東京電力集金人 (86)3姉妹の本音
地震と津波と原発、すべての厄災の直撃を受けた町、それが浪江の町だ。
浪江町では津波で151人が亡くなった。そのうち、33人が今も行方不明のままだ。
長引く避難生活の中でさらに320人が震災後に亡くなり、関連死として認定をされている。
居住地に戻れず、県内外に避難している町民の数は、2万1000人を超えている。
3姉妹が両親の手がかりを探していた請戸(うけど)地区には、
漁港を中心に商店や住宅が立ち並ぶ、かつては、とてもにぎやかな港の風景があった。
波消しブロックの上で手を停めた長女の眼から、ぽろりと涙がこぼれて落ちた。
「悔しいし、悲しい。いつまで経ってもこの気持ちは、胸の中から消えませんねぇ」
ゆっくりとつぶやいたあと、町並みがすっかり消えてしまった一帯をしみじみと眺める。
「あの日。助けようと思えば、助けられる命が、それこそたくさんありました。
でもね。3月12日の朝に町から、全員に対して、突然の避難指示が出ました。
夜が明けたら救助に行こうと思っていたのに、それがまったくできなくなってしまいました。
このへんにはねぇ、見渡す限り、住宅がたくさん建ってたんですよ」
長女が、あの日の出来事を振り返る。
捜索活動が中断してしまった3年前のあの日のことを思い出し、長女は「ただただ悔しい」
と唇を噛み、はらはらと涙を落とす。
巨大津波に襲われた2011年3月11日。
請戸地区のがれきの隙間や、屋根の上からは、助けを求める声がいくつも上がっていた。
同時に町の南にある第1原発では、メルトダウンの緊急事態が刻々と悪化していた。
浪江町は町のほぼ半分が、第1原発から20キロの圏内にある。
翌12日の早朝。浪江町の町長は、国や県の指導が出ない中、
10キロ圏内に住んでいた町民たちに、急いで避難するよう独自の指示を出した。
救出や捜索活動どころか、迫りくる放射能から自分の身を守ることで精いっぱいだった。
請戸地区で警察による本格的な捜索活動が始まったのは、それから1カ月後のことだ。
野ざらしだった多くの遺体は、損傷が激しく、外見からでは身元が判別できない状態だった。
放射性物質が付着している可能性があるからと、遺体にはホースで水がかけられた。
死者の尊厳はもとより、その光景を見てしまった遺族の尊厳もまた同じように踏みにじられた。
助けてやれなかった。捜してやれなかった。
原発の事故さえなかったら、もっと早く捜せてあげたのに・・・
身内の遺体が見つかった遺族にも、見つからなかった不明者の家族にも、
同じように、こころの中に悲痛な深い傷が残った。
それから3年。合同捜索の現場には、地元の有志と消防団員たちに混じり、
両親の手がかりを探す、3人の若い姉妹の姿があった。
行方不明のままの鈴木文雄さん(当時60歳)、十四代(としよ)さん(当時58歳)夫妻を探す
長女の幸江さん(25歳)、次女の春江さん(23歳)、三女の美保さん(20歳)の3人だ。
津波が来たとき自宅には両親と、兄弟でただ1人の男性だった東京電力社員の
清孝さん(当時24歳)が居た。
地元の工業高校を出て、福島第2原発に勤めていた弟の清孝さんは、
たまたま半日の休みを取って自宅にいた。
弟の清孝さんの遺体だけが、1カ月後の捜索で付近から見つかっている。
3姉妹は海にほど近い自宅跡に花を供え、今日も手を合わせる。
「早く見つけてあげるからね」と、姿の見えない両親に向かって話し掛ける。
浜をゆっくりと歩き、砂を掘り返し、がれきをひっくり返して、手がかりを探し続ける。
あれから3年がたち、今日は自分たちだけの力で、行方不明の父と母の手がかりを捜しはじめた。
だがそれは見つけることの難しさを、あらためて実感する空しいだけの作業でもある。
結婚して長女の幸江さんは、東京に住んでいる。
春江さんは仙台で暮らし、独身の美保さんは福島県伊達市で避難生活を送っている。
浪江町は、いまだに全域が避難区域として立ち入りが制限されている。
請戸地区は比較的放射線量が低いエリアとされているが、そう簡単に帰郷ができるわけではない。
復旧と復興のための作業は全く進んでいない。
壊れた家屋はそのままで、打ち上げられた漁船が、今もあちこちにあの日のまま点在している。
長女は「請戸を離れて暮らしていることもあり、父と母が亡くなったとは考えたくはない。
受け入れたくないという心理がずっとこの胸にあります」と苦しい気持ちを語る。
どんな死であれ、愛する家族の遺体を抱き締め、きちんとした形の弔いを果たしてから、
少しずつ死を受け入れていくのが人間としての「喪の作業」なのだろう。
浪江に限らず、行方不明者をもつ家族は皆、この当たり前の喪の手続きができないまま
空しく、流れていく時間だけを見つめていく。
「あらためて私たちだけで捜索してみて、手がかりを見つけることが
難しいということが良く分かりました。
3年前と全く変わっていないこの町の、こんな何もない景色を見せつけられると、
震災直後の喪失感が、なんだかまたよみがえってきます。
少しでもいいから、両親の手掛かりになるものがほしいという気持ちはあります。
だけど3年もたってから捜すというのは、やっぱり遅すぎるような気もします。
切ないですね。なんか、うまく言葉にできません。ごめんなさい」
長女は、複雑な想いで顔を曇らせる。
警察庁のまとめによれば、東日本大震災の行方不明者は、青森1人。岩手1142人。
宮城1280人。福島207人。茨城1人。千葉2人の、合計2633人。
多くはすでに死亡届が提出され、戸籍上ではすでに亡くなった形になっている。
だが中にはこの3姉妹のように、わずかでもいから、それぞれの想いで今も愛する家族の
手がかりを、探し続けている人たちが居る。
(87)へつづく
落合順平 全作品は、こちらでどうぞ
地震と津波と原発、すべての厄災の直撃を受けた町、それが浪江の町だ。
浪江町では津波で151人が亡くなった。そのうち、33人が今も行方不明のままだ。
長引く避難生活の中でさらに320人が震災後に亡くなり、関連死として認定をされている。
居住地に戻れず、県内外に避難している町民の数は、2万1000人を超えている。
3姉妹が両親の手がかりを探していた請戸(うけど)地区には、
漁港を中心に商店や住宅が立ち並ぶ、かつては、とてもにぎやかな港の風景があった。
波消しブロックの上で手を停めた長女の眼から、ぽろりと涙がこぼれて落ちた。
「悔しいし、悲しい。いつまで経ってもこの気持ちは、胸の中から消えませんねぇ」
ゆっくりとつぶやいたあと、町並みがすっかり消えてしまった一帯をしみじみと眺める。
「あの日。助けようと思えば、助けられる命が、それこそたくさんありました。
でもね。3月12日の朝に町から、全員に対して、突然の避難指示が出ました。
夜が明けたら救助に行こうと思っていたのに、それがまったくできなくなってしまいました。
このへんにはねぇ、見渡す限り、住宅がたくさん建ってたんですよ」
長女が、あの日の出来事を振り返る。
捜索活動が中断してしまった3年前のあの日のことを思い出し、長女は「ただただ悔しい」
と唇を噛み、はらはらと涙を落とす。
巨大津波に襲われた2011年3月11日。
請戸地区のがれきの隙間や、屋根の上からは、助けを求める声がいくつも上がっていた。
同時に町の南にある第1原発では、メルトダウンの緊急事態が刻々と悪化していた。
浪江町は町のほぼ半分が、第1原発から20キロの圏内にある。
翌12日の早朝。浪江町の町長は、国や県の指導が出ない中、
10キロ圏内に住んでいた町民たちに、急いで避難するよう独自の指示を出した。
救出や捜索活動どころか、迫りくる放射能から自分の身を守ることで精いっぱいだった。
請戸地区で警察による本格的な捜索活動が始まったのは、それから1カ月後のことだ。
野ざらしだった多くの遺体は、損傷が激しく、外見からでは身元が判別できない状態だった。
放射性物質が付着している可能性があるからと、遺体にはホースで水がかけられた。
死者の尊厳はもとより、その光景を見てしまった遺族の尊厳もまた同じように踏みにじられた。
助けてやれなかった。捜してやれなかった。
原発の事故さえなかったら、もっと早く捜せてあげたのに・・・
身内の遺体が見つかった遺族にも、見つからなかった不明者の家族にも、
同じように、こころの中に悲痛な深い傷が残った。
それから3年。合同捜索の現場には、地元の有志と消防団員たちに混じり、
両親の手がかりを探す、3人の若い姉妹の姿があった。
行方不明のままの鈴木文雄さん(当時60歳)、十四代(としよ)さん(当時58歳)夫妻を探す
長女の幸江さん(25歳)、次女の春江さん(23歳)、三女の美保さん(20歳)の3人だ。
津波が来たとき自宅には両親と、兄弟でただ1人の男性だった東京電力社員の
清孝さん(当時24歳)が居た。
地元の工業高校を出て、福島第2原発に勤めていた弟の清孝さんは、
たまたま半日の休みを取って自宅にいた。
弟の清孝さんの遺体だけが、1カ月後の捜索で付近から見つかっている。
3姉妹は海にほど近い自宅跡に花を供え、今日も手を合わせる。
「早く見つけてあげるからね」と、姿の見えない両親に向かって話し掛ける。
浜をゆっくりと歩き、砂を掘り返し、がれきをひっくり返して、手がかりを探し続ける。
あれから3年がたち、今日は自分たちだけの力で、行方不明の父と母の手がかりを捜しはじめた。
だがそれは見つけることの難しさを、あらためて実感する空しいだけの作業でもある。
結婚して長女の幸江さんは、東京に住んでいる。
春江さんは仙台で暮らし、独身の美保さんは福島県伊達市で避難生活を送っている。
浪江町は、いまだに全域が避難区域として立ち入りが制限されている。
請戸地区は比較的放射線量が低いエリアとされているが、そう簡単に帰郷ができるわけではない。
復旧と復興のための作業は全く進んでいない。
壊れた家屋はそのままで、打ち上げられた漁船が、今もあちこちにあの日のまま点在している。
長女は「請戸を離れて暮らしていることもあり、父と母が亡くなったとは考えたくはない。
受け入れたくないという心理がずっとこの胸にあります」と苦しい気持ちを語る。
どんな死であれ、愛する家族の遺体を抱き締め、きちんとした形の弔いを果たしてから、
少しずつ死を受け入れていくのが人間としての「喪の作業」なのだろう。
浪江に限らず、行方不明者をもつ家族は皆、この当たり前の喪の手続きができないまま
空しく、流れていく時間だけを見つめていく。
「あらためて私たちだけで捜索してみて、手がかりを見つけることが
難しいということが良く分かりました。
3年前と全く変わっていないこの町の、こんな何もない景色を見せつけられると、
震災直後の喪失感が、なんだかまたよみがえってきます。
少しでもいいから、両親の手掛かりになるものがほしいという気持ちはあります。
だけど3年もたってから捜すというのは、やっぱり遅すぎるような気もします。
切ないですね。なんか、うまく言葉にできません。ごめんなさい」
長女は、複雑な想いで顔を曇らせる。
警察庁のまとめによれば、東日本大震災の行方不明者は、青森1人。岩手1142人。
宮城1280人。福島207人。茨城1人。千葉2人の、合計2633人。
多くはすでに死亡届が提出され、戸籍上ではすでに亡くなった形になっている。
だが中にはこの3姉妹のように、わずかでもいから、それぞれの想いで今も愛する家族の
手がかりを、探し続けている人たちが居る。
(87)へつづく
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