舞うが如く 第三章
(13)鬼の副長
「近藤さん。
もうあなたは雲の上の人だ、
生身の身体じゃない。
デンと構えて、下界を見下ろしてください
万事はこの土方が、片付けます。」
新撰組で鬼の副長と呼ばれ、
もっとも恐れられたのが、この土方歳三です。
芹沢を暗殺した以降、権力を握った近藤が局長となり、
歳三は副長の地位につき、局長近藤の右腕として
京都の治安維持にあたりました。
新撰組は、副長助勤、監察など
職務ごとに系統的な組織作りがなされ
頂点は局長ですが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされています
新撰組内部では、常に新撰組の規律を隊士らに順守させ
規律を破った隊士には、たとえ幹部の人間で有ろうと切腹を命じており
隊士たちから恐れられていたといわれています。
実際、新撰組の死亡原因の一位は切腹であったともいわれ
脱走者は切腹または、惨殺後見せしめにすることもありました。
芹沢鴨の死亡する前後に、隊士は60名を超えていたのですが、
近藤が実権を握って以降、大量の脱走者が出はじめました。
この年6月には、すでに48名までに減少していたのです。
土方の指揮のもと、敵対者を粛清して排除するというやり方と、
「法度」と呼ばれた鉄の規律の徹底ぶりが
新撰組の内部においても、数々の悲劇を生みだす原因となりました。
ともあれ、幕府から正式に認められた新撰組は
京都所司代・直轄の正規部隊として、洛内の警護と治安維持のために
長州や土佐の勤皇派や過激攘夷派の探索にのりだしました。
年が明けた文久4年、2月の半ばに
「元治」に、年号が変わりました。
その6月のことでした
かねてから探索を重ねていた密偵が
京都河原町四条上ル東で、
古道具や馬具を商う・枡屋喜右衛門を怪しい存在として
嗅ぎだしました。
さらなる張り込みと探索の結果、
この男が早くから宮部鼎蔵らとも交流し、有栖川宮との間をつなぐなど
長州間者の大元締として、情報活動と武器調達にあたっているなどの確証をつかみ、
男の正体も、古高俊太郎と見破りました。
古高俊太郎は、
近江国栗太郡古高村(現・滋賀県守山市)出身で
大津代官所の手代・古高周蔵の子で、母は公家の広橋家家来の娘です。
父・周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住し、
尊皇攘夷を唱える梅田雲浜の門を叩きました。
6月1日の早朝、
踏み込んだ新撰組によってその身柄が拘束され、
武器や弾薬も押収されてしまい、
諸藩浪士との書簡や血判書なども発見されました。
壬生の屯所・前川邸の蔵で、局長・近藤勇、副長・土方歳三から
直々に厳しい取調べを受けた結果、
おどろくべき謀略と、その計画が自白されました。
その内容とは、
八月十八日の政変後、京都を追われた長州人らが
6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ったのち、
佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、
京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害して、
天皇を、長州へ連れ去ろうという策略でした。
すでに計画実行のため、志士たちが多数上洛し、
近々市中で、その同志たちの集会があることが判明します。
前々から噂されてきた長州一派による
尊攘と討幕の策動が、初めて新撰組によって暴かれた瞬間でした。
新撰組の探索活動が、さらに厳しいものとなります。
その探索の結果、長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた、
四国屋と、池田屋が会合の場である可能性が浮上してきました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
(13)鬼の副長
「近藤さん。
もうあなたは雲の上の人だ、
生身の身体じゃない。
デンと構えて、下界を見下ろしてください
万事はこの土方が、片付けます。」
新撰組で鬼の副長と呼ばれ、
もっとも恐れられたのが、この土方歳三です。
芹沢を暗殺した以降、権力を握った近藤が局長となり、
歳三は副長の地位につき、局長近藤の右腕として
京都の治安維持にあたりました。
新撰組は、副長助勤、監察など
職務ごとに系統的な組織作りがなされ
頂点は局長ですが、実際の指揮命令は副長の歳三から発したとされています
新撰組内部では、常に新撰組の規律を隊士らに順守させ
規律を破った隊士には、たとえ幹部の人間で有ろうと切腹を命じており
隊士たちから恐れられていたといわれています。
実際、新撰組の死亡原因の一位は切腹であったともいわれ
脱走者は切腹または、惨殺後見せしめにすることもありました。
芹沢鴨の死亡する前後に、隊士は60名を超えていたのですが、
近藤が実権を握って以降、大量の脱走者が出はじめました。
この年6月には、すでに48名までに減少していたのです。
土方の指揮のもと、敵対者を粛清して排除するというやり方と、
「法度」と呼ばれた鉄の規律の徹底ぶりが
新撰組の内部においても、数々の悲劇を生みだす原因となりました。
ともあれ、幕府から正式に認められた新撰組は
京都所司代・直轄の正規部隊として、洛内の警護と治安維持のために
長州や土佐の勤皇派や過激攘夷派の探索にのりだしました。
年が明けた文久4年、2月の半ばに
「元治」に、年号が変わりました。
その6月のことでした
かねてから探索を重ねていた密偵が
京都河原町四条上ル東で、
古道具や馬具を商う・枡屋喜右衛門を怪しい存在として
嗅ぎだしました。
さらなる張り込みと探索の結果、
この男が早くから宮部鼎蔵らとも交流し、有栖川宮との間をつなぐなど
長州間者の大元締として、情報活動と武器調達にあたっているなどの確証をつかみ、
男の正体も、古高俊太郎と見破りました。
古高俊太郎は、
近江国栗太郡古高村(現・滋賀県守山市)出身で
大津代官所の手代・古高周蔵の子で、母は公家の広橋家家来の娘です。
父・周蔵が山科毘沙門堂門跡に仕えたのに際し京都へ移住し、
尊皇攘夷を唱える梅田雲浜の門を叩きました。
6月1日の早朝、
踏み込んだ新撰組によってその身柄が拘束され、
武器や弾薬も押収されてしまい、
諸藩浪士との書簡や血判書なども発見されました。
壬生の屯所・前川邸の蔵で、局長・近藤勇、副長・土方歳三から
直々に厳しい取調べを受けた結果、
おどろくべき謀略と、その計画が自白されました。
その内容とは、
八月十八日の政変後、京都を追われた長州人らが
6月下旬の強風の日を選んで御所に火を放ったのち、
佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、
京都守護職の松平容保以下佐幕派大名を殺害して、
天皇を、長州へ連れ去ろうという策略でした。
すでに計画実行のため、志士たちが多数上洛し、
近々市中で、その同志たちの集会があることが判明します。
前々から噂されてきた長州一派による
尊攘と討幕の策動が、初めて新撰組によって暴かれた瞬間でした。
新撰組の探索活動が、さらに厳しいものとなります。
その探索の結果、長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた、
四国屋と、池田屋が会合の場である可能性が浮上してきました。
・本館の「新田さらだ館」は、こちらです http://saradakann.xsrv.jp/
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