落合順平 作品集

現代小説の部屋。

居酒屋日記・オムニバス (83)        第七話  産科医の憂鬱 ③

2016-06-02 10:29:31 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (83) 
      第七話  産科医の憂鬱 ③




 「福島県立大野病院で、2004年12月17日。
 帝王切開で、ひとりの妊婦が亡くなった。
 難しい出産だった。
 妊婦が亡くなったことは残念だが、医師に過失はなかった。
 ところがそいつが突然、医療事故として警察で取り上げられ、刑事事件に発展した。
 担当していた医師が、おおくの報道陣の前で逮捕された。
 その姿は、たくさんの産婦人科医たちに『明日は我が身』という
 絶望感と危機感を与えた」



 「それがきっかけで、産婦人科医になる人間が減ったということか?」



 「そういうことも有る。
 そうでなくても、産科医はとにかく常に忙しい。
 仕事上のリスクも多い。
 若い者たちに嫌われて、人気がなくなるものも無理はない」



 まもなく時計の針が、午後の11時をさそうとしている。
「久々に休みをもらった。俺がこころおきなく呑めるのも、こんな時だけだ」
同じ歳で白髪が目立つ産科医が、小さく笑う。
彼が実家の産院へ戻ってきて、3ヶ月。
ほとんど休みなしで働いたあげく、ようやくもらった久々の休日だという。



 「ウチのオヤジは、頑固な自然分娩派だ。
 鎮痛剤や、麻酔剤の投与などは、絶対にしないと公言している。
 自然分娩をした方が、産んだ瞬間の喜びがはるかに大きくなるという。
 産むときの痛みは、母と子の最初の絆になるそうだ」



 「へぇぇ。出産する時の痛みが、母と子の最初の絆になるのか・・・
 男には、絶対にできない絆だな」


 
 「医学的な理由はともかく、ウチのオヤジは単純に、自然分娩が好きなだけだ。
 陣痛に苦しんだ末、無事に自分の赤ちゃんを産んだとき、
 母親が見せる安堵と達成感に満ちた笑顔は、実にすばらしい。
 男には絶対に味わえない経験だ。
 ちなみに、もし男性が、陣痛と同じくらいの痛みを感じたら、
 その場で気絶するだろうと言われている」



 「鼻からスイカが出るほど痛い、と聞いたことが有る。
 医学が発達した今だからこそ安全性はあがったが、それでも出産にはリスクが伴う。
 2004年の福島の事件というのは、いったい、どんな内容なんだ?
 俺には、その事件の記憶がまったく無い・・・」



 2004年(平成16年)といえば、死者68名を出した新潟県中越地震がある。
新紙幣が発行され、新1万円札が福澤諭吉。5千円札が樋口一葉。
千円札が野口英世に変った年でもある。
シアトル・マリナーズに在籍していたイチローが、シーズン最多安打記録を、
84年ぶりに更新したのもこの年だ。
『チョー気持ちいい!』 アテネ五輪の男子100メートル平泳ぎで、
金メダルを獲得した北島康介選手が、プールからあがった直後に述べたこの言葉が、
流行語になったのも、やはりこの年だ。



 この頃。幸作の居酒屋も、好景気の時節に乗って忙しかった。
愛妻と2人で切り盛りした居酒屋は、毎夜、これでもかとばかり繁盛した。
経済財政白書が、バブル後の不況から脱却したと、はっきり宣言したのもこの頃だ。
すそ野がひろがり、景気拡大の時代がようやくやって来た。
ちょうどこのころ。世間を震撼させた福島県立大野病院事件の話は、忙しく働いていた
幸作の耳には、まったく届いていなかった。



 「お産で胎盤が出ないと、大変なことになる。
 ひとつ間違うと、大出血がおこるからな・・・」


(84)へつづく


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