落合順平 作品集

現代小説の部屋。

上州の「寅」(2)エピソード2 柔道ワルツ

2020-07-10 15:09:58 | 現代小説
上州の「寅」(2)


 「寅」のエピソードをもうひとつ。


 「寅」の幼年期の習い事はふたつ。
体育教師の父のすすめではじめた柔道と、音楽教師の母が得意とするピアノ。
両親は文武両道の息子を育てることが夢だった。


 学校から帰って来ると毎日1時間、ピアノの練習。
柔道は近所の道場で、月・水・金の3日間。練習時間は90分。
これで文武両道の息子が完成するはずだった。


 しかし。母がさきに音をあげた。
なにを弾いても、テンポがまったく同じ。
 
 「寅ちゃん。この曲はもうすこし速い曲なのよ。
 テンポよく、チャチャと弾くことができないのかしら。この子は」


 「寅ちゃん。この曲はもっとゆったり遅めに弾く曲なのよ。
 もっとゆっくり、ゆったり、優雅に弾くことができないのかしら。この子は」


 母がピアノのうえにメトロノームを置いた。
メトロノームは、リズムを取りながら練習するときに欠かせない。


 「寅ちゃん。この振り子をよく見て。
 これにあわせて弾けば、速い曲も遅い曲もテンポを保って弾けるのよ」


 メトロノームが左右に揺れ出す。
寅の目が揺れる振り子をしっかり見つめる。
これでうまくいくはずだった。


 しかし・・・
母は寅のおそるべき才能を再認識することになる。
寅はメトロノームの動きなどに左右されない、独自のテンポを身に着けている。
1・2・3 1・2・3 チャ、チャ、チャ、の固定されたテンポは
微塵も揺るがない。
頑固すぎるこのリズム感覚に、母がついにさじを投げた・・・


 寅が弾くと、テンポがすこぶる速いはずの「熊蜂の飛行」も、
ゆっくりしていることで知られるガーシュウィン作曲の「サマータイム」も、
まったく同じテンポで演奏されてしまう。
これはある意味で天才的だ。


 「何を弾いても同じなの。あの子ったら。
 最初に覚えた「猫ふんじゃった」のリズムで弾くの。
 器用なの。
 高速の熊蜂の飛行も、ゆっくりのサマータイムもぜんぶ、
 猫ふんじゃったのテンポで弾くの。
 どうなっているのかしら・・・あの子のリズム感覚は・・・」


 独特のリズム感覚は、父が期待した柔道でも発揮された。
「得意技をひとつ覚えろ」という父の指導で、寅が目指した「体落とし」。


 体落は相手を右前隅に崩し、自分の体を斜めにし、相手を前へ落とす。
釣り手は相手の襟をしっかり握る。
肘を外側に出すかたちで相手を釣り上げる。
釣り上げると相手のかかとが浮く。
その瞬間、足を延ばし、相手をまき込みながら斜め前方へ落とす。


 寅の場合。1のリズムで相手の襟をつりあげる。
2のリズムで自身の身体を斜めにする。3のリズムで右足を相手の前へ出す。
だが一連につづくはずのこの動きが、じつにゆっくりしている。
まるでスローモーションの動画を見ているようだ。
誰かが言っていた。まるでワルツを踊っているようだと。
1のあとで止まる。2のあと小休止して、3でまた動き出す寅の「必殺技」。


 誰と対戦しても「あ、こいつ体落としを仕掛けてくるな」と一目瞭然。
寅が身体を斜めにした1の瞬間、ちょっと足を出すだけでもろく崩れる。
柔道をはじめてまる3年。
寅はいちども勝ったことがない。


 得意技のはずの「体落とし」が、つねに敗因になった。


(3)へつづく


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