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宿世、運命、我が道をゆく『軍師の門(下)』

2024-06-16 07:36:12 | 歴史から学ぶ
竹中半兵衛、黒田官兵衛の生き様は共に信長・秀吉の軍師として「利」と「義」を配慮しながら戦い続けた。軍師は戦勝すると影となり、官兵衛も敗戦、苦戦の場合のみ頼られ、勝っても言葉だけの報奨を受けた。隠居した後の「己の道」(我力を信じ鎮西平定)が夢半ばで終焉したのも悲しいが、牢獄から生き抜くことへの希望、夢を最後まで諦めなかったことは男として、軍師として素晴らしい人生だったと思う。気になる言葉は:「力が強いものはそれのみに頼り、己を誇って、家臣や領民の心を見失う。高慢になって人を蔑ろにすれば、家臣、万民の心は離れ、必ず家を失い、国が滅ぶ元となる。誠の威というものは、人を叱ったり、脅したりすることなしに、自ずと内から滲み出るものでなければならぬ」(自己を知る)
「それがしに与えられた宿世、天を恨まず、運命から逃げず腹を括り堂々と己が道を行く」
「賭博のできぬ男に勝利なし」(勝負)
軍師の門(下)
火坂雅志2024年6月
「概要」志半ばで逝った竹中半兵衛から、軍師の座を引き継いだ黒田官兵衛。権謀渦巻く乱世にあって、秀吉亡きあと、官兵衛ははじめておのが野望のための戦いに挑む――男たちの戦国絵巻を圧倒的スケールで描く傑作長編!
ー黒田官兵衛
「力が強いものはそれのみに頼り、己を誇って、家臣や領民の心を見失う。高慢になって人を蔑ろにすれば、家臣、万民の心は離れ、必ず家を失い、国が滅ぶ元となる。誠の威というものは、人を叱ったり、脅したりすることなしに、自ずと内から滲み出るものでなければならぬ」
竹中半兵衛は「信長の『利』と秀吉の『義』の両方が必要だ (結果と義理)
・三木城攻略は「コメの買い占め」を攻撃の前に動く(兵糧攻め:事前工作)
・鳥取攻めでは、できる限り血を流さぬ戰を仕掛ける(破壊ではなく、安定と繁栄を目指す)
・軍師は信頼関係が必須「三木城での駆け引きで城中の者を助けた印象」(信頼関係の構築)
・高松城での戦略は「低い低湿地を利用した水攻め」を決行 (自力温存戦略)
    敢えて信長の遠征を要請して勝利をもたらす(戦勝を単独に手中に収めるのではなく)
・信長の死の知らせを一晩ゆっくり休んだところで家臣に公表(内部崩壊を恐れ場所を変える)
・毛利の旗を借り「明智軍に見せ付ける」(毛利の秀吉軍への加担と思わせる)(見せかけ)
・時世を睨んだ秀吉防御の体制を整える(敵味方を識別する)
・信長の孫・三法師の後継人となり大義を認めさせる(道理に合った盤石な基盤を抑える)
・大阪城建築への仕組み「埋み門」(出入り口を石で隠す)抜け穴から舟入(脱出口)
ー豊臣秀吉との関係
・黒田官兵衛は秀吉との距離が出始め高山右近の紹介でキリシタンに(播磨山崎2万石)
    目的は世界の情勢を知るため、天文学、航海術、薬学など・洗礼名:ドン・シメオン
・黒田官兵衛39歳で毛利との折衝、小早川隆影と和議
    秀吉にとっては西の毛利、東の上杉(直江兼続)が天下統一への脅威だった
・美濃攻略で信勝に頭を下げ家康に軍を引かせ、長宗我部、雑賀衆を攻める
    信勝中将との和睦で敵を最小限にし攻める(敵の分散)
・毛利との和睦は婚姻(秀吉の養子秀勝と毛利の養女)戦略結婚で毛利を称える
・四国長宗我部軍略も和睦(味方の損失を抑え知力で城を取る)
・秀吉は関白となり官兵衛は四国征伐での恩賞もほとんどないまま隠居を願い出る
「それがしに与えられた宿世、天を恨まず、運命から逃げず腹を括り堂々と己が道を行く」
・秀吉から九州討伐の命を受け軍監として財産を投げ打って参画
    「賭博のできぬ男に勝利なし」の哲学を持った官兵衛
・毛利軍・黒田軍で島津側を報復させ九州を平定、だが官兵衛にの褒章は一国にも満たなかった
    息子に家督を継がせ44歳で隠居となる「黒田如水」と名乗る
・隠居後の如水の築城は播磨中津城始め、広島城、高松城、福岡城などの縄張りをする
    城(水城)の細部に仕掛け・海に面し、脱出口などを設ける
・秀吉の名で軍船の軍艦として朝鮮へ、異見で自ら帰国、我が道を進める
    秀吉(62歳)伏見城で没、九州中津城で待機し時期を待った
・最後の戦い(九州統一)の野望を持ち関ヶ原の戦いと同時に旗揚げ
    上方で決戦が行われている隙に九州を鎮西を平定する夢を実現するべく旗揚げ
    関ヶ原があっけなく終戦となり、九州の石田派大名の城を攻撃したが夢半ばで終わり
「半兵衛を動かしていたのは、真偽であり、義侠心である。世の中を冷徹な目で眺めているようでいて、実は、人間は「利」を追い求める一方で、「義」によっても動くという矛盾した本質を誰よりも判っていた」
・「人は生きていくためには我慢や辛抱が大切、できない人間は結局何事もなすことができない」


「世に智慧者ほど恐ろしい者はない」『軍師の門 (上)』

2024-06-16 07:35:43 | 歴史から学ぶ
知恵も武力なり、軍師としての力量は智慧と度胸が必須だ。文中にある「世に智慧者ほど恐ろしいものは無い」など戦略戦術は智慧ある者に勝利をもたらした。竹中半兵衛は病魔の犯されながら真剣に人を読み行動した。上に立つものは人愛と寛容の心が必須だと言い遺した。気になる言葉:「死を恐れていては、何事もなりますまい。誰もが尻込みする大仕事を成し遂げたとき、得難い信用と地位を手にすることになる」(リスクと挑戦)
「弱者が知恵を駆逐して、強者を打ち破るところに兵法の面白さがある」(智慧と度胸)
「天の時、地の利、人の和」(人の徳)
「世に智慧者ほど恐ろしいものは無いという」(戦略・軍師を持つ)
「人に徳ありと思わせる努力を、仁愛なき大将は人の信望を失う」(人徳と寛容の心)
『軍師の門(上)』火坂雅志
「概要」半兵衛と官兵衛――。「生涯の友」となる二人の運命が、いま交錯する! 豊臣秀吉の頭脳として、「二兵衛」と並び称される二人の名軍師がいた。野心家の心と世捨て人の心を併せ持つ竹中半兵衛、己の志を貫きまっすぐに生きようとする黒田官兵衛。混迷の現代に共感を呼ぶ長編歴史小説。
ー竹中半兵衛
「知恵によって城を盗る事」(知恵の舞台は現場を見聞する事)
・「新しい知識を吸収するのにどこまでも謙虚、貪欲になる」(野心と欲を冷めた目で見る)
・「哀れとは、その甘さでは、軍略を身につけるどころか、乱世を強かに生きていく事さえ叶うまい。もっと悪くなる事だな」「悪くなるとは、生きる技術を身につけること。常に思いを巡らせる」(熱意と旺盛な好奇心を持つ事)
・「同じ人の知恵で落とせぬ城があるはずがございませね。」(兵は詭道なり:欺く事)
「死を恐れていては、何事もなりますまい。誰もが尻込みする大仕事を成し遂げたとき、得難い信用と地位を手にすることになる」(リスクと挑戦)
・「弱者が知恵を駆逐して、強者を打ち破るところに兵法の面白さがある」(智慧と度胸)
    「天の時、地の利、人の和」(人の徳)
・「寡勢を持って体制を相手にするのが真の兵法」(勢いと敵の分散)
・「まずはお市の方様とその姫君型を無地に救い出す事」(優先順位の決定)
・「これからの世、守りの身に重きを置く城に栄はありませんぬ」(繁栄の意図)
    楽市楽座を設け地子(固定資産税)課役(普請)を免除し、運上金で支える
・「窮鼠、猫を噛むの例え、これ以上敵を追い詰めすぎない」(味方被害の最小)
「無能な者は滅びゆくのが、乱世の習い」(弱人強食)
・「支城を1つづつ攻め落とし、外との連絡を遮断、兵糧攻めにする」(孤立無援)
・「心を鬼にして勝つための努力をする」(犠牲に目を瞑る・恩義)
「世に智慧者ほど恐ろしいものは無いという」(戦略・軍師を持つ)
・「人に徳ありと思わせる努力を、仁愛なき大将は人の信望を失う」(人徳と寛容の心)
ー黒田(小野)官兵衛
・「自分の力で導く、座してまっっているだけではダメだ」(行動で示す)
    天下の情勢を見極め手遅れにならないようにする
・「毛利氏は中国筋十余国の覇者。信義に熱いが天下統一の気概がない」(夢・希望)
・「信長殿は己の利益をもたらすことのみ」(単刀直入に説明)
    官兵衛ここにありを織田方に知らしめるには独力で敵を撃退し氏からを示す(実力)
・「目先の功名よりも、戦いに勝つことだ。生き抜いただけで大手柄と思え」(目的)
・「武力で討伐することではなく、なるたけ穏便に調略で組み入れたい」(最低限の損害)
・竹中官兵衛は小野官兵衛に「食えない柿」を送った(自助力への期待)
・「織田方に心より服していることを示すには人質を出す事がもっとも有効だ」(決意の強さ)
・荒木村重の有岡城で囚われの身となる「生きる」竹中は「友としての信頼を得た」


世渡り術「始末」(倹約)『『世渡り万の知恵袋』

2024-06-06 07:41:13 | 歴史から学ぶ
世渡り術の本質はやはり人がやらない「隙間ビジネス」を発見、創意工夫し、収益を得る機会を見つけることだ、井原西鶴の「世間胸算用」とある。但し「不正はしない」「儲けすぎない」「派手にならない」、江戸時代の「始末」(倹約)すると言う図式だ。現代でも、起業の基本は「隙間ビジネス」を如何に発見し、創意工夫するかがキーとなる。ビジネス開始は「信用」から始まり、貴重で信頼における情報と起業家の知恵と人柄から顧客、銀行の信用を得ることが大切となる。
『世渡り万の知恵袋』田中優子
「概要」江戸時代、知恵と才覚で生き延びた井原西鶴の『世間胸算用』などの作品は、元祖ビジネス書だ。「人間としての生き方を自分で決める」という江戸から現代に続く今も変わらない“仕事の基本”を綴る。
ー江戸時代の大半は農業従事者、商人の割合はさほど多くはないが大阪商人が時代を変えた。
    千石船による貿易、中でも要は金貸の金融業・米の預かり証から多種類の手形
    「信用」「不正をしない」「儲けすぎない」が商人の暖簾、看板は派手にしないこと
    「倹約」は第一条件「もったいない」を大切に無駄にしないことを鉄則とした
「年貢」は貢ぎ物で平和を守ってくれる。
    「税金」は預け物。商人は「年貢」の義務が無く、組合単位で「冥加金」(礼金)が存在
ー現代換算 金銭単位 両・分(ぶ)・朱・匁・分(ふん)・文(文=銭は銅貨)
     1616年の小判一両は20万円、1833年の小判一両は4000円
    本文での換算は一両11万6640円、銀一匁は1944円、銀一貫は200万円
ー江戸時代の勘定
    生まれた年を1歳とした(満年齢とは違う)
    暦は10日で「旬」、月は上旬、中旬、下旬、31日と言う日は存在しなかった
ーゼロから始める「始末」ビジネス
    誰も思いつかない「隙間仕事」に注目・「始末」(倹約する)
    早起きで活動開始、夜は情報収集・教養蓄積、人が振り返らない者の中に好機あり
    情報は記録、交換してこそ重宝、リメイクする思考、ビジネスには人柄と教養が大切
    コミュニケーション能力を磨き、適正な投資で活性化させ、世のニーズを探し出す
    リーダーは成果を認め、報奨することで部下のやる気を引き出す
ー工夫と知恵と才覚を発揮する
    責任ある役割を与え、現実をしっかり把握し、状況判断を怠らない
    相場や季節変動など素早く情報を獲得、対応、危機感を忘れず、早めに手をうつ
    新たなビジネスには現状のビジネスを知り効率を上げる工夫をする
    ビジネスの拡張はビジネスアイデアと資金計画
    仕事に集中し能力等を知る、知恵が仕事を拡大させる
ー仕事は手段を選ぶ
    虚偽的な行為は身を滅ぼす、個人の才覚や努力を評価、任せる
    多忙はチャンスを見逃す、足元の収支を理解して進める
ーどん底からの再出発
    人を見て優れた面を学び学習する、熱意を持って仕事を続ける
    勘・技術・技量、自分の能力を存分に開花させる
    切羽詰まれば知恵が出る、現実を無視せず傲慢さと驕りを捨てる
    何をするにもまず資本、資本は信用であり、信用は実直、真面目が信用を作る


影の実力者「軍師」出自と経歴『軍師の死に様』

2024-06-05 12:22:50 | 歴史から学ぶ
戦国時代の軍師は謀略などを指示する影の実力者が多い。歴史は勝利者の歴史とある様に真実はどうなのか、言えることは軍師となるべき人物の存在は大きかった事だ。軍師の出自や経歴が戦略の的確さを左右したかどうかは一概に言えない。例として、後藤又兵衛vs真田幸村の如く、戦場での経験者か机上で学んだ戦略家、どちらが上策を持ち合わせるか、それを主が如何に決断し行動したか、だろうか。現代、戦後時代の軍師の立ち振舞い、戦略戦術予測の立て方など参考になるが、それは小説家(ドラマ)の思いの策も多いのかと疑問を持つ
『軍師の死に様』司馬遼太郎・松本清張
「概要」「首を打て。敵に取らすな! 」。極限状態で生まれた濃密なドラマ。山中鹿之介、大原雪斎、千坂対馬、山本勘助、竹中半兵衛、松永久秀、黒田如水、直江兼続、真田幸村、後藤又兵衛、鍋島直茂、本多正純など、荒れ狂う戦国時代を生きた名参謀たちの「死に際」とは。最後まで主君への忠誠を貫いた山中鹿之介の人生を描いた「雲州英雄記」、決して派手ではないが今川義元に尽くした大原雪斎の生きざまを綴った「鴛鴦ならび行く」、攻めるだけではない守ることの大切さを語る「城を守る者」、土民から軍師にまで這いあがった松永久秀の最期をドラマチックに表現した「天守閣の久秀」、エンターテインメント歴史小説の名作「くノ一紅騎兵」、ラストまで一気読み必至の「戦国権謀」など、豪華作家陣11名<池波正太郎、安西篤子、山本周五郎、新田次郎、柴田錬三郎、南條範夫、坂口安吾、山田風太郎、司馬遼太郎、滝口康彦、松本清張>の名作が集結した傑作歴史アンソロジー。群雄割拠の時代を生きた、男たちは最期に何を思う? 英雄たちの最期を見よ!
ー山中鹿之介:尼子家復活に夢を描き、最後まで諦めず。素直で正直は騙されやすい。戦略無くして気力だけでは勝てない。「人を信じる、何度裏切られても最後に残るものはわしを裏切らない、それはわしの絵だからじゃ」
ー大原雪斎:今川義元の師匠であり軍師。敵味方を吟味、無用な戦いを止めて和睦を基本とした戦略家、時には即座に攻略すると言う鋭い感覚と自由奔放に情報を収集した能力有る人材
ー千坂対馬:上杉輝虎の家臣、春日山城の留守役も立派な武士としての役割であり、噂に惑わされず家臣の裏切りを見極め守り固め役を引き受けた信頼と才能ある人材
ー山本勘助:武田信玄の影の軍師と言われた勘助の長子が父の跡を追い見つけたのは、17年間信玄に使えたった一度だけ表の軍師としての活躍があり、最後に自分の戦略を自分を犠牲にして川中島の戦いをした。
ー竹中半兵衛:豊臣秀吉の軍師として百戦百勝した。知略(微に入って、能く理事を弁じ、人々の意表を衝いた)に対する毅然とした態度は秀吉重臣たちに対して態度を変えずすぎを通した。また報奨は求めようともしなかった。信長死後、半兵衛は姿を消した。
ー松永久秀:自慢の天守閣(須弥32天の主を象った7層の天守閣:指令の塔、守備の本拠、新平方の粋を尽くした独創的な)を誇ったのは束の間、信長の巨大な白鷺の安土城には度肝を抜かれ、信長に敗れる。久秀は信長からの紹介は「公家を殺し、主家を滅ぼし、大仏殿を焼き払った大豪の士だ」
ー黒田如水:秀吉が睨んだ家康以上に恐れた知略家、軍師。義理堅く、忠臣で主のためには強いて死地に赴く人物・狡智無類、行動は迅速(信長の天下を見抜き秀吉に奉公する)。秀吉からの引退を許され、九州へ(キリシタンの洗礼を受けた武将)茶の湯で朱印貿易を盛んにする
ー直江兼続:一のく紅騎兵(美貌を持った少年)大島山十郎は山白城(直江)に入るや「衆道の法」を得るべく景勝の小性となる(同性愛)
真田幸村・後藤又兵衛:2人の軍師(幸村は書斎で、又兵衛は戦場で兵策を学んだ)に秀頼(大野治長・譜代筆頭)で意見が分かれ、さらに譜代、浪人等の集合体はバラバラで統率力を失くしていた。また家康の間諜小幡景憲は籠城させるべく対立させ、又兵衛率いる先鋒隊6千4百と幸村1万2千は別行動となる。徳川軍30万に対して秀成軍は18万、又兵衛は天王台で、幸村は真田丸にて没
ー鍋島直茂:関ヶ原の戦いに二股をかけ最後には徳川に任せた。「鍋島の汚さよ」と言われた左近将監は見抜いていた。直茂は国政を息子に譲らず息子高房は命を絶ち、父正家は病死となる。佐賀35万7千石はそのまま勝茂に引き継がれた。
ー本田正純:徳川家康は駿府に上野介正純(正信の息子)をおき、江戸(秀忠)にはその父本田正信を配置、時制を極めた。本能寺事件後に伊勢越えで家康と再会した正信はその後忠臣として支える。正純の成果は大阪の夏の陣での堀埋め、その後福島正則を隠滅など、その功績は15万5千石で宇都宮に封じられてから悲劇となる。秀忠の宇都宮での謀反疑惑など疑問視され、蟄居、虜囚となる。


生き抜く心得「礼儀作法・情に厚く・争いを避ける」『戦国残照お江とその時代』

2024-05-28 07:33:57 | 歴史から学ぶ
戦国の女の生き様は男次第、3度の政略結婚はお江の波乱の人生となったが、最終的には徳川家の正室として権力を握り、穏やかな晩年を過ごした。しかし、次男忠長が切腹に処された悲しい出来事もあった。お江は情に厚く争いを避け、礼儀作法を重んじる女性だった、とある。そういった心構えは時代を問わず人間性が重要であり、現代でも男女問わず周りから慕われる人柄を持つことが素晴らしい生き方につながる、と思う。
『戦国残照お江とその時代』志村有弘
「概要」男たちの戦いの裏で展開した、命の継承をめぐる女たちの闘い― 歴史と物語の接点を現代視点で読み解く! お江の父・浅井長政は、信長との闘いにより自刃。生き延びた母お市も越前・北之庄にて自刃。戦乱の世に生を受け、数奇な運命に翻弄されたお江は、三度目の婚姻により二代将軍・秀忠の正室となった。大奥での春日局と熾烈な暗闘、家康の背後で動く黒衣の宰相・天海。次代の将軍は忠長か家光か。歴史と文学をつなぎ、崇源院・お江と彼女の生きた時代を浮き彫りにする。 戦国の覇者、信長は本能寺の変で最期を遂げた。信長を弑した光秀一族も秀吉の前に滅び、その秀吉が生涯を閉じると、家康と嫡男・秀忠と豊臣秀頼・淀殿との熾烈な戦闘が展開された。 弱者は強者に従う。これが、戦国時代の宿命である。二代将軍・徳川秀忠と妻お江の時代は、まさに戦国残照という名称がふさわしく、信長から続く戦国時代の覇者たちの延長線上に存在するものであった―
ー母お市の方(浅井長政と婚姻)とには3娘、その後柴田勝家と婚姻、賤ヶ岳で勝家と自刃する
    お市の方:悲劇の女性・愛すべき三人娘を得て37歳で没
    茶々(秀吉の側室となり淀殿・鶴松は3歳で亡くなり、秀頼を出産)
    おはつ(近江の京極高次と婚姻)
    子督(佐治一成と婚姻、羽柴、秀忠と3回目の婚姻・お江与の方)
お江は信長の妹お市の方の三女、3度の政略婚姻(23歳)で徳川秀忠(2代将軍)に嫁ぐ。
    12歳で佐治一成、羽柴秀勝(娘定子出産)、23歳で徳川秀忠の3回目の婚姻
ー将軍継承問題でお江は忠長を推奨したが家康の一言で育ての母春日局の家光が将軍となる
    春日局(御福)は父斎藤歳三、乳母に徹し竹千代を育てた意思が強い女性
    忠長は甲斐国主となったが猿狩などで家老が蟄居させられたことで怒り後に切腹
    忠長は家光より才覚があったが家康の長子が継承する事を決めた
ー徳川秀忠38歳から45歳での将軍としての功績
    参謀:土井勝利、酒井忠世、青山忠俊ら(家康75歳死後・38歳で独裁将軍となる)
    大阪・下田奉行・関所等への組織整備の条例
    神田上水の開設、人身売買や一季奉公の禁止、煙草作り禁止
    キリシタン活動禁止、貿易の制限(鎖国への布石)    
お江の子供(秀忠とに3男5女)秀忠は恐妻家で側室の子を養子に、後の保科正之
    千姫(豊臣秀頼の正室)
    家光(竹千代・3代将軍・乳母春日局は明智光秀の姪)
    忠長(国松・大納言・高崎藩で自刃)
    和子(後水尾天皇の中宮、娘の興子は女帝明正天皇)
ーお江与の時代背景と功績
    女は戦略的婚姻でのスパイ役など社会的地位は低く唯一子を授かり地位を得ること
    美貌に恵まれ情に厚く、上下に慕われた、争いはなく、礼儀作法を遵守した
    虚弱そうで女として子を産む力はあり強く、子(国松)を溺愛した


事業復興に尽力し国力をつける『軍師直江兼続』

2024-05-23 07:35:15 | 歴史から学ぶ
軍師であり城主(執政)にもなった兼続、上杉謙信死後、19歳から景勝の信頼を得て参謀を務め、秀吉後の国替え、家康幕府から米沢移封で家臣と共に半農半士で苦労を強いられた。義理堅く恩を裏切らない兼続は新田開発や治水事業、城下町整備、鉱山開発、教育環境整備、産業復興などに尽力し家臣を守り主導権を維持した、何事にも準備を怠らず先を読み行動した人物だ。国を司る者に必要なことは兼続の施策等であり、現代の政治の何でもかんでも新税、重税で国民を苦しめることではない。金の亡者に成り果て国政に知恵のない政治家は即座に去るべきだ。
『軍師直江兼続』星亮一
「概要」少年期、上杉景勝の小姓に抜擢され、景勝とともに越後の龍・上杉謙信の薫陶を受け、巧みな戦術・戦略を見聞き、錬成した直江兼続。謙信亡き後は、名門上杉家の執政として主君景勝とともに、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗らと互角にわたりあっていく。陪臣の身でありながら、30万石という未曾有の領地を賜った、天下の智将の軌跡を辿る。上杉家ゆかりの史跡写真や人物画を多数掲載。
ー上杉謙信死後の兼続行動 本丸を抑え、本丸の金蔵と武器庫を封印、景虎を郭に閉じ込める
ー信長は緻密な計算する男でまめに手紙を書いていた(景綱には6通)
ー兼続(22歳)の妻お船(25歳)は信綱の元妻
ー秀吉と三成の出会いは伊吹山での茶(3度の茶:緩い・熱い・抹茶)
ー越後での戦い7年越しの新発田、勝利の要因は鉄砲。その後独自の鉄砲を作り上げる
        近江国の鉄砲鍛冶屋を雇い改良してる・米沢市立上杉博物館に展示してある
ー佐渡島を支配し金山の確保から馬具や兵器を改良していった
ー国替え令 秀吉の命で越後本国と北信濃4郡を返還120万石となったが財産を失くす
    海運、漁業、鉱山などをなくし、秀吉は伊達への構えを考慮した国替え(兼続39歳)
    家臣だけで5千人、総数で2万人、神社仏閣等も移動した
    米沢6万石の城主に抜擢される
ー秀吉死後、子守役の前田利家も翌年死去したことで内部体制が混乱
    朝鮮出兵藩が石田に対して不満をぶつけ、佐和山の密議で石田派と家康派に別れる
    家康が兼続に不満(罠を仕掛ける)ぶみを投げ、兼続は「直江状」で返答
    家康が会津攻撃・兼続を討つと見せかけ石田派からの先制布告を待ていた
    兼続は3方からの脅威を持って守備(最上、伊達、家康)常陸の佐竹豪族を頼りにした
ー関ヶ原戦い後
    上杉勢は最上義光、伊達政宗と戦闘、家康は白川から三成への戦闘へ切り替える
    銃300丁で最上を制圧、だが家康の勝利で藩主自決、米沢移封(米沢・信夫)となる
    3千戸侍屋敷など作り2-3家族が一緒に暮らすことになる(30万石・兼続は5千石)
    下級武士達は半農半士で150坪の土地に農作物を作り暮らし始める
    大坂夏の陣では3千人を伴い大阪に出陣(家康20万人、豊臣9万6千人)
    妻お線は江戸、三人の子供を失い気力に欠ける生活になり60歳で没
ー「伝国の辞」鷹山の家督(ケネディ大統領が賛辞した民主国家の理念)
    「国家は、先祖より子孫へ伝え候国歌にして、我私すべき物にはこれなき候」
    「人民は、国家に属したる人民にして、我私すべき物にはこれなき候」
    「国家人人民のために立てる君にて、君の為に立てたる国家、人民にはこれなく候」
ー山鹿素行・細井平州
    「人君は天下万民の為」
直江兼続の軍法
    「戦法とは敵陣の気と心を奪うこと。気を奪うには旌旗、五采、鉄砲あり。心を奪うには奇計、知謀あり。けだし己の気と心を治したる者にあらざれば、何を持って人の気と心を奪うことが出来ようや。戦いに臨む大将は、十分な装備を施し、勝つ奇計、知謀は必要であると、無分別な行動を戒めた。日々、最大の配慮を尽くし、熟慮を重ね、一旦決まれば、電光石火の如く行動する男」


改革に必須な条件とは『米沢藩の経営学』

2024-05-22 07:47:29 | 歴史から学ぶ
国の改革ができる条件とは国と国民が現状を理解し、双方がより良い環境を望むかで決まる。最後の藩主上杉茂憲が沖縄県令に赴任し「吏員改正」(改革案)を提出したが新政府のトップが理解できず傲慢な税収と既得権を望んだことでの「却下」は、現代の岸内閣政治(不透明なままの裏金事件)と国民との意識の差を垣間見るようだ。
上杉家の改革の内容は現代でも通じる「質素倹約・組織の簡素化・産業改革」である。現代の日本政治にはこの3つが全く見られない。政治家の既得権と名誉地位保持(貪欲な闇金隠蔽など)が最優先となり国民への負担が増すばかりとなっている。    
『米沢藩の経営学』童門冬二
「概要」上杉謙信を祖と仰ぐ米沢藩上杉家は、度重なる減封によって瀕死の逆境にさらされながら、家臣を一切リストラせず、幕末まで続いた稀有な名家である。それを可能にしたリーダーたちの改革精神とは?本書は、120万石から30万石になった折の名家老・直江兼続、15万石になった藩を救った上杉鷹山、幕末に改易の危機を脱した上杉茂憲の3人を貫く「精神の系譜」を描いた異色の歴史小説である。明治14年(1881)5月、廃藩置県まもない沖縄県に、最後の米沢藩主・上杉茂憲が県令として赴任した。雪深い陸奥から日本の最南端へ――。県政運営にあたる茂憲が支えとしたのは、米沢藩の礎を築いた直江兼続、中興の祖・上杉鷹山を経て継承された「義と愛」の精神だった。
米沢藩最後の藩主茂憲が沖縄県令に指名され赴任する。その改革を任されるが過去の上杉家の基礎を気づいた藩主、軍師などの事例を元に進めていくストーリー
鷹山の師匠「細井平洲」
    「難しいことを易しく語ること」「学問は生活の実際に役に立たなければ意味が無い」
    「入りを量って出を制する」「非情の時には非情の法」「無駄を省く」「仁愛の情を持つ」
    「今日の暮らしを犠牲にしても、明日の立ち直りを考えるように協力してもらいたい」
    「勇なるかな、勇なるかな」(勇気と自信を持って継続する志を持つこと)
    「興譲館」人材を育てる学校「譲る」を重んじた教育
「武士はくわねど高楊枝」勤倹節約・産業復興を基本に武士も農業を指導させる
        兼続の心得「心に曇りなき時は心静かなり」怒りを抑え心を落ち着かせ考える
    120万石から30万石へ減封6千人の家臣と家族3万人で移動
        住む場所の確保、農地の確保、税金の減免免除、農産物の開拓と復興へと
    兼続の石高を12分の1に減収、他を少なくとも3分の1に減らす
    「米沢の棒杭の商い」値札を棒にぶら下げて値段の高騰を抑えた
    「朝・楮・漆・桑」など素材を育成麻糸から「米沢織」など付加価値を高めた
    非常時のための「社倉」の設置(大飢饉時に役立つ)
    年貢の負担を軽減、農民が自発的に農業改革をできるように導く(資金貸付)
    移住者に対して受け入れ(米5俵、家の代金一部、材木などを提供)
鷹山の3つの壁:壁を越える事
    「モノの壁」(物理的な壁)・「仕組みの壁」(制度の壁)・「心の壁」(意識の壁)
ーモノの考え方
    もし直江兼続だったらどう考えるのか、もし鷹山だったらどうしたのか、立場に立つ
ー3つの条件:天の時(運命を悟る):地の利(状況・条件を知る):人の和(人間関係)
ー沖縄改革(現状から改革へ:結果新政府は「吏員改正」を却下、茂憲県令は罷免
    政府の「旧慣温存」で現存の幹部は変更させない(真実を握りつぶし虚偽申告)
    改革の目的を明確にすることで効果を醸し出す(目的を理解してもらうこと)
    「心の火種で黒い炭に火をつけ、火だね運動を起こす」(県民が改善を待っている)
    地方役人の人員減、統轄系統の簡素化、負債償却、教育産業復興「吏員改正」


史実、歴史人物から学ぶ知恵『結果を出すリーダーが知っている歴史人物の知恵』

2024-05-21 07:31:18 | 歴史から学ぶ
@史実から、歴史から学ぶことの大切さは現代のビジネスでも参考になる。特に気になる言葉は
ー今川義元の軍師・太原雪斎:情報を取捨選択、仮説ー検証ー修正、自らが実行・行動する
ー画伯・長谷川等伯:経営に教科書はない、不満には意味がないが不安には意味がある
ー幕府老中・松平信綱:人は仕事で磨かれ、人は読書で磨かれ、人は人で磨かれる
ー佐賀藩主・鍋島直正:率先垂範(自らが示す)、百折不撓(失敗しても挫けるな)
『結果を出すリーダーが知っている歴史人物の知恵』
NHK2024年5月
●武田信玄×秋元康(作詞家)
    「渋柿は渋柿のまま使え」やる気のあるものを採用、褒めるにはすぐする事
    自分で考えさせ発言、責任を持たせる
●松下幸之助×平井伯昌(競泳日本代表ヘッドコーチ)
    長所6割、短所4割、長所のすぐ隣に短所がある    
●太原雪斎×松本晃(カルビー会長兼CEO)
    相手の求めるものを探求する、Win-Winの関係を築く
    情報を取捨選択、仮説ー検証ー修正、自らが実行・行動する
●岩瀬忠震×小松正之(元水産庁・国際捕鯨委員・アジア成長研究所客員主席研究員)
    先手必勝で交渉の主導権を握る、代案と落とし所を考えておく
●勝海舟×伊勢崎賢治(外務省特使・紛争地域武装解除人)
    百を要求し五十を得る
    相手の弱気を見て見ぬふりをする、出来ない約束は絶対にしない
●織田信長×澤田秀雄(株式会社エイチ・アイ・エス澤田ホールディングス株式会社代表取締役社長)
    チャンスは不満解消にある、社会的な不満を見つけ、ニーズに応える、リスクを恐れない
    変化する時代のニーズに即応する、「経験」と「感動」を与える
●長谷川等伯×松井道夫(松井証券代表取締役)
    相手の特技を徹底的に研究、自分のないものを探す
    経営に教科書はない、不満には意味がないが不安には意味がある(時代の流れを読む)
●織田信長×小山薫堂(放送作家・脚本家)
    「自分プレゼン力」を作る、見せ方次第で価値は一変する
    「焼きたてカレーパンあります」より「カレーパン、あと15分で焼き上がります」
●直江兼続×小菅正夫(獣医師・全旭山動物園園長)
    時には奇策を使え、筋の通らない妥協をしない
    困った時には原点に帰る、マイナスもプラスになる(山・寒・冬=動物が元気・亜熱帯からの客に受ける)
●松平信綱×丹羽宇一郎(前伊藤忠商事株式会社取締役会長・前中華人民共和国駐箚特命全権大使)
    焦らず一休み・情報を収集し、心理戦で勝つ
    悲観的に考えず、楽観的に行動する(人は仕事で磨かれ、人は読書で磨かれ、人は人で磨かれる)
●夏目漱石×柳本晶一(前全日本バレーボール監督)
    時には考えさせる、褒める・ハードルを課す・成功後の姿を示す
    人が伸びた瞬間に褒める、我慢を体験させ自分から踏み出させる
●鍋島直正×藤田晋(サイバーエージェント代表取締役社長)
    率先垂範(自らが示す)、百折不撓(失敗しても挫けるな)
    分からなければ教えて貰う、敗者にはセカンドチャンスを(任せて伸ばす)、撤退ルール
●徳川家康×伊東潤(作家)
    タイミングを見計らう、優れたものから盗み、学ぶ
    信長型(迅速・結論)、秀吉型(聞き手上手)、光秀型(計画力)、家康型(協調性)
●伊能忠敬×佐々木常夫(元東レ経営研究所社長)
    技術は惜しまず伝授する
    習慣は才能を超える(ワークバランス)
●豊臣秀長×北尾吉孝(SBホールディングス代表取締役員社長)
    誠実さこそが最大の武器(頭を下げる)
    No.2はトップと思念を共有(提案型に徹する)
●平賀源内×駒村純一(森下仁丹代表取締役社長)
    模倣の中からオリジナリティーが生まれる、失敗の副産物を見逃すな
    失敗を財産としタイミングを見計らい再検討する


負債をチャラにする幕府政策権力『幕末明治旗本困窮記』

2024-05-17 07:40:09 | 歴史から学ぶ
江戸時代から明治初期までの旗本は借金まみれで幕府の政策で返済免除(知行地名主などが負う)などの生活ぶりだった。だが、そんな中でも昔からの儀式・風習はやめず、物見遊山など寺神社へ頻繁に詣したり、船遊び(一人@2両:10万円)なども出来ていたという。だが、幕末では長州征伐、戊辰戦争などで家族も、地位も、家も尽く消え去った、とある。今の政府と財務省vs国民に映る。優雅に使いたい放題の予備予算で足らなければ国債と新税を課すvs頻繁に新税、増税で苦しむ国民だ。
『幕末明治旗本困窮記』西川武臣
「概要」幕末動乱の時代に、武蔵国橘樹郡下菅田村に知行地をもつ幕臣の酒依氏は、御書院番士として、飯田橋に移居し、江戸城の警備にあたっていた。天保の頃までは、世情が騒然とするも、年中行事も執り行われていた。しかし、ペリー艦隊の来航・上陸や長州藩との戦闘が始まると次第に追い詰められ、知行地の鈴木家に身を寄せるようになり、そして帰農することとなった。家のものは、遊郭で働きもしたり、困窮を極めた。本書は、幕末幕臣の史料が少ない中で、偶然にも鈴木家に残された史料をもとに、当時の幕臣の暮らしを興味深く描いたものである。
江戸幕府での旗本の総人数は約5千人、将軍から知行地を与えられたものは2200人、3千石以上のものは240人、1千石以上は570名、1200石(ここにある酒依氏)は幕臣の中でも上級の家であった。酒依氏は御書院番士として14代まで続いた江戸城の警備(1番から10番10組)
ー異国船寄港時期から編成が変わり「異国船打払令」で東京湾警備、11代徳川家斉から12代家慶、水野忠邦「天保の改革」以降暮らしが厳しくなる。
ー酒依氏の場合、幕府から1200石の知行地を拝領、5人の侍、槍・鉄砲持ち・草履とり・小荷駄身分の家臣20人を持つ事を求められた。そのた「奥」女中など、実際は3人の侍、その他10人、女中5人(10代の娘)程度しか持てない状況で、多くの借金も負っていた。「上知令」(農民の取り締まり強化)名主からの用立金(300両)などの返済が打ち切られる事態となる。農民との対立が始まる。
ー酒依氏の婚礼でも知行地から婚礼費(20両)などを回収し儀式も家風に乗っ取り盛大で、出産などの儀式も、物見遊山も多かった(川崎大社、神田明神、金刀比羅神社、飛鳥山など)家族詣をしたとある。神田川、隅田川での船遊びでは一人2両(10万円)とある。酒は一斗樽(1両3分2朱)
ーペリー艦隊来航以降(300人が久里浜に上陸)、その後オランダ、ロシア、イギリス、フランスとの通商条約、横浜、函館、長崎開港など、日本からの輸出(1768万ドル)は糸、茶、雑穀、海産物、水油(テント灯などに利用する)、輸入(1239万ドル)は綿糸、薬品、船舶、武器、鳩羽には約120人の外国人が住むようになる
ー酒依氏は日米通商条約提携での警備、妻子等は疎開、知行地では輸出用に大豆、水油で商売、やがて家族の男たちは講武所で調練に頻繁に出され、知行地の農民も農兵として参画(江戸城下で1万人)
ー長州藩征伐で出兵、慶喜が将軍に就任すると御書院番が解散、奥詰銃隊となり、寛永寺、天璋院などの警備となる。この時から江戸、日本中が貧困者に溢れ(約10万人)での騒動、打ち壊しなど乱発した。
長州藩は薩摩藩(グラバー商人)からミニエー銃4300丁、ゲベール銃3000丁を調達、戊辰戦争へ突入した。酒依氏家、鈴木家は維新後茶、牧場などしたが廃業となる。


日本の海防政策・北方領土『幕末の海防戦略』

2024-05-16 07:41:05 | 歴史から学ぶ
@鎖国時代の外国船対応
  • 遭難船からの外国人は保護し、補給を与えた上で出国させた。
  • 外国船の寄港や入国は原則として許可しなかった。外国船打払令により一時的な寄港も認めなかった。
例外的な寄港の許可
  • オランダ、朝鮮、琉球の出島利用は認めていた。
  • 幕末から明治にかけて、欧米諸国との通商交渉により、徐々に寄港や開港が認められるようになった。
北方領土問題
  • 当時、国後島と択捉島は日本領であった。
  • 中間にあるウルップ島は無人島とし、日露両国の了解のもと「空島」とされていた。
  • 終戦後、ソ連(現ロシア)が北方4島を不法占拠した。
鎖国時代の日本は、原則として外国船の寄港や入国を認めず、一時的な補給のみを許可していた。しかし、幕末から明治にかけて開国が進み、徐々に寄港や開港が認められるようになった。また、北方領土問題では当時の日本領土であったにもかかわらず、終戦後にソ連(ロシア)に不法占拠された経緯がある。
『幕末の海防戦略』上白石実
「概要」突然のペリー来航は、幕府に大きな衝撃を与えたが、外交交渉には周到な準備をして対応している。なぜそのような戦略をもちえたのか。十七世紀のヨーロッパ船から十九世紀のアメリカ船の来航まで、日本に接近する様々な異国船への対応を検証。打ち払い・垣(かき)船(ふね)・薪水(しんすい)給与など、海禁を維持するために奔走する幕府の姿を描き、海防政策の本質に迫る。
ー1612年幕府ではポルトガル・スペインの出島などから領土的野心への脅威からキリスト教禁教
ー1633年には宣教師渡航禁止、武器輸出禁止、日本人の渡航禁止を敢行
ー1637年島原の乱、ポルトガル戦入港禁止、異国船取り払い令など発令
1792年松平定信の海防構想発令(海辺御備愚意・強兵富国中心)
    対馬藩、泉藩などからはかなり出鱈目な報告書が提出されていた
    定信が退任すると湾警備構想が消え去ってしまった
1807年にはロシア船による蝦夷地襲撃、打払令発信
    日本両道国後、択捉としてウルップは人の住まない無人島とした
ー1818年以降異国船来航(ロシアのみならずイギリスなど)捕鯨目的で来航
    大津事件(イギリス人の上陸・捕鯨船)食料の補給
    水戸藩は船に大砲2門、鳥銃21、短筒30などを設置
    漁師と異国船とが頻繁に交流、海禁策が崩壊していた
    米廻船と接触を避ける為利根川を利用した迂回路、陸路を選択した
ー1825年異国船打払令を発令、漁業者との接触を禁止、外国人隔離を目指した
    薪水給与令により上陸は許可せず場合によって大砲武器等に関しては領置(押収)
1844年阿部正弘政権(27歳~39歳)により異国船払打令継続
    海防掛老中、若年寄新設、海防策強化(農兵・浦賀での外国対応)、大型船建造
    異国船が商船や捕鯨のみならず軍艦が増え通称や開港を求める要求が増える
    アメリカ軍艦など太平洋でのアメリカ捕鯨船がピークとなる
    オランダ・朝鮮・琉球船の許可(出島許可、軍艦の利用許可、帯刀許可)
    フランス・デンマークなどの軍艦外国使節の来航
ー1868年 明治新政府日米修好条約などにより築地での居留地を認める
    在留外国人に対して湯治など許可(箱根・熱海)但し通訳付きを条件
ー1895年日英通商航海条約で外国人内地雑居許可


「偽」ならぬ「義」が必須『名将の品格』

2024-05-11 07:41:18 | 歴史から学ぶ
名将の品格:上杉家の「義(仁愛)」、「天地人」=私利私欲ではなく「義」を重んじた(裏切らず、謀略を使わず、非道をせず)上杉謙信・直江兼続の「義と経済の両立」は現代に必須の心構え現代、政治家の公約は嘘ばかりで政策も裏を返せば「偽」が蔓延る。正に自己主義的で世の中において最も必要な道徳心「義」が欠けている。また、人を思う心「仁愛」の欠片もない「罪ある」政治家が知らぬ顔して大手を振っている姿は異様だ。日本人の心である「思いやり」など品格が削がれた社会は末恐ろしく見える。
『名将の品格』火坂雅志
「概要」戦国乱世は、人々が利によって動いた時代である。そんななか義という思想を唱えた上杉謙信、その一番弟子が直江兼続である。謙信から受け継いだ義の心を、しなやかに発展させた兼続は、やがて仁愛の境地に達する。NHK大河ドラマ「天地人」の原作者が上杉家にみる義と愛の精神を語る。
時代の名将とは越後の上杉謙信、名丞相の直江兼続「品格=義」を重んじた武将
    「天地人」=私利私欲ではなく「義」を重んじた(裏切らず、謀略を使わず、非道をせず)
    上杉謙信の「義と経済の両立」で日本一、裕福な国だった越後(米、青苧、金山)
    「身の丈の幸せ」を領民と分かち合い「領土的野心」を主としなかった
    上杉家の家風(正義を重んじる)を受け継ぎ兼続が采配、会津での戦いに挑む
    「直江状」にて反抗、家康12万に対し会津征伐となるが石田三成の挙兵で中断
    関ヶ原以降も上杉家は小国ながら「義」を通し家康に抵抗していた
        家康の言葉「上杉のような家を潰してはならぬ」(義の家として上杉家は存続)
    困難から逃げないことが「上杉家の義」の道であり侍の道と貫く
    米沢藩の兼続は「義と経済の両立」を実現30万石を50万石にまで努力した
    幕府に対しても「抑止力」として武器製造等を米沢城下で果敢に進めた「武技恭順」
    米沢藩はその上杉鷹山などを輩出、藩校には兼続の5万冊に蔵書「興譲館」も設立
    「武士道」の先駆けとなる(新渡戸稲造)
ー織田信長・参謀沢彦宗恩(京都の禅僧)「岐阜」「天下布武」を命名・平出政秀
「七徳の武」暴力を禁ず、兵を収め、大を保つ、功を定め、民を安じ、民衆を和らげ、財を豊かに
    徳川家康・太原雪斎・金地院崇伝  、武田信玄・恵林寺快川紹喜 、織田信長の3度の大泣き:尾張の木村城で多くの部下を死なせた時・平出政秀死去・最愛の側室吉乃死去
「政治家の公約は嘘ばかり、企業の無責任体質、年金も医療も金融も福祉も破綻寸前」
世の中「偽」がはびこる時代に「義」が必要となる
 

生き残る為の選択『歌われなかった海賊へ』

2024-05-07 12:45:46 | 歴史から学ぶ
生き残る為の嘘と真実。人間は死に追い込まれた時の選択が、嘘をついて生き残る選択を取るか、真実を押し通し死を覚悟する選択を取るか。時は連合軍により侵攻でナチス体制が崩壊始めた時期、強制収容所近くに住むナチ、青少年ヒトラー・ユーゲントに忠実な住民における選択が迫られ、実際に連合軍はそんな住民に対してどんな判断をしたのだろうか。強制収容所への輸送を阻止しようとした勇敢な少年少女軍団「エーデルワイス海賊団」は現在でも碑のプレートは存続している、という。この小説はその一部事実を遺す為の「生き残る為の嘘と真実」人間の尊厳を問う小説だ。
現代でも命令に従い悪をも実行するのか、あくまでも反抗し乱暴されても悪には手を出さないのかの選択など「命令統制」に絡む事件に疑問が残る。命令した者への報復と実行した者への報復をどのように判断したら良いのか。
『歌われなかった海賊へ』逢坂冬馬
「概要」1944年、ナチス体制下のドイツ。父を処刑されて居場所をなくした少年ヴェルナーは、体制に抵抗しヒトラー・ユーゲントに戦いを挑むエーデルヴァイス海賊団の少年少女に出会う。やがて市内に建設された線路の先に強制収容所を目撃した、彼らのとった行動とは
ーエーデルワイス海賊団、10代の四人でのナチスが構築し始めた鉄道の沿線にある工場に興味を持ち探検することを決定。前途多難を覚悟でひたすら沿線を歩く旅が始まる。
ー終点であるポイントは強制収容所であることがわかり驚愕する。
ー貨物車で運ばれるのは「犯罪者」だという認識の下強制収容所に運ばれ、気力がないものは即座に射殺され、他の者は強制労働を強いられる。
ーこれ以上残酷な仕打ちは人間として許せないエーデルワイス海賊団は米国が落下させた不発弾を列車の通るトンネルと橋を爆破させようと動き始める。


情に絡んだチョットエロチックな物語『枕草子の楽しみ方』

2024-05-03 07:40:01 | 歴史から学ぶ
学校で学んだ平安時代の宮廷暮らしを綴ったという「枕草子」、さらには「源氏物語」等は当時さっぱり面白味に欠けていた単なる古書だと思っていたが、現代訳された本書のような男女関係が多い物語(恋愛、恋文、女心・男心)少々エロチックな場面等は学生に教えようとすること自体がやはり難しかったのかと言う気がする。この清少納言ほど口の悪さはないとあるが、実のところいい男に巡り会えなかったのか、とさえ思う。男に対しては「油断ならぬ不条理だ」と記しながらも、30歳近くになり大切なことは「男にしても女にしても思いやる心が大切だ」と力説している所は宮廷での情をうまく読み取っていたと思う。第152段でのイタズラ付きの子どもに対する躾など現代でも変わらないと思わず笑ってしまう。
『枕草子の楽しみ方』林望
「概要」『枕草子』全三百十九段から読みどころを精選。清少納言の鮮やかな筆が、『源氏物語』全五十四帖の現代語訳『謹訳 源氏物語』の著者林望の解説と現代語訳で甦る。「今どきの親は……」と嘆く場面もあれば、男女の恋心の機微や、宮廷サロンの雅な情景、はたまた男の不条理さを責め立てたり、男に騙される若い女房たちに苦言を呈したり、抱腹絶倒の笑い話もあり。学校では教わらない古典随筆の名著の本質に触れられる絶好の入門書。著者の古典の知識と人間への深い洞察による解説は必読。本書一冊で、『枕草子』の世界が語れるようになる。
30歳を超えた清少納言は意外に口の悪い人、非常に潔癖な性格で
    猥褻なネタなどを嫌い、情愛深い人
    言うべきことははっきり言える人で心も強く、弁も立つ人
・男に対して
    あまり真面目な人は、異性にモテない、ちょいワルの魅力を感じていた
    男ってものは、つくづく油断ならないと言いながら
    お坊さんは美男が良い方を選ぶ、それは説く言葉が尊く思えるから
    「きぬぎぬの文」とは一夜を共にした男が認める文を女に贈る慣わし


戊辰戦争の敗北から学ぶこと『桑名藩戊辰戦記』

2024-04-13 07:53:02 | 歴史から学ぶ
@戊辰戦争から学ぶ「敗北」の教訓 戊辰戦争は、明治維新期における重要な出来事の一つで、この戦争から、私たちは「敗北」の教訓を学ぶことができる。
最新式武器の調達と指揮官のリーダーシップ
戊辰戦争において、薩摩藩と長州藩は最新式の武器を積極的に調達し、経験豊富な指揮官を配置していた。一方、会津藩や米沢藩の指揮官は年老いており、戦争経験も乏しかったため、兵士の士気も低かった。
豪商たちの活躍
薩摩藩と長州藩の勝利には、豪商たちの活躍も大きな役割を果たした。彼らは最新式武器の調達に尽力し、財政的な支援も行っていた。
・アラン・ブルーク元帥の名言
英国参謀長アラン・ブルーク元帥は「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」と述べています。この言葉は、経験と能力の欠如が敗北につながることを示唆しています。
戊辰戦争の敗北には、最新式武器の不足、指揮官の力量不足、そして兵士の士気の低さなどが大きな要因となっていたと考えられる。この教訓は、現代においても重要な意味を持っていると言えるでしょう。
『桑名藩戊辰戦記』郡義武
「概要」戊辰戦争を最後まで戦った会津・松平容保の弟・松平定敬を藩主にいただく桑名藩兵は、宇都宮、北越、庄内、寒河江と戦いつづけた…。東北の山野を血に染めて戦った桑名藩士の姿を生き生きと描く。
ー1868年1月6日大阪城から密かに15代将軍慶喜、京都守護職松平容保(会津藩主)、京都所司代松平定敬(伊勢桑名藩主)、老中首座板倉勝静(備中松山藩主)、老中酒井忠惇(姫路藩主)、大目付戸川安愛、外国奉行山口直毅、目付榎本道章がらが逃亡
ー幕府の要人大久保一翁の言葉「恭順なさるなら江戸を離れ、いずれかの遠地で謹慎なさるがよかろう」で越後柏崎へと船で出発する松平定敬(兄は会津・松平容保)を藩主と桑名藩兵約80名、その中の神風隊隊長町田老之丞の手記によるもの(江戸から新潟、と陸路の家老吉村を中心とした120名となる(江戸から下妻、宇都宮、日光、若松、福島、白石、清川、鶴岡へ)。
ーその後どの藩でも恭順派と主戦派の席を同じくした互いの詮議も多く、双方に分かれての戦いが行われる「戊辰戦争」へと広がる
「戊辰戦争」は従来の刀槍から銃砲への過渡期となるが、戦国時代の古式軍法も残った。それは味方戦死者の首級は敵に渡さない、捉えた敵は斬首する。重症者は味方が介錯した。
ー宇都宮城での戦いで東軍の伝習隊の兵がおじけずいたことで土方歳三が「退却するものは誰でもこうである」と兵士を切り捨てる事件が起こる(西軍でも同じようなことが山形有朋軍でも長岡再落城時に起こった)戦死した兵士は皆お寺に合葬墓として残した。
ー宇都宮城では桑名藩は城内の米を市民に分配、衣類布団なども提供したとある。今市に向かう桑名藩に逆に百姓たちが山盛りの握り飯などを振舞ったともある。(徳川家への恩に報いる為)
ー備中松山藩主板倉勝静の提言で日光での争いは回避された「この日光徳川家の神域を血で汚してはならん」の一言
恭順派の勝海舟「人の手柄を横取りする大ボラもので少しも謙虚さや誠意がない」と評価、さらにかつは妻妾など一つの矢野の下で10数人を同居させていた、と悪評価
ー幕臣では小栗上野介忠順(のちに斬首)、五稜郭で戦った榎本武揚は高評価された
ー家老の吉村権左衛門(恭順派に寝返り)は抗戦派の軍事奉行山脇に誅殺される
ー柏崎での桑名藩は総勢360名(町民兵士30名で実質中精兵200名程度)で戦死者33人の碑が柏崎大久保にある勝願寺にある。
柏崎の星野藤兵衛(豪商)が東軍への軍需物資などを調達していた。(食料92万食など)
ー長岡藩軍事総督河井継之助(42歳)は兵割に高所するが西軍の軍監岩村(土佐藩23歳、その後解任)との物別れで北越戦争となる(継之助の交渉相手が若すぎて建設的な事にはならなかった)
ー長岡藩の家老山下帯刀(戊辰戦争で戦死)と山本五十六・山本勘助の家系の繋がりがある
ー山県の敗戦・越後平野における旭山から北越戦争に東4千人vs西2万5千人(昼間の銃撃戦は強いが兵士は民兵であり桑名兵の武士の刀戦いは弱い)
北越戦争での3傑とは
長岡藩の河井継之助(42歳)、会津藩の佐川官兵衛(36歳)、桑名藩の山脇十左衛門(48歳)
ー奥州越列藩同盟により米沢藩6百人、会津藩等東で合計3千人が加わったが軍事組織人材に禄高が高い年寄りばかりで戦力に乏しかったvs西の薩摩藩3百人、で会津3百人が戦死。戦力のあったのは東では庄内藩と桑名藩で強かったとある。(桑名藩はすでに2ヶ月で150人となった)
ー7月22日乙茂の小競り合いで神風隊玉井五郎兵衛と馬場三九郎が戦死(常禅寺に墓)
ー新堀田藩の西側への加担の裏切りで長岡城を奪回した河井は敗戦
8月4日東側防衛は数か5百vs西側は5千人と北越戦争・加茂防衛戦が最後の戦いとなる
    5ヶ月戦い北越戦での結果 戦死者数は東1180名、西1048名
    結果的に東軍が苦戦したが検討した戦いでその戦史は有名ではない(東側の苦杯戦争には史上に残したくない)
    土方歳三の「必ず尽力すべし、心を安ぜよ。速やかに我が隊に来れ」と桑名藩兵士を入隊
    桑名藩兵士17名は新撰組に入隊し大江丸にて蝦夷地へ向かう
    庄内藩と桑名藩の残り兵士260名は最後の寒河江の血戦、凄惨悲壮へと向かった
ー降伏
    米沢藩使者「義をもってこれに至る。死すとも謝る可けんや」
    9月23日会津鶴ヶ島城開城、容保含め5千人が降伏、
戦歴史の誤解
    「蛤御門の変」は実は薩摩勢は全く戦っておらず長州を負かしたのは会津藩の戦果だった
    「お由良騒動」(久光派は黒、斉彬派は白)も全く事実は逆だった事実
    「ええじゃないか」騒動も西郷の高森の陰謀説に疑問
    「坂本龍馬・伊東甲子太郎暗殺」にも薩摩藩が暗躍していた
    「長州の桂小五郎」狡猾な男、尊王を唱えながら政権獲得を狙った
    「錦旗」は大久保利通の偽物作
ー超名人の名訓
    大鳥圭介総督「自分はこれまで戦場に出た事なければ、身体の事未熟でありその大任を荷ふ事能わず」
    長州藩品川弥二郎「黒田清隆や山県有朋が河井に会わないで、岩村のような小僧を出したのが、大きな誤算であった」
    ナポレオン「敵の大群を打ち破るには、敵兵力を分散し、素早い攻撃で撃破すれば良い」
    英国参謀長アラン・ブルーク元帥「ウスノロは何度戦ってもウスノロである」


「推絵本」で一気に広がる江戸時代『和本への招待』

2024-04-05 07:39:07 | 歴史から学ぶ
江戸時代の江戸には、意外に多くの読書人がいたことが分かる。当時の貸本屋の読者数は約10万人にも上っていた、と言う。また、尾張藩主や豊後・佐伯藩主など、高額で多くの書籍を読まれていた有力者もいた。
特に印象的なのは、平安時代の絵巻物を題材にした黄表紙「堪忍袋緒〆善玉」や、吉原のガイドブック「吉原細見」、洒落本「大磯風俗 仕掛文庫」など、挿絵本が流行したことです。当時の文字認識率が低かった人々でも、挿絵本を購入して楽しむことができたため、これらの本の流通量が大きく増加したと考えられます。
『和本への招待』橋口侯之介
「概要」平安時代の『源氏物語』から、蔦屋重三郎が手がけた黄表紙をはじめとする草双紙、山東京伝の洒落本、歌麿や北斎の挿絵入り絵本。1300年以上の歴史を持つ和本は、日本人の知恵と美意識の結晶である。結び綴とも呼ばれる、組紐を使った大和綴。高度な製本技術を必要とし、数葉ずつ重ねて糸で縫う列帖装など、手にとって愉しめる伝統文化を、神田神保町の老舗・誠心堂書店の店主が丁寧に解説。豊饒な書物の歴史を解き明かす。
ー「和本」奈良時代から明治初期
    巻子(巻物)・折本(折り畳んだ)・粘葉装(糊付け冊子)・列帖装(重ね糸で括る)・大和綴(組紐と括る)・袋綴(表紙を付けて糸で括る)・写本(手書きに書物)・版本(活字か木板に印刷)・板木(文字や絵を彫った板)・古活字版
ー「物の怪」怨念・悪霊などの物語(平安時代からの物語)
    漢字は真名と言い男文字、仮名は女文字とされた(源氏物語・紫式部日記など)一話完結の構成で、現代の54巻長編ではなかった
    平安時代は写本が重傷櫃に入れられ神社などで保存された
江戸時代の嫁入り本が「源氏物語」で嫁入り道具に黒棚とお厨子とともに入れた
ー朝鮮では高麗時代から印刷が行われ「大蔵経」、14世紀には銅活字印刷が導入された
ー日本は中世より木版印刷で1593年以降から活字印刷へと変わる、明治から活版印刷
    ヨーロッパの26文字は数千を超える文字では活字印刷は向かなかった
書籍目録が1658年~あり刊行物は約6千点で「仏書」が多かったとある、本屋は京都が多く1716年には2百軒あったとされ大阪、東京へと増える。その後本屋巻での株仲間が増えた。株仲間の目的は重板、類板を摘発。(処罰:家財欠所、十里四方追放、課料鳥目20貫文など)
ー書籍の売り方は店に並べるほかに新本を持ち歩き貸し出す気に入ってもらえば購入して貰う、さらに目録を見せて外売り、貸本屋(江戸で656軒=10万人の顧客数)での販売など
ー大口顧客は尾張藩(8代藩主徳川宗勝と宗睦)と豊後・佐伯藩(藩主毛利高標)60~260両
ー奉行所が本の製本申請をもとに許可した(草稿と手数料を払う)年間目録465点、江戸時代の草紙屋は演劇と本の連携から始まった、その後歌舞伎の人気となる。蔦屋重三郎(本屋から様々な黄表紙、洒落本、吉原細見などを出版、演劇などにも結びつけた)