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「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……

2021-03-02 06:34:09 | 昨日の風 今日の風

「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……
  (前回の続き)
   
あまりの突然の家臣光秀の謀反に、忠実な信長の家臣の光秀の豹変ぶりに、
   「何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、

   自然の成り行きなのでしょう。

   光秀を操った黒幕は誰なのか?その代表的なものを紹介します。
    <正親町天皇・朝廷黒幕説>
    信長が天皇に譲位を迫るなどしたので、
 危機感を抱いた朝廷が光秀に命じて信長を討たせたという説がある。
 『天下布武』を唱え、比叡山皆殺し焼き討ち、
 一向一揆宗に対する徹底した弾圧など徹底して既成の権威に対する信長に対し、
 警戒心を抱いた朝廷・正親町天皇が謀略説。推測の域を出ない説。

<足利義昭黒幕説>
 信長によって追放され、毛利輝元のもとに身を寄せていた将軍・足利義昭が、
 かつて自分に仕えていた光秀を背後から動かして謀叛を起こさせたとする説。
 光秀は、信長を殺害して義昭を京都に復帰させ、
 室町幕府を再興する目的で、謀叛を起こしたと推測する。

<羽柴秀吉黒幕説>
 秀吉は信じがたいスピードで備中高松城(岡山市北区)から上洛し、光秀を山崎で討った。
 有名な中国大返しである。光秀の謀反を秀吉は事前に予測していた。
 そうでなければ数万の兵を率いて戻ってくることはできないのではないか。
 山崎の戦で主君信長の弔い合戦を成し遂げ、やがて天下取りを果たした秀吉は、
最大の利益享受者になった。
 ドラマでは、光秀の盟友・細川藤孝(眞島秀和)はその直前、
 備中で毛利と戦っている秀吉(佐々木蔵之介)の元に
 光秀に謀反の動きがあるという密書を送っていた。

 細川藤孝の情報により、秀吉は中国大返しをスムーズに行うことができたと、
 暗に秀吉の存在を暗示しているようだ。
 細川藤孝の密書が資料として残されていたわけではないが、作品に奥行きを持たせる描き方だ。

黒幕説は他にも、
<徳川家康黒幕説>、<本願寺・宗教勢力黒幕説>、<堺商人黒幕説>等々たくさんあるが、
いずれも憶測のみで古文書等による検証がされているわけではない。
室町時代の終焉の過程で、戦国時代の覇者が唐突に光秀に倒されてしまったところに、
多くの憶測が生まれ、動機探しが生まれたものと想う。
黒幕説ではないが、光秀の怨恨説など、根強い推測が多くの人々の支持を得ている。
信長の光秀に対する余りの横暴さに、我慢に我慢を重ねてきた光秀の堪忍袋の緒が切れた。
それでは、高倉健さんのやくざ映画と変わりがない。
そこで、次のような理由付けがなされる。

「座して死を待つよりは………」
   信長との心理的乖離は、光秀を追いつめていく。
   その時、光秀の脳裏に浮かんだのは「座して死を待つよりは………」という言葉ではなかったか。
   闘うことをせずに滅んでいくのなら、武将として闘って己の運命をかけてみたい。
          「謀反」とか「天下取り」ということではなく、信長と出会い武将として成長した光秀が、
   最後に選んだ道は、主君・信長と同じ道を歩むことはできないという、
   決別という選択ではなかったか。
   この選択が「謀反」という形でしか実現できなかったところに、
   光秀の不幸があったのではないか。

 首尾よく信長を本能寺に葬った光秀のその後
 山崎の合戦
   天正10(1582)年6月2日 信長は本能寺に斃れた。
   その報が信長の命により中国備中高松城攻めを敢行していた秀吉のもとに届いたのは、
   2日後であった。
   何度も馬を乗りかえて一気に駆け抜けた200キロの道程であった。
   信長の死が流布されれば、反信長の勢力が一気に押し寄せて来るに違いない。
           秀吉の行動は早かった。
   毛利方の高松城主・清水宗治の切腹などを条件に和睦を結ぶ。
   自らの城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出した宗治。
   船上で舞を踊り、見事な辞世の句を詠むと、宗治は切腹した。
  

(高松城水攻め之図)                    (高松城主・清水宗治辞世の歌)
  歌の意味(意訳)
  憂いに満ちたこの儚い浮世を今、私は渡っていくのだ。武士(もののふ)の誇りを、私の愛した高松の
  地の高い松の根元に生えたいつも青々として色あせない苔のように、
  とこしえに忠義という名を残して……


 毛利氏との和睦が成立すると、秀吉は主君・信長の仇を打つため3万の兵を引き連れて、京に向かう。
世に言う『中国大返し』である。
備中高松から京都山崎までの230キロの道のりを10日で踏破する強行軍である。
鎧具足を付けた兵が、1日23キロの道を10日で本当に踏破できたのか。
野宿に近い状態の野営で兵糧米はどのようにして調達したのか等々疑問は残ります。

山崎の合戦
  6月13日午後4時頃戦いは始まった。
  光秀が本能寺に信長を討ってから11日後のことである。
  秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。
  圧倒的な軍勢の差に光秀は敗走。
  兵は逃散し、残ったわずかな兵とともに夜陰にまぎれ、
  近江へ逃れる光秀は、落ち武者狩りの土民の竹やりにかかり短い生涯を閉じた。
  1582(天正10)年 光秀54歳 乱世の戦いに明け暮れ、明日を夢見た光秀の短い生涯であった。

 (敗走する光秀軍)
 さて、歴史的事実はここで光秀は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
 光秀が見た夢は幻となって消えたのか。
 大河ドラマの最後にもう一つ視聴者に夢を託して終わるのですが、次回をお楽しみに……
                                 (つづく)

     (昨日の風 今日の風№119)   (2021.2.24記)

 
 
 

 

 

 


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