悟を持って改革に臨んだ、“住友中興の祖”とよばれる経営者に光をあてた傑作長編小説。
住友家 家訓「国土報恩」(会社の利益より国土、地元への利益還元を優先)
・伊庭貞剛は「住友中興の祖」2代目住友総理事(住友グループを創設58歳で引退、80歳で没)
・貞剛の母「人の上に立つ人は、人より低いところにいなければなりません」『貞観政要』
・孔子「人民に尊敬と忠義と勧業を上から要求するのではなく、まず自らが姿勢を正さなければならない」『論語』
・老子「学問とは表面に現れた物のをそのまま信じるのではなく、その奥に隠れている真を探る、あるいは考え抜くものなのだ」
ー叔父の宰平に誘われ、入社した別子銅山33歳で裁判官判事から転職、本店支配人を任命
・恩師の言葉「信じる道を行きなさい、道に志し、徳に拠り、任に拠り、芸に遊ぶ『論語』」
    「随所に主と作る」『臨済録』その場その場で主人公となれ、そうすれば自分のいる場所が真実の場所になる
・転職の理由:長州志士、新政府内部での私物化による腐敗と汚職が蔓延
ー別子銅山での経営
・月給・等級性、能力主義をで「子抱」を廃止、実力のあるものが経営に当たる仕組み
    「無能頑愚の者、上等に座し、その権を振るい候謂れ、これ無き候事」
・だが叔父の宰平が傲慢になり、強引に結果を求め、周りの農村民に対し毒煙をばら撒く
・同じく足尾銅山でも鉱毒問題が農民を苦しめ閉山に追い込まれようとしていた
ー貞剛は一人現場に乗り込み解決しようとするが思い通りにはいかず農民からの抗議が続いた
・「己を信じ切ることだ。外に何かをもめるのではない、己の中に全てがある」『信不及』
・「上中下3字の説」上のものはしたの元としたのものは上のものとよく言葉を交わすこと
    「上」を逆さにすると「下」、「中」」は口に一本の縦棒「言葉」を挟む
・恩師僧侶の俄山の対処「愚」
・人々を差別化することなく会話し付き合う
    小吉(炭鉱の子供ら)への無償で学校入学
    年間2百万本の植林を決定(別子銅山の敷地東京ドームの1万4千個)
・宰平に辞職してもらい、工場を四阪島に移転させることを決議
    宰平の貢献した名誉と信頼を維持しながらの取り組み(住友家友純の依願解雇書)
    「小刀」を前に決心する会議・混乱を招いた人物も辞職させ(両成敗)
ー大惨事(洪水)
・新居浜・地区での豪雨で808人の死者、内別子山では584人が亡くなった(禿山の怒り)
ー貞剛が総理事で行って事業(住友グループでの多角化)
・住友銀行、住友金属工業、住友電工、住友軽金属、住友林業、住友建設、住友倉庫など創設
経営者の勤め
・トップの独裁的権限を振るわせない組織への変更(重役会での審議を経ること)「住友は万機公論に決すべし、独裁は許さない」
・後継者を育て、後進に道を譲り、早期に実権をも譲る覚悟を持つこと
・「事業の進歩に最も在するものは青年の過失ではなく、老人の跋扈である」
    軽々という刃物で、大抵は経験者の命令に盲従する


「改暦」を朝廷・幕府に認めさせた偉大な碁士『天地明察(下)』

2025-02-27 07:37:00 | 歴史から学ぶ
世の中で間違った法規、規制は現在でも多く、変更、改正させるには頂点に居る関係者の同意を得るための多くの時間と費用がかかる。本書にある「改暦」への渋川春海の生涯をかけた試みはどうやり遂げたか。1、庶民の圧倒的な賛同を利用、2、証明を見える化、3、関係者への根回しなど、時間をかけ底辺からの説得、納得から勝ち得た地道な努力の「勝利」となったことだ。
『天地明察(下)』冲方丁
「概要」改暦の総大将に選ばれた渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が幕開く。渋川春海の20年にわたる奮闘・挫折・喜び、そして恋!
ー会津藩主保科正之からの奇妙な使命が出る。「この国に正しい天理をもたらせ」と改暦を命令
    保科正之、現実幕閣の指導決定者は会津藩での飢餓対策「飢餓は君主の名折れ」(会津に飢人なし)と言われる飢餓救済改革(備蓄政策)を実行、江戸での明暦の大火でも食糧不足を備蓄を放出など物資高騰を抑え、民の生活向上へ努力した。火災後の天守閣を再建しないと主張したのも正之
ー「改暦」宗教統制(聖域)からて天皇からの職務「観象授時」の権限を奪う事などの解釈が出る だが、最後の月蝕において間違いが発生し採用とはならず、やり直しに10年かかると予測
ー採用の止めによる挫折と更に支援者が次々と逝去、その中には保科正之、大老の酒井など同僚の不幸も重なった。だが、功名が一つ、塾での恩師が自分の算術成果の資料を渡されや、昔であった娘との婚姻を約束、水戸の光圀公が金銭的支援を申し出て再開する。
10年近くの綿密な研究調査のやり直しでついに完成、大和暦として「800年かけて2日のずれがある」ことを証明する行動へと動く。「己を治めて正しくし、私をなくすくこと。仁恵をおのんじて民に施し、民を安じること。多くを好んで問い、世情を詳しく知ること」、それは路上での公開討論、世論形成、土御門家への朱印状、関白の確約、販売網の掌握など多くの「改暦」手紙を関係者に送った。


江戸時代の天体観測から改暦への努力『天地明察(上)』

2025-02-27 07:36:41 | 歴史から学ぶ
大老酒井から日本の端から端を周り天体観測と地理測量をするように命令を受けた。そこから浮き上がる暦と占術の謎が浮き上がって来ると会津藩藩主保科正之(幕府での執行者)からも謎が絡む使命が出てきた。それは日本の朝廷・幕府等の大勢から宗教、習慣文化を大きく変える可能性のある事態を招くことになる。
『天地明察(上)』冲方丁
「概要」4代将軍家綱の治世、日本独自の暦を作る事業が立ち上がる。当時の暦は正確さを失いずれが生じ始めていた。日本文化を変えた大計画を個の成長物語として瑞々しく描く時代小説! 
ー渋川春海は碁打ち師匠として江戸城で将軍始め老中たちと相手する。ある日筆頭老中の酒井から呼び出して碁を打つことになり質問攻めに会う。算術も心掛けた春海は退屈な碁打ちから新たな仕事を任される。それは「北極星を見てまいれ」という命令だった。
ー暦術・算術に興味を持った事で老中からの命令は日本を1年以上かけて観測して回ることになる。隊長は62歳の天文暦学に携わる右筆者、副長は57歳の医者、総勢14名で出立、小田原、熱田神宮、伊勢神宮はじめ四国、九州、山陽・山陰を周り調子の犬吠埼をから東北を周り、天体観測と地理測量を調査した。
暦は3つ、幕府が公認していた伊豆三島大社の三島暦、京都の京暦、伊勢の伊勢暦、更に吉凶の列記した頒暦がある。また暦には85年間で後嵯峨天皇と陰陽頭の賀茂保憲が提言していた。


「人の才不才は環境による」とは才能があっても環境による『張良』

2025-02-25 07:32:53 | 歴史から学ぶ
張良は代々韓の宰相の家系で、春秋時代、始皇帝の後、劉邦(高祖)の宰相・軍師となり活躍した人物だ。張良は「鋭い勘」と「人を見抜く力」で周りから慕われた人物、その「勘」は綿密で且つ的確な情報網に支えられていた。(我を知り敵を知る)
春秋時代、始皇帝は宰相に「法吏」の李斯を登用(法を重んじる官僚「法吏」、薬学に詳しい「方士」そして、伝統を尊ぶ学者「儒生」)「法吏」だけを重要視した、そのことが敗北に繋がったとある。劉邦(高祖)は決断も行動も素早く、また人を信頼し、公平平等に人を育て、不成者でも人の扱いが上手く反秦・反項羽の兵士を多くかき集めた、とある。劉邦の言葉「誅策では我は子房(張良)に及ばず、糧道では蕭何に及ばず、戦いでは韓信に及ばない、この3者は皆傑人であるが、我は彼らを用いた。これが我の天下をとった所以である」とあくまでも謙遜的だった。また、始皇帝の軍師・丞相李斯の言葉「どんなに才能があっても、環境が悪ければその才能は生かされない」
森永卓郎氏の言葉「親の所得が子どもの最終学歴を決める理不尽な時代」、と似ている。
『張良』宮城谷昌光
「概要」秦に祖国・韓を滅ぼされた張良は、秦への復讐と韓の復興を誓う。多くの食客を使って素早く情報を集め、劉邦に軍略を授けてその覇業を助けた張良の鮮烈な生涯を描く。


恩義と人の平等を貫く『夜明けの雷鳴』

2025-02-18 07:41:32 | 歴史から学ぶ
幕末の医師高松凌雲はパリでの最新医術の取得で戊辰戦争、東京の大洪水で負傷、被災した多くの人々を救ったことは、徳川への恩返しであり幕府側で戦死した凌雲の兄弟含め勇気を持って意志を貫いた抜いた事は人間として素晴らしい人だったと感銘する。また敵である薩摩藩士村橋氏、池田氏の姿勢も病人、負傷者には危害を加えず薬、食料などで支援した事は人間の道徳さの高さに感動する。文中での言葉「世の儚さを思ってさすらいの旅に出て客死した」(戊辰戦争での人間同士の悲惨な死闘の有り様を経験し孤独死した村橋への言葉)
『夜明けの雷鳴』吉村昭
「概要」医療は平等なり。近代医療の父の高潔な生涯。パリで神聖なる医学の精神を学んだ医師・高松凌雲は、帰国後、旧幕臣として箱館戦争に参加する。近代医療の父を描いた幕末歴史長篇
時代は幕末、徳川慶喜の弟、徳川昭武がパリ万博開催と勉学の為に同伴で渡航した一人の医師高松凌雲の生涯を物語った小説である。船には渋沢栄一などの他通訳(シーボルト)、大工、水戸藩からの監視役、江戸商人と芸妓三人も同船しており49日間の日程でマルセーユに入港(10万両で出典物を収集・漆器・陶器・金工芸品、和紙など)、パリ万博では薩摩藩が独自に琉球王国での出展もしていた。和紙、蒔絵、伊万里焼などの高い評価を得た。また、江戸商人と芸妓による水茶屋の日本家屋と茶道具なども高い興味を持たせた。
ー凌雲は「神の館」と言われる病院での麻酔薬を使い「外科手術」(日本では切開手術などない時代)を学ぶ
ー戊辰戦争勃発した最中に帰国、徳川への恩義もあり幕府側での医療専念、榎本と共に蝦夷へ旅立つ。箱館での病院を任され、敵味方区別なく治療し多くの負傷者を救った。官軍が病院に攻め入っても「負傷者たちと生死を共にする決意あるのみです」と守り抜く。だが、榎本軍(3千人近い兵士)は敗戦し投降する(凌雲が投降するように手紙で促す、3日遅れれば全滅していた)箱館病院では延べ負傷者は1338人(内34人死亡)となった。敵側医師として徳島藩の預かりを受け厳しい生活を余儀なくする。
ー政府からの赦免で凌雲は水戸藩の徳川昭武と共に蝦夷での開拓へ随行、その後東京へ戻り水戸藩での処遇を機に亡くなった兄家族を呼び寄せ個人病院を開業する。その後兄嫁の妹を貰い受け夫婦になる。「神の館」を学んで貧困で治療できない人々を助けるべく基金を募り、明治天皇、渋沢栄一などから支援をもらい「同愛社」を設立、患者は1万2952人に膨れ上がり寄付金も増えた。延べ患者は68万7千余人に及んだ。また、東京での大洪水でも治療に励み1万3838名の患者を診たとある。
ー凌雲の講演では官軍であった薩摩藩士の村橋直衛、池田次郎衛(改名貞賢)らが箱館病院での争いを避け救護したことへの感謝など榎本も赦免後は政府の軍部の総裁となった。
ー薩摩藩村橋を思い発した言葉「世の儚さを思ってさすらいの旅に出て客死した」(戊辰戦争での悲惨な人間同士の死闘の有り様を経験した村橋)


人権無視の世はあらゆる場所で存在した『忘れられた日本史の現場を歩く』

2025-02-04 07:44:48 | 歴史から学ぶ
@歴史を振り返りその遺跡などを旅するのは新たな史実を発見することにもつながる。特に社会的に悪行行為、人権的な事件事故など、庶民を犠牲に革命した独裁者の史実では知ることができない。この書で知ったことは多くの地域で昔の女性へ人権は「モノ」扱いが多く悲惨な歴史があったことで、現代では秘話として実在していることだ。
『忘れられた日本史の現場を歩く』八木澤高明
「概要」北海道から九州まで全国19ヵ所…
気鋭のノンフィクション作家が、自らの足で日本の“裏面史”を歩いた記録的一冊!私が好んで歩いてきたのは、アイヌの人々の歴史であったり、東北の蝦夷、江戸時代の大飢饉の記憶、悪所と呼ばれた色街、明治時代に海を渡った日本人の娼婦からゆきさん歴史的に弾圧されてきたキリシタンなど、どちらかというと、由緒正しきものではなく、悲劇や血に彩られた哀しい歴史であった。
●独自の呪術信仰“いざなぎ流”/拝み屋が暮らす集落(高知県香美市)
    「医者にかかっても治らないものが祈祷で治る」と言われた場所
    人間の心の裏も面も美しさも見つめ続けて言えることは「人間が一番難しいぞよ」
●パンデミックの悲劇/面谷村(福井県大野市)
    銅山で賑わった村がパンデミックで壊滅
インドから帰ってきた女性/からゆきさんがいた村(山口県岩国市)
    からゆきさんは中国等から、あめゆきさんは米国等からの娼婦
    貧しい村での生き残りさくは娘を働き口に出すこと    
かつて栄えた風待ちの港/大崎下島(広島県呉市)
    遊女たちの色街
●『遠野物語』に記された“デンデラ野”/姥捨山(岩手県遠野市)
    飢餓に耐える工夫で60歳を超えたら昼は農作業、夜は山に籠る生活
海外への出稼ぎ者が多かった土地/北米大陸に繋がっていた村(静岡県沼津市) 
    米国カナダへ遊女として出稼ぎの街(人身売買の拠点)
●国家に背を向けた人々の“聖域”/無戸籍者たちの谷(埼玉県秩父市ほか)
    1920年国勢調査が始まって分かった無戸籍村、200余人
●潜伏キリシタンが建てた教会/中通島(長崎県南松浦郡新上五島町)
    3千人が移った五島列島(信仰の自由を求めて)
●難破船と“波切騒動”/大王崎(三重県志摩市)
    難破船多発場所(江戸ー紀伊)飢餓で難破船の荷を盗む)
古より遊女が集まる場所/青墓宿(岐阜県大垣市)
    古代から中世にかけて傀儡女と呼ばれた遊女の拠点
●江戸時代の大阪にあった墓地群/大阪七墓(大阪府大阪市)
    梅田は田を埋めた墓地帯・大阪駅近辺
●自由に立ち入れない場所/津島村(福島県双葉郡浪江町)