落合順平 作品集

現代小説の部屋。

おちょぼ 第93話 回想・シベリア鉄道とモスクワ

2015-01-23 11:53:17 | 現代小説

「ちょぼ」は小さい意。
江戸時代、かわいらしい少女につけた名。または、かわいいおぼこ娘。
江戸の後期、京都・大坂の揚屋・茶屋などで、遊女・芸者の供や、
呼び迎えなどをした15、6歳までの少女をさす。

おちょぼ 第93話 回想・シベリア鉄道とモスクワ





 モスクワ~ウラジオストクを結ぶ、シベリア鉄道は総距離9,258kmを、
6日と3時間で走り抜ける。
列車は15両編成。
1室4名のコンパートメント車両が、車中6泊の居場所になる。
2段ベッドには手すりが無く、油断すると上段のベッドから転落する羽目になる。
寝相の悪い人はベルトで身体を縛り付けておくか、壁際に張り付いて
眠る必要がある。


 車両ごとに、2人の女性車掌が配置されている。
彼女たちはトイレや廊下の掃除から、湯沸し、暖房作業まで黙々とこなしていく。
車内の温度はおおむね、30℃前後に保たれている。
下着1枚か、シャツを1枚重ね着するだけで充分に、快適に暮らせる。
プラットホームへ降りるときは、その上に、ダウンジャケットを羽織るだけだ。



 最大の難関は、言葉だ。
ロシア語以外は、まったくといってよいほど通用しない。
車掌をはじめ、ロシア人乗客の老若男女、駅員、キオスクの売り子、
行商のおばちゃんにいたるまで、意思の疎通は、ジェスチャー以外は役に立たない。
国際列車とは名ばかりで、駅名も車内の表示も、すべてキリル文字で書かれている。
外国人にこれほどまで神経を使っていない鉄道も、珍しい。


 身振り手振りだけで会話をこころみる似顔絵師に、「持っていけば役に立つ」と
姉から渡された、カシオの日露電子翻訳機が役に立った。
おかげで、いつもがら空きの食堂車に入りびたりことが可能になった。
暖かいもてなしの中、似顔絵師は遠慮することなく、ロシア料理のボルシチと
田舎料理におおいに舌つづみを打った。



 窓の外には雪原と白樺林が、どこまでも際限なく続いていく。
母なる川、ボルガを渡り、ヨーロッパとロシアの分水嶺であるウラル山脈を越え、
地球を4分の1周したにも関わらず、外の景色はほとんど変らない。
ところどころに出現する村落も、凍り付いたままで、生活の匂いが感じられない。
雪の中に通行人の姿を見かけることは、まず無い。
民家の煙突からたなびいていく煙だけがわずかに、氷原の中に人が住んでいることを
列車に向かってアピールしてくる。


 ロシアの天文学的な国土の広さには、唖然とさせられる。
まったく変化のない同じ景色が、ほぼ一週間にわたって続いていくからだ。
ヨーロッパの入口にあたる厳寒のモスクワ駅に降り立った時、長旅に疲れた
似顔絵師は、全身に沁みわたっている深い徒労感とともに地球の巨大さを、
あらためて実感していた。


 モスクワの最初の訪問地は、プーシキン美術館だ。
この美術館は、モスクワ最大級の西洋絵画コレクションを持っている。
ルノワールの「黒い服の娘たち」、ゴッホの「赤い葡萄畑」、
ピカソの「アルルカンと女友達」のほか、セザンヌ、ドガ、ゴーギャン、マティスなど、
名匠と呼ばれた人たちの作品がずらりと揃っている。


 (問題は、道順だ。こういうときは、秘密兵器が役に立つ)
似顔絵師が、ポケットからスマホを取り出す。
オンラインサービスの、旅行会社エクスペディアのページを開ける。
まずはプーシキン美術館周辺にある、格安ホテルの検索からはじめる。
素泊まりで3795円と言う、超格安のホテルがすかさずヒットする。



 (本当かよ。日本のビジネスホテルよりも、格安だぜ!)



 ヒットしたホテルから3 km 圏内に、モスクワ音楽院や国立歴史博物館、
モスクワ クレムリンなどがある。
赤の広場と聖ワシリイ大聖堂も 、3 km 圏内という好立地のホテルだ。
部屋数1と、大人1名で予約を入れると、すぐさま「予約が完了しました」
とOKの表示が出る。


 「簡単なもんだ。あっと言う間に、異国の地の宿が予約できたぜ。
 さてと。3月だというのにここは氷点下の世界だ。
 3キロ圏内にあるはずだが、歩いて行くには、少しばかり寒すぎる。
 だいいち、肝心のプーシキン美術館はいったいどこに有るんだ?」


 地下鉄を使うと便利だと、どこかで聞いた覚えが有る。
スマホでふたたび検索をはじめると、簡単に地下鉄の路線図が出てきた。
モスクワの地下鉄は11路線あり、地底深くに作られていることで有名だ。
地下鉄までの移動経路も、歩行者用のナビ機能を使うと便利だ。
歩行の案内図が、美女が矢印をかかげて右、左とリアルタイムに、事細かに出る。


 最新アプリ「美女の案内図」おかげで、似顔絵師は道に迷うこともなく、
無事に地下鉄の駅と、目標のプーシキン美術館へ到着する。
だがそこで彼は高まっていた気分とは裏腹に、心の底から、
徹底的に打ちのめされる羽目になる。
意気揚々と入っていったプーシキン美術館の館内で、彼は脳天を砕かれるような
決定的な、強い衝撃と出会うことになる。
 

第94話につづく

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