落合順平 作品集

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居酒屋日記・オムニバス (84)        第七話  産科医の憂鬱 ④

2016-06-03 09:26:10 | 現代小説
居酒屋日記・オムニバス (84) 
      第七話  産科医の憂鬱 ④




 「ある産婦が、福島県立大野病院で帝王切開の手術を受けた。
 しかし予期しない大量出血で、妊婦が死亡した。
 医師の手際が悪かったわけじゃない。
 前置胎盤に癒着胎盤が合併するという、きわめて希なケースだ。
 しかも産婦人科医が一人しかいないという、僻地の病院でおきた妊婦の死亡だ。
 妊婦の死は、まったく不幸な出来事といえる」




 「前置胎盤に加えて、癒着胎盤?
 何のことだか、俺にはさっぱりわからねぇ・・・」



 「解らないのも、無理はネェ。
 想定されている難題の中で、もっとも最悪といえる病態だ。
 前置胎盤というのは、胎盤が「変なところ」にくっついていることだ。
 胎盤が、正常より低い位置にある。
 子宮の出口を塞いでしまっているため、きわめて危険な状態と言える。
 赤ちゃんの産道をふさいいる、危険な症状だ。
 この状態の妊婦は、高確率でほぼ死ぬことになる。
 もうひとつ。癒着胎盤は、胎盤が「がっちり」とくっついて剥がれないことだ。
 この状態の妊婦も、ほぼ間違いなく死ぬことになる。
 厄介なことにこの癒着胎盤は、事前の検査で察知することができない」



 「そんな厄介な妊婦を、辺鄙な病院に勤務している産婦人科医は、
 引き受けちまったということか?」




 「前置胎盤であることは、事前の検査で分かっていた。
 前回も前置胎盤であったことから、医師は安全のため、大学病院での出産を勧めた。
 だが「大学病院は遠い、交通費もかかる」として、妊婦が拒否した。
 この病態では、子宮摘出も検討しなければならない。
 だが妊婦は、三人目も欲しいと言い、子宮を温存することを強く希望した。
 医師は正当な事由がない限り、治療拒否してはならないとされている。
 妊婦がどうしてもこの病院で産みたいと言っている以上、
 大学病院へ行けとは、言えないのさ」


 
 「断れない事情がそろっていたわけだな。
 崖っぷちで、それでも頑張っていたんだ。その病院の産科医は・・・」



 「地方の産科医は、みんな似たような状況の中で仕事している。
 開腹後に癒着胎盤が発覚して、大出血がおこった。
 帝王切開には産科医と、外科医も立ち会っていたから手術的には、
 なんの問題も無かった。
 だが不幸なことに、大量出血に対応するだけの血液の備蓄がなかった。
 輸血用の血液は、どこの病院でも不足している。
 無駄に廃棄されてしまう可能性が高い僻地の病院では、なおさらのことだ。
 予備の血液が不足していた不幸も、重なった。
 そのため、妊婦は助からなかった」


 「赤ん坊はどうしたんだ?。助かったのか・・・」



 「妊婦が亡くなったことは残念だが、前置胎盤に癒着胎盤という生存率の低い
 病態の中で、赤ん坊を救えたことは評価される。
 何もしないで放置すれば、母子共に確実に死亡していただろう。
 この件において悪人は、ひとりもいない。
 妊婦が運悪く、癒着胎盤という重病にかかっていたことが不幸だった。
 日本一、あるいは世界一の名医でも救えない命はある。
 評判の良い医師にかかって、最善を尽くしてもらったんだ。
 だめならいさぎよく、運命を受け入れるしかないだろう」



 「だがその後、この件は、刑事事件に発展した。
 それはなぜだ。
 悪者はいないはずなのに事件になるなんて、俺にはとても信じられない・・・」


 幸作が、3本目の熱燗を産科医の前に置く。
時刻は深夜の12時を回った。しかし、産科医の話は終わりそうもない。
頬杖を突いた産科医が、熱燗の徳利を持ち上げる。



 「呑むだろう、あんたも?
 もう少し、俺の話に付き合ってくれ。
 嫌ならそろそろ帰るが、たまには産科医の愚痴を聞いてくれてもいいだろう?」


(85)へつづく


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2 コメント

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知りたい・・真相 (屋根裏人のワイコマです)
2016-06-03 19:41:36
被害者の後ろ盾や後援者など・・
この事件の真実が・・聞かれるのかも
と期待したりしています。
医療の現場で、業務上過失致死・・
最近は珍しくありませんが、まだまだ
その境界線は・・グレーですよね
次が楽しみです・・お調子、あと
二三本つけますので・・宜しく
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ワイコマさん。こんにちは (落合順平)
2016-06-13 07:36:37
ご無沙汰をいたしました。
日曜・水曜とゴルフウィークだった先週。
本業の居酒屋の方もなぜか忙しく、深夜まで
働く日程が続きました。
まぁいいか、すこし休息するかとのんびりしていたら、
一週間以上も、更新を放置してしまいました。
寝坊したウサギのような心境です・・・
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