落合順平 作品集

現代小説の部屋。

連載小説「六連星(むつらぼし)」第80話

2013-05-30 10:48:07 | 現代小説
連載小説「六連星(むつらぼし)」第80話
「急変する容態の先に」




 「おはよう・・・・おっ?
 どうした響。今日は朝からずいぶんとご機嫌だな」

 「え?。」

 寝起きの髪を整えるために洗面所へ向かっていた響が、
ひと声かけられて、廊下ですれ違った俊彦の顔をぽかんとした表情のまま、
不思議そうに見上げています。


 「なんだよ。
 そんなに見つめても俺の顔には何もついていないぞ。
 不思議なのは、お前の顔のほうさ。
 昨日は何か特別なことでも起きたのかな、良いことでも有ったかい?、
 それとも、ついにお前にも男が出来たか・・・・
 いずれにしても、すこし上気をしているような顔つきだ。
 女は、上気した時の顔が一番美しくなると、昔から相場が決まっている。
 お前さん・・・・嬉しそうな顔で女らしくなったうえに、
 そのうえ、艶っぽくさえなっているぞ。
 だが、あまりにも唐突で突然すぎる変化だなぁ・・・大丈夫か、お前? 
 意外に、見た目で、解りやすいタイプだな」


 「え。そんなに変かしら・・・・今朝のあたしって』

 
 (あ。今朝はいつもより心が弾んでいるから、そのせいだ!
 そのせいで、それがそのままお顔にも出ているんだわ・・・・)



 俊彦が父親だと確信をした瞬間から、弾みがついてしまった響の気持ちの高ぶりは、
一晩経った今朝になっても、いまだに収まる気配をみせません。
(しかし。今はまだその時じゃない・・・・こらこら響。単純に浮かれ過ぎだ。)
熱っぽい瞳のままに鏡に写る自分の顔を見つめている響が、自虐的に笑っています。


 (・・・・でも、どうしちゃったんだろう。
 トシさんが父親だと解った瞬間から、もうすっかりと私の心はにやけきっている。
 もっと自重しなさい。早まり過ぎているぞ、あなたは。
 あくまでもあれは、山本さんから内緒で聞いたワン・ヒントにしか過ぎない。
 母からか、トシさんから、直接その口から真相を聞くまでは、
 このお話は封印をしておく必要がある。
 あせるな、早まるな。その気になるな、響・・・・
 私は昔から有頂天になると、あと先を見ずに有頂天に行動に走る欠点がある。
 自重、自重・・・・はやる心を押さえて、次の機会を待つんだぞ、響。)



 響が自分自身に向かって何度も言い聞かせ、鏡の前で胸を抑えて深呼吸を
何度か繰り返している時、居間で俊彦の携帯が鳴り始めました。
(誰だろう。こんな朝早い時間から・・・・なにか有るのかしら・・)
直感的に、不吉の予感が響の脳裏を走り抜けます。
しかし当の俊彦の声は一向に乱れることもなく、極めて冷静な様子で
かかってきた電話に応対をしています。



 「了解しました。
 岡本には俺の方から連絡をいれるから、君の方は処置に全力をつくしてくれ。
 大丈夫だ。あとの準備も、もう出来ている」


 (あとの、準備まで、もうできているって!)響の顔色が一瞬にして変わります。
昨日はあんなに元気に話していたのに・・・嘘。何故!。信じられない。
事態を察知した響が、居間に居る俊彦のもとへ走ります。



 「話は、聞こえたようだね。
 山本さんの容態が急変したと言う連絡が、たった今入ったばかりだ。
 とりあえずは、病院へ直行をしょう。
 君はそこで降ろすが、俺はそのまま岡本を迎えに行く。
 岡本と合流をしたら、急いでまた病院へ戻るから、君は病室で待機していてくれ。
 ほとんど猶予ができない事態のようだ」


 「嘘でしょう。そんなことが・・・・私には信じられません。
 だって昨日まで、あんなに元気そうで、あんなにたくさんのお話もしたというのに。
 何故よ?なんでなの・・・・だから、最後にあんなことを。まさか」


 「行くよ」


 俊彦に促されて、響も上着を手にして玄関を飛び出します。
昨日、山本と病室で別れてから、まだ半日あまりしか経過をしていません。
あまりにも急変しすぎる事態の展開に響の頭の中は、ただただの混乱を繰り返しています。



 (となると、私は山本さんとの、あの約束を実行することになってしまう。
 俺が死んだら遺骨は、故郷の若狭の海に撒いてくれと、
 昨日の別れ際に交わした約束を、あっというまに、私は実行することになってしまうわ。
 信じられない。こんなにも早くそんな事態が来るなんて・・・・)



 「響。人間の体は、細胞という小さな袋が集まって出来ている。
 この中にはDNAという体の設計図が入っていて、古くなった細胞を作り直している。
 年を取ってくると、このDNAが少しずつこわれてきて、
 間違えた細胞を作ってしまうことがある。
 間違えて作られた細胞が、ガンになる。
 放射能も同じように、このDNAを破壊してガンを作る。
 だが、山本さんのように、長年にわたって体内被曝を繰り返してくると
 すべての臓器に、いろいろな異常が同時に発生をしてくることになる。
 ある意味、それはガンよりも怖い病気だ。
 いずれにしても、原発による体内被曝の悪影響は、
 日本ではいまだ未解明の医療分野だ。
 俺たちは山本さんを受け入れた時から、最悪の事態を想定して準備に入っている。
 だが、響。お前には全く初めての体験だ。
 辛いだろうが最善の笑顔を見せて、山本さんを見送ってくれ」


 朝の空いている道路事情は、あっというまに二人が乗った車を病院まで運びます。
玄関先へ乗り付けて、さて降りようとした矢先に俊彦がその手を伸ばしました。
降りようとしていた響の右手を、しっかりと握ります。


 「人一人がこれから死ぬというのに、それでも笑えと言うのは
 まったくもって無理すぎる注文だ。
 無理なお願いを言っていることも、俺は充分に承知をしている。
 だが、それでも、あえてお前に頼む。
 お前は・・・・響は、お母さんの清子から、
 試されずみの優しさと強さをもらってこの世に生まれてきた子供だ。
 優しさとか強さというものは、持って生まれたものでは無く、
 何度も試練にさらされて、何度も厳しい吟味を受ける。
 それでもなを、人の心の中に残ったものが、本物の優しさと強さなんだ。
 それは清子だけではなく、おそらく俺の血の中にも、同じようにして流れている。
 響。お前は、俺と清子の間に生まれた最高の子供だ。
 生まれて来てくれたことに、俺は最大限の感謝をしている。
 だが、いまは全く予断を許さない緊急事態の真っ最中だ。
 こんな大変な世界にお前を巻き込んでしまって、申しわけないと思っている。
 だが、今は、一人の真面目に生きてきた原発労働者が、瀕死の瀬戸際で
 最後の頑張りを、懸命に見せている時だ。
 頼むから・・・・お前の最高の笑顔で、山本さんを見送ってくれ」


 「わかっています。お父さん。
 同じDMAが、響の、ここにも流れているんだもの。
 私も、最後の最後まで、山本さんのお役に立つ、つもりでいます」


 「良い子だ。じゃ・・・・頼んだ」



 それだけ言うと、俊彦が車を急発進させていきます。
何も変わらない朝の光景の中で、何かが目まぐるしく動き出す気配を
一人だけ、病院の玄関先に残された響が迫りくる圧迫感とともに、心の底で感じています
響が見上げている病院の建物は、まだ朝の静寂の中に、いつもと同じように
ただひっそりとそびえています。



 しかし、その一角にある山本の病室では、生命の最後の瞬間が
有無を言わせずに、静かにかつ冷然と時間と共に、その病室へ訪れようとしています。


(死を前にして、私は最善の笑顔を、つくれるのだろうか・・・・)
25年間を生きて来た響が、人の死に立ちあうのは、これが初めての体験です。


 できればこのまま、踵を返して立ち去ってしまいたいような衝動にかられながら、
響は、玄関脇の通用口から、通い慣れた病院内へ入ります。
すっかり見なれているはずの玄関とロ―ビ―の景色が今朝に限って、
なぜか、別の場所のように見えてなりません。



 (私は、すでに激しく動揺をしている・・・・いえ、これはもう狼狽にちかい。
 有頂天で朝起きた私を待っていたのは、山本さんの危篤と、父の精いっぱいの告白だ。
 私が生まれてきたことへの感謝の日と、山本さんが死を迎える日が同時にやってきた・・・・
 なんという皮肉で、過酷な運命の一日の始まりだろう。
 落ち着け、・・・・響。哀しむのにも喜ぶのにも、まだまだ早いものがある。
 大きな仕事が、まだこの先で私を待っている。
 笑顔を作るのに一番つらい日が、ついにやって来てしまったというのに、
 父は、最高の笑顔で見送ってやれと言った。
 父の真意はよくわかる。まさにその通りだと私自身も思っている。
 でも、できるのだろうか私には・・・・母のあの優しい笑顔のように、
 いつも私を包み込んでくれた、あの明るい母の笑顔が、
 今の私につくることができるのだろうか・・・
 お母さん。お願いです。一度でいいから、私にあなたの笑顔をください。
 父の願いに応え、私もお母さんが見せてくれたあの笑顔で、
 山本さんを送り出してあげたいの。
 お願いだから、臆病者になりかけている駄目な響に勇気をください。
 最高の笑顔を、私にください・・・・母さん、父さん・・・・)


 
 高まり続ける胸の動悸を抑えながら、響がいつものように、
いつもの階段から、山本さんの待つ病室へ向かっています。





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