@日本の歴史人物の名言集。本人の言葉ではないかもしれないがその時代、時代の流れを感じ、読み綴った名言とそのエピソードである。(新しい歴史人物順)中でも気になったのが、NHKの西郷どんで出るかもしれない上野の銅像を見て言った妻の言葉「こげんなお人じゃなかった」とはどんなお人だったのか。新たな西郷どん姿が現れれば楽しいかも。この書籍で気になったのが1869年身分制度廃止後の国民に対し、近代化に「教育」が重要視されていたこと。旧長岡藩の「米百俵」がその代表だが、米価値を「人材育成」にと学校を作った。まさに国の成長に最も寄与することだと判断したことは素晴らしい時代の始まりであり、藩主だと想像できる。現代でも同じことが言えると思う。「人材不足」であれば今こそ近未来を予測、次世代に備える。中・長期の人材育成・養成計画予算を立て、実行できる政府がほしいものだ。どうも政府の動きは予測で動ける組織ではなく問題発生時で騒ぐ、いつも後手、追いついた時にはもう時代遅れ、不必要となる。いい例がつい最近の法務関係人材育成だった。期末の政府予算の多くは現状維持の為だけなのか。先を読み判断できる財務担当者不足こそ必要だ。
『この国のことば』半藤一利
- 立派なことば・情けないことば・力ずよいことば、愚かしいことば
- 「歴史の面白さはエピソードにあり」
- 榎本武揚の外国語
- 英語・オランダ語・ロシア語・ドイツ語・フランス語を使い
- デモンストレーション・インテリゲンチャ(ロシア語)
- 西郷隆盛の妻糸子夫人
- 上野の銅像を見て「こげんなお人じゃなかった」
- 清水次郎長の大往生
- 「死んで仕舞えば仏様よ、敵も見方もあるのか」74歳没
- 海に投棄された幕府側の屍体を葬った
- 万歳三唱の始まり
- 明治22年帝国憲法発布の日、学生が明治天皇を排して歓呼
- 発案者は帝国大学和田垣謙三教授
- 「板垣死すとも自由は死なじ」
- 板垣が暴漢にあい発した言葉でなく新聞記者の名言
- 山県有朋の「軍人勅諭」
- 軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
- 軍人は礼儀を正しくすべし
- 軍人は武勇を尊ぶべし
- 軍人は信義を重んずべし
- 軍人は質素を旨とすべし
- 日本最後の「仇討ち」
- 福岡藩士の臼井亘理が妻の仇を、明治13年(1880年) 「明治6年・仇討ち禁止令」があったが遺児は終身刑となる
- 大久保利通の遭難
- 「国賊!天誅だ!」赤坂で襲われ47歳で世を去る
- 西郷隆盛
- 「児孫の為に美田を買わず」
- 子孫に残すべきは物質よりも精神である
- 日曜日は休日とする
- 明治5年「日曜日は休日とすべし。土曜日正午以降は休暇たるべし」と布告、明治9年4月1日から施行となる
- 明治の人「なぜ、休まなくてはならんのかね」と言った
- 日本初の契約結婚
- 明治8年(1875年)2月6日証人福沢諭吉が最初
- 最初の鉄道開通式
- 新橋・横浜間明治5年(1872年)1時間の旅
- 女性断髪禁止令
- 明治4年(1871年)散髪・制服・脱刀を交付
- 女性が散髪・断髪したことで醜態だと男だけ適応とした
- 「米百俵」旧長岡藩の学校建設 明治3年(1850年)
- 人物養成へ尽力する為洋学校をつくる(現長岡高校)
- 食う事は大事だがその後何も残らないならば・・が理由
- 靖国神社の始まり「東京招魂場」
- 幕末の尊王攘夷のため脱藩した多くの志士を祀るところ
- 明治2年明治天皇により統合、賊軍の死者は祀られていない
- 日本文化の伝統「死後の霊魂をこの世で魂祭り安心を得る場」
- 「平民」四民平等となった日
- 明治2年(1869年)身分制度廃止
- 公家・大名を華族・武士を士と卒
- 農工商を平民(苗字・馬に乗ることを許された)
- 土方歳三 35歳没
- 五稜郭で死に場所を求めた言葉「死に遅れた」「すまんのう」
- 「叩かれて音の響きしなず菜かな」
- 近代化の事業は教育
- 明治2年(1869年)小学校設置令
- 京都の第27番組小学校が最初の小学校
- 教師の心得べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与え啓蒙、その他片仮名文字・地図・地球儀・日本史及び万国地
- 戊辰戦争終結
- 明治元年(1868年)9月21日、白旗で降伏
- 白虎隊・娘子隊含め戦死者2千数百名
- 松平容保の「一心大切」(決戦を決意した時の思い)
- 「一世一元」
- 年号が「慶応」から「明治」恒久の制度となる
- 江戸が東京になった日
- 慶応4年(1868年)7月17日詔書がでる
- 近藤勇の処刑
- 「快く受く、電光3尺の剣」板橋の処刑場で斬首35歳
- 新撰組組織が30歳の時、武蔵国多摩の郷土上がりの武士
- 5箇条の御誓文(慶応4年1868年)3月14日
- 広く会議を興し万機公論に決すべし
- 上下心を一つにして盛んに経綸を行うべし
- 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す
- 旧来の陋習を破り天地の公道に基ずくべし
- 知識を世界に求め大いに皇基を振起すべし
- 「錦の御旗」鳥羽伏見の戦い
- 大久保利通の愛人に作らせた偽物、鳥取、津藩が寝返った
- 徳川慶喜の発声「朝敵にはなりたくない。江戸に帰る」
- 高杉晋作・29歳没
- 「おもしろきこともなき世をおもしろく」 酒も女も断たない
- 「3千世界のカラスを殺し、主と朝寝がしてみたい」
- 坂本龍馬
- 「我々が生命を的に寝食を忘れて奔走してきたのは、単に薩長両藩の為ではない。日本の前途を案ずればこそなのである」薩長同盟の成った日
- 相撲の「待った」
- 現代の仕切り制限は幕内4分、十両3分、幕下2分
- 慶応元年鬼面山谷五郎対両国梶之助95回の「待った」
- 小栗上野介忠順・外国奉行・陸軍奉行・軍艦奉行
- 「土蔵の一つもつけてやる」横須賀造船場を建てる
- 近代的な生産施設は次の新国家に役たつことを夢見た
- 佐久間象山・54歳(恐れを知らない人)
- 「開国してまず西洋文明を取り入れよ」
- 「散るもめでたし桜花」西洋学・開港派
- 大老井伊直弼
- 「散りて後ぞ世に匂いける」開港・日米通商条約
- 死後5年後朝廷も賛同し「これからは開国だ」と提言
- 勝麟太郎
- 「ただただ誠心誠意あるのみ」江戸開港・西郷と会談
- 吉田松陰・留魂録・安政の大獄にて30歳没
- 「身はたとひ武蔵野野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
- 橋本左内(福井藩蘭学者)井伊直弼打倒
- 「人間自ら適用の士あり。天下何ぞ為すべき時なからむ」
- 安藤広重(東海道53次)
- 江戸八重洲の火消し役武士(定火消同心)でもあった
- 源氏店
- 「お釈迦様でも気がつくめえ」お富・与三郎芝居
- 葛飾北斎 90歳
- 「百歳にして正に神妙」気の若さを永遠に保つこと
- 二宮尊徳 70歳
- 「葬るに分を超えゆるなかれ。ただ土を盛り、傍に松か杉を一本植えれば足りる」質素倹約・勤勉第一・報徳思想
- 杉田玄白84歳
- 「長生きを願うのは、置いて不自由の身を考えぬからで、無ええ気のことなり」
- 貝原益軒(養生訓)
- 「接して洩らさず」
- 井原西鶴
- 「下戸の建てたる蔵もなし」
- 水戸光圀
- 「苦は楽の種、楽は苦の種としるべし」
- 「分別は堪忍にあると知るべし」
- 「欲と色と酒は仇としるべし」
- 中江藤樹
- 「世間にとり流行る学問は多分偽物にて候。偽の学問をすればなにの益もなく、帰って氣質悪しく威風になるものなり」
- 徳川家康
- 「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に欲起こらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは的と思え。勝つ事ばかり知って、負けるを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」
- 真田幸村の意地・大坂夏の陣
- 「日本国を半分賜るとも」と家康の誘いも断る
- 後藤又兵衛・大阪夏の陣
- 「武士の本位にあらず」と家康の誘いを断る
- 宮本武蔵・巌流島の決闘
- 「我事において後悔せず」五輪書にある
- 曽呂利新左衛門・秀吉に仕えた頓知頓才
- 「人はただ、まめで四角で柔らかく、豆腐の様に変わらぬが吉」
- 大谷吉継・関ヶ原の合戦
- 「貴殿才覚余れども、一大事の所不足なり」石田三成に武士に対する「心」が足らないと言った
- 北条氏直・秀吉に包囲された「小田原評定」
- 「三尺下がって師の影を踏まず」
- 明智光秀・本能寺の変
- 「敵は本能寺にあり」
- 武田信玄 52歳没
- 「人は城、人は石垣、人は掘。情けは味方、讎は敵なり」
- 毛利元就の教訓
- 「3本の矢」3人の子供に伝えた
- 上杉謙信
- 「敵に塩を送る」北条と今川に包囲された敵武将武田信玄へ
- 織田信長・桶狭間合戦の朝
- 「人間50年、夢幻のごとくなり」下天の講釈
- 北条早雲の家訓 (関八州の主人となる)
- 「常に人目を忍び見るべし」暇があれば勉強、読書せよ。ただし人目を忍んでやれ。
- 足利義政・銀閣寺の造営・乱世後の余生
- 「咲き満ちて花より外に色もなし」
- 世阿弥元清の初心(能役者)
- 「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」の3か条となっている、人間は一生鍛錬あるのみ
- 平治物語(鎌倉時代の軍記)
- 「情けは人のためならず」は他人に情けをかければ回り回って思いもかけぬよい報いが自分にもあるものだという意味