アイラブ桐生Ⅲ・「舞台裏の仲間たち」(71)
第三幕・第二章「新宿・中村屋サロン」
順調に業績を重ねる相馬夫妻は、明治40年になってから、
さらに店の規模を拡大するために、新しい店を出す場所を探しはじめました。
「千駄ヶ谷は、屋敷町で得意の数は多かったものの、
私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、
すなわち新宿終点に眼をつけたのである。
ちょうどそこに二間間口、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、
早急その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、
日の出屋になっている。」
と、相馬愛蔵の回顧録には、このような記述が残っています。
六間道路は今の新宿通りのことで、三軒長屋は現在地の中村屋の隣です。
この新しいお店は、最初の日の売上が
本郷のお店の売上を上回ったという、注目の記録が残っています。
新宿という土地の「伸びる勢いのすごさがわかる」まさにそれを数字で証明をしました。
この後の明治42年に、中村屋は二軒隣の土地を購入して
それが今日の、お店になっています。
中村屋が新宿に進出を果たしたその同じころ、碌山が7年余りの年月を経て
明治41年に、欧州からの帰国をはたします。
ロダンのもとで修業した碌山は、欧州滞在中に製作をした習作を抱えて
彫刻家として製作活動をしていくために、一ヵ月半ほどの安曇野での滞在を終えてから
中村堂に黒光を訪ね、援助を受けながら活動の拠点を作りはじめます。
相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいをしながら、
近くに設けたアトリエに通って、作品の制作にとりかかります。
しかしアトリエと言えば聞こえはいいですが、実際には麦畑やトウモロコシ畑の中に立つ
六畳一間くらいのバラック建ての小屋でした。
こうして碌山が新宿で彫刻の制作を始めた頃から
碌山と親交の深い人々をはじめ、多くの芸術家や文人、演劇人などが
中村屋に出入りするようになりました。
これが世に言う、「中村屋サロン」の始まりです。
同じ安曇野出身の文人が、中村屋に多くの芸術家が集い、文人たちが出入りした様を
「まるで中世ヨーロッパのサロンのようだった」と講演などで表現をしたことから、
これが全国に知られ、やがて一世を風靡することになるに至ります。
「黒光はパン屋の女主人として、9人の子を産み、
店を繁盛させたが、彼女が有名なのは、中村堂サロンといわれ、
「サロンの女王」として輝くほど、芸術家や文人が集まったことにあるのだろう。
そう考えると、碌山もあまたいる芸術家たちの一人と言うことにすぎない。
少年のころに黒光と出会い、碌山が熱烈な恋心を抱いたのは分かる。
だが、碌山は20歳過ぎから足掛け7年も外遊をしている。
ということは、碌山は7年後にあらためて
黒光を愛するようになったということだろうか・・・・」
西口が暗い天井を見上げたまま、怖い顔で腕組みをしています。
その原因は、第二幕の台本でした・・・・
第二幕から展開される「中村屋サロン」の場面には、それなりの雰囲気を
かもしだしてほしい、と但し書きがあるだけで具体的な舞台装置については
一言も書かれていないためです。
・・・・・・
碌山 「”ラブ イズ アート、ストラッグル イズ ビューティー”
良さん、これは直訳すると、
”愛は芸術なり、相克(そうこく)は美なり”という教えです。
彫刻を教えてくれたロダン先生の、真髄の言葉です」
黒光 「そして、それがそのまま貴方の創作の姿勢ですね。
早朝に冷水で頭髪を洗い、体を清めて、つめを切り、
ワイシャツにネクタイまで結んで彫刻の制作にとりかかる
・・・・それが貴方の日常です。
正午になると、木綿絣(もめんがすり)の着物に着替えて、
私の居る、中村屋に出掛けてくる。
時には帳場に座ったり、そうかと思えば、
最中(もなか)の餡(あん)を詰める仕事を手伝ったりしています。
子どもたちには「おじさん、おじさん」と呼ばれて慕われています。
満たされた創作活動と、子供たちと遊んでくれる
たのしいひと時もあるというのに、
帰る時の貴方の背中は、あまりにもさみしそうで
足取りさえも、とても重たく感じます。
貴方の心に棲みついている、さびしいものはなんでしょう。」
碌山 「貴女を思えば、私の心が張り裂けそうです。
昼は創作に打ち込み、粘土をこねていても、心からは貴女の笑顔が離れない。
こんなも近くに暮らしていると言うのに、
こんなにも貴女の傍で、同じ空気を吸って生きていると言うのに、
はじめて会ったあの日から、貴女はいつでも遠くのままの存在だ・・・・
手を触れることもできるし、
その甘い髪に触れることもいつでもできると言うのに
肝心の貴女の心にだけには、いつまでも触れることができない。
それが苦しいのです、
そしてそれだけが、常に一番悲しい。
張り裂けそうなこの胸を抱えたまま、私は今日もアトリエに帰ります。
いくら作品に打ち込んでも、私の胸は晴れません」
黒光 「碌山。貴方は、才能にあふれすぎる芸術の原石です。
ロダンに学んだ貴方の彫刻には、命の奇跡さえも表現をすることが出来るでしょう。
たぐいまれなる貴方の才能の源泉は、
激しすぎるほど自分を見つめることが出来る、その眼光の鋭さでしょう。
凡人には感知しえない感情の深遠までも探り当ててしまう、あなたの感度の鋭さが
貴方には、もろ刃の剣になるのです。
相反するものを表現しきれるあなたの技量は、本物です。
優しすぎる貴方は、その凶暴すぎるほどの才能をやがて持て余すかもしれません。
現に、私への思慕の気持ちさえ持て余しているではありませんか・・・・
抑えなさい、碌山。
愛は奪うものではありません。
愛は惜しみなく与えるものであって、見返りなどを望んではなりません。
かつてのクリスチャンならまた当然の理にあるでしょう。
耐え忍び、生きていくこともまた人の人生です・・・・」
・・・・・・
「この場面は難しい」一声唸って、西口が天井を見上げたまま腕組みをします。
しかし聞こえぬそぶりの順平は、座長たちと並んで立ったまま、
稽古場の中央で、熱を帯びて本読みを続けている雄二と茜に神経を集中しています。
「たしかに、碌山の作品への葛藤を表現するのは難しい。
舞台設定をどうするかも、この場面にかぎってはたしかに難解だ。
こうなったら、昔、市長賞を取った西口の、
野生の感と、ひらめきに期待するしかないだろう・・・・
たまには舞台美術の担当にも、本気で仕事をしてもらおう。
美大の卒業生もいることだし、いよいよ我が劇団も
本格的な前衛的舞台つくりの時代に突入したようだ。
うん、それもいい傾向だ」
苦渋している西口と小山君を尻目に
座長が順平と目を合わせながら、にんまりと笑っています。
「愛は芸術なり。相克は美なり」という有名なロダンの芸術思想を
そのまま継承した碌山は、このうえなく甘美な、しかしまた救い難い葛藤と愛憎とに彩られた
世界に自らの魂を投じ、そこに彫刻表現の根源を求めようとしていました。
「愛の相克」というテーマ―がもたらす美に、文字通り命をかけて製作にとりくみました。
青春期に安曇野で出遇って以降、若くして他界するまで、
碌山の黒光に対する深い思慕の念は、終始変わることはなかったようです。
相馬愛蔵が安曇野に愛人をつくり、黒光との不和が囁かれるようになると、
碌山は黒光母子を連れて渡米することさえ考えたとも言われています。
その苦悩ぶりは、並大抵のものではなかったことでしょう。
しかし、黒光はそんな碌山の激情を鎮め制するかのように
ひたすら中村屋の家業の繁栄のために、精魂を傾けていくばかりでした。
碌山の苦悩は、果しなく深まりゆくばかりです。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
第三幕・第二章「新宿・中村屋サロン」
順調に業績を重ねる相馬夫妻は、明治40年になってから、
さらに店の規模を拡大するために、新しい店を出す場所を探しはじめました。
「千駄ヶ谷は、屋敷町で得意の数は多かったものの、
私は将来の発展の上から市内電車の終点以外に適地はないという断定を下し、
すなわち新宿終点に眼をつけたのである。
ちょうどそこに二間間口、三軒続きの新築貸家が出来かかっていたので、
早急その二戸分を家賃二十八円で借り受け、ただちに開店の用意をした。
この場所は、現在の六間道路の所で、その三軒長屋の一つが今の洋品店、
日の出屋になっている。」
と、相馬愛蔵の回顧録には、このような記述が残っています。
六間道路は今の新宿通りのことで、三軒長屋は現在地の中村屋の隣です。
この新しいお店は、最初の日の売上が
本郷のお店の売上を上回ったという、注目の記録が残っています。
新宿という土地の「伸びる勢いのすごさがわかる」まさにそれを数字で証明をしました。
この後の明治42年に、中村屋は二軒隣の土地を購入して
それが今日の、お店になっています。
中村屋が新宿に進出を果たしたその同じころ、碌山が7年余りの年月を経て
明治41年に、欧州からの帰国をはたします。
ロダンのもとで修業した碌山は、欧州滞在中に製作をした習作を抱えて
彫刻家として製作活動をしていくために、一ヵ月半ほどの安曇野での滞在を終えてから
中村堂に黒光を訪ね、援助を受けながら活動の拠点を作りはじめます。
相馬夫妻が営む新宿中村屋の二階に仮住まいをしながら、
近くに設けたアトリエに通って、作品の制作にとりかかります。
しかしアトリエと言えば聞こえはいいですが、実際には麦畑やトウモロコシ畑の中に立つ
六畳一間くらいのバラック建ての小屋でした。
こうして碌山が新宿で彫刻の制作を始めた頃から
碌山と親交の深い人々をはじめ、多くの芸術家や文人、演劇人などが
中村屋に出入りするようになりました。
これが世に言う、「中村屋サロン」の始まりです。
同じ安曇野出身の文人が、中村屋に多くの芸術家が集い、文人たちが出入りした様を
「まるで中世ヨーロッパのサロンのようだった」と講演などで表現をしたことから、
これが全国に知られ、やがて一世を風靡することになるに至ります。
「黒光はパン屋の女主人として、9人の子を産み、
店を繁盛させたが、彼女が有名なのは、中村堂サロンといわれ、
「サロンの女王」として輝くほど、芸術家や文人が集まったことにあるのだろう。
そう考えると、碌山もあまたいる芸術家たちの一人と言うことにすぎない。
少年のころに黒光と出会い、碌山が熱烈な恋心を抱いたのは分かる。
だが、碌山は20歳過ぎから足掛け7年も外遊をしている。
ということは、碌山は7年後にあらためて
黒光を愛するようになったということだろうか・・・・」
西口が暗い天井を見上げたまま、怖い顔で腕組みをしています。
その原因は、第二幕の台本でした・・・・
第二幕から展開される「中村屋サロン」の場面には、それなりの雰囲気を
かもしだしてほしい、と但し書きがあるだけで具体的な舞台装置については
一言も書かれていないためです。
・・・・・・
碌山 「”ラブ イズ アート、ストラッグル イズ ビューティー”
良さん、これは直訳すると、
”愛は芸術なり、相克(そうこく)は美なり”という教えです。
彫刻を教えてくれたロダン先生の、真髄の言葉です」
黒光 「そして、それがそのまま貴方の創作の姿勢ですね。
早朝に冷水で頭髪を洗い、体を清めて、つめを切り、
ワイシャツにネクタイまで結んで彫刻の制作にとりかかる
・・・・それが貴方の日常です。
正午になると、木綿絣(もめんがすり)の着物に着替えて、
私の居る、中村屋に出掛けてくる。
時には帳場に座ったり、そうかと思えば、
最中(もなか)の餡(あん)を詰める仕事を手伝ったりしています。
子どもたちには「おじさん、おじさん」と呼ばれて慕われています。
満たされた創作活動と、子供たちと遊んでくれる
たのしいひと時もあるというのに、
帰る時の貴方の背中は、あまりにもさみしそうで
足取りさえも、とても重たく感じます。
貴方の心に棲みついている、さびしいものはなんでしょう。」
碌山 「貴女を思えば、私の心が張り裂けそうです。
昼は創作に打ち込み、粘土をこねていても、心からは貴女の笑顔が離れない。
こんなも近くに暮らしていると言うのに、
こんなにも貴女の傍で、同じ空気を吸って生きていると言うのに、
はじめて会ったあの日から、貴女はいつでも遠くのままの存在だ・・・・
手を触れることもできるし、
その甘い髪に触れることもいつでもできると言うのに
肝心の貴女の心にだけには、いつまでも触れることができない。
それが苦しいのです、
そしてそれだけが、常に一番悲しい。
張り裂けそうなこの胸を抱えたまま、私は今日もアトリエに帰ります。
いくら作品に打ち込んでも、私の胸は晴れません」
黒光 「碌山。貴方は、才能にあふれすぎる芸術の原石です。
ロダンに学んだ貴方の彫刻には、命の奇跡さえも表現をすることが出来るでしょう。
たぐいまれなる貴方の才能の源泉は、
激しすぎるほど自分を見つめることが出来る、その眼光の鋭さでしょう。
凡人には感知しえない感情の深遠までも探り当ててしまう、あなたの感度の鋭さが
貴方には、もろ刃の剣になるのです。
相反するものを表現しきれるあなたの技量は、本物です。
優しすぎる貴方は、その凶暴すぎるほどの才能をやがて持て余すかもしれません。
現に、私への思慕の気持ちさえ持て余しているではありませんか・・・・
抑えなさい、碌山。
愛は奪うものではありません。
愛は惜しみなく与えるものであって、見返りなどを望んではなりません。
かつてのクリスチャンならまた当然の理にあるでしょう。
耐え忍び、生きていくこともまた人の人生です・・・・」
・・・・・・
「この場面は難しい」一声唸って、西口が天井を見上げたまま腕組みをします。
しかし聞こえぬそぶりの順平は、座長たちと並んで立ったまま、
稽古場の中央で、熱を帯びて本読みを続けている雄二と茜に神経を集中しています。
「たしかに、碌山の作品への葛藤を表現するのは難しい。
舞台設定をどうするかも、この場面にかぎってはたしかに難解だ。
こうなったら、昔、市長賞を取った西口の、
野生の感と、ひらめきに期待するしかないだろう・・・・
たまには舞台美術の担当にも、本気で仕事をしてもらおう。
美大の卒業生もいることだし、いよいよ我が劇団も
本格的な前衛的舞台つくりの時代に突入したようだ。
うん、それもいい傾向だ」
苦渋している西口と小山君を尻目に
座長が順平と目を合わせながら、にんまりと笑っています。
「愛は芸術なり。相克は美なり」という有名なロダンの芸術思想を
そのまま継承した碌山は、このうえなく甘美な、しかしまた救い難い葛藤と愛憎とに彩られた
世界に自らの魂を投じ、そこに彫刻表現の根源を求めようとしていました。
「愛の相克」というテーマ―がもたらす美に、文字通り命をかけて製作にとりくみました。
青春期に安曇野で出遇って以降、若くして他界するまで、
碌山の黒光に対する深い思慕の念は、終始変わることはなかったようです。
相馬愛蔵が安曇野に愛人をつくり、黒光との不和が囁かれるようになると、
碌山は黒光母子を連れて渡米することさえ考えたとも言われています。
その苦悩ぶりは、並大抵のものではなかったことでしょう。
しかし、黒光はそんな碌山の激情を鎮め制するかのように
ひたすら中村屋の家業の繁栄のために、精魂を傾けていくばかりでした。
碌山の苦悩は、果しなく深まりゆくばかりです。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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