つわものたちの夢の跡・Ⅱ
(65)宿命のライバル

太平記に登場する新田義貞と足利尊氏は、宿命のライバルとして何度も
そうぜつなたたかいを繰り広げている。
お互いの領地は、北関東を流れる渡良瀬川を挟み、北と南に隣り合っている。
足利氏と新田氏はともに、八幡太郎義家を祖に持つ清和源氏の一族だ。
系図の上では、新田氏の方が兄にあたる。
幕府を興した頼朝の一族が三代で滅亡した後、跡を継ぐ嫡流は
本来ならば、新田氏になるはずだった。
しかし世間は足利氏を源氏の嫡流として、早い時期から認めていた。
その違いは鎌倉時代における、両家の地位の決定的な差に有る。
新田氏は頼朝の時代から、幕府になんかと楯突く、生意気なだけの田舎侍の一族だ。
その後に幕府の実権を握った北条氏にも、同じように反抗的だったため、
常に不遇の立場に置かれた。
鎌倉幕府を滅亡させるまで、新田氏8代目の義貞は無位無官のままだ。
新田一族の分布も、越後と上野の一部のみに限定されていた。
これにたいして足利一族は、鎌倉時代の前期から早くも幕府内で地位を占めていた。
頼朝の時代には、幕府の重要な御家人として名を連ねている。
築き上げた地位は、北条一族が幕府の実権を握ってからも変わることはなかった。
尊氏の幕府滅亡時の官位は、 治部(じぶの)大輔 (だいほ )。
治部大輔とは、治部省次官の肩書で、位は中将に匹敵する。
北条一族の有力者、赤橋久時の娘、登子(たかこ)を嫁にもらっている。
不遇の義貞と比べれば、天と地ほどの違いがある。
足利一族は三河を中心に、日本全国のほとんどに分布している。
こうしたことから世間一般は、足利氏を本来の源氏の嫡流と見なし、諸国の武家も、
足利氏を、ちかい将来の源氏の総大将として見ている。
尊氏が鎌倉に居座ったまま、執権のように東国の武将たちに命令を下しはじめたことは、
誰の眼から見ても、明らかな朝廷への謀反として映る。
すぐさま開かれた朝廷の軍議で、新田義貞が足利討伐軍の総大将に任命される。
陸奥に居る北畠顕家を陸奥鎮守府将軍として、足利尊氏の鎌倉を北から挟み打ちに
するという戦略が練られた。
皇軍の証として貞義軍には尊良親王が、北畠軍には、義良親王が奉じられた。
鎌倉に居る足利尊氏のもとには、北条攻めの際、成良親王が奉じられている。
後醍醐天皇の三皇子を巻き込んだ、不幸な戦いが、いままさにはじまろうとしている。
「かつてない大きないくさがはじまりそうだ。」
噂は、あっという間に全国に伝わった。皇軍の新田軍へ合流する者。
一方。鎌倉へ居座る足利軍に合流しようとする者が、全国からぞくぞくと集まってくる。
彼らにとっては、足利も新田も関係ない。
いくさに参加して、勝てば恩賞を手にすることが出来るからだ。
負けるか、はじめから参加しなければ、いずれ必ず勝者によって領地が没収される。
情勢を見極めて勝つ方へ参戦することが、自分たちの生き残りの道なのだ。
彼らは知恵をしぼり、一族の生き残り策に出る。
身内を2つに分割する。それぞれ敵と味方に分かれ両軍へ散っていく。
どちらかが不利になった局面で、不利になった方の側が、優勢の方についた
身内をたよって寝返りに出る。
こうすることでどちらが勝っても、結果的に勝者の側にいられる。
破格の恩賞は期待できない。だが、領地の安堵は保証される。
末端の協力者とは自身の保身のために、そんな悪知恵をめぐらす者たちばかりなのだ。
西から足利軍に合流するため、東へ走る者。
東から新田軍に合流するため、西へ走る者たちで京都と鎌倉の間の街道は、
まるでお祭り騒ぎのように、ごった返す。
ついに時至れり。同じ祖を持つ新田氏の8代目と、足利氏の8代目が、
歴史の表舞台で、いよいよ、はげしく刃を交えることになる。
(66)へつづく
『つわものたちの夢の跡』第一部はこちら
(65)宿命のライバル

太平記に登場する新田義貞と足利尊氏は、宿命のライバルとして何度も
そうぜつなたたかいを繰り広げている。
お互いの領地は、北関東を流れる渡良瀬川を挟み、北と南に隣り合っている。
足利氏と新田氏はともに、八幡太郎義家を祖に持つ清和源氏の一族だ。
系図の上では、新田氏の方が兄にあたる。
幕府を興した頼朝の一族が三代で滅亡した後、跡を継ぐ嫡流は
本来ならば、新田氏になるはずだった。
しかし世間は足利氏を源氏の嫡流として、早い時期から認めていた。
その違いは鎌倉時代における、両家の地位の決定的な差に有る。
新田氏は頼朝の時代から、幕府になんかと楯突く、生意気なだけの田舎侍の一族だ。
その後に幕府の実権を握った北条氏にも、同じように反抗的だったため、
常に不遇の立場に置かれた。
鎌倉幕府を滅亡させるまで、新田氏8代目の義貞は無位無官のままだ。
新田一族の分布も、越後と上野の一部のみに限定されていた。
これにたいして足利一族は、鎌倉時代の前期から早くも幕府内で地位を占めていた。
頼朝の時代には、幕府の重要な御家人として名を連ねている。
築き上げた地位は、北条一族が幕府の実権を握ってからも変わることはなかった。
尊氏の幕府滅亡時の官位は、 治部(じぶの)大輔 (だいほ )。
治部大輔とは、治部省次官の肩書で、位は中将に匹敵する。
北条一族の有力者、赤橋久時の娘、登子(たかこ)を嫁にもらっている。
不遇の義貞と比べれば、天と地ほどの違いがある。
足利一族は三河を中心に、日本全国のほとんどに分布している。
こうしたことから世間一般は、足利氏を本来の源氏の嫡流と見なし、諸国の武家も、
足利氏を、ちかい将来の源氏の総大将として見ている。
尊氏が鎌倉に居座ったまま、執権のように東国の武将たちに命令を下しはじめたことは、
誰の眼から見ても、明らかな朝廷への謀反として映る。
すぐさま開かれた朝廷の軍議で、新田義貞が足利討伐軍の総大将に任命される。
陸奥に居る北畠顕家を陸奥鎮守府将軍として、足利尊氏の鎌倉を北から挟み打ちに
するという戦略が練られた。
皇軍の証として貞義軍には尊良親王が、北畠軍には、義良親王が奉じられた。
鎌倉に居る足利尊氏のもとには、北条攻めの際、成良親王が奉じられている。
後醍醐天皇の三皇子を巻き込んだ、不幸な戦いが、いままさにはじまろうとしている。
「かつてない大きないくさがはじまりそうだ。」
噂は、あっという間に全国に伝わった。皇軍の新田軍へ合流する者。
一方。鎌倉へ居座る足利軍に合流しようとする者が、全国からぞくぞくと集まってくる。
彼らにとっては、足利も新田も関係ない。
いくさに参加して、勝てば恩賞を手にすることが出来るからだ。
負けるか、はじめから参加しなければ、いずれ必ず勝者によって領地が没収される。
情勢を見極めて勝つ方へ参戦することが、自分たちの生き残りの道なのだ。
彼らは知恵をしぼり、一族の生き残り策に出る。
身内を2つに分割する。それぞれ敵と味方に分かれ両軍へ散っていく。
どちらかが不利になった局面で、不利になった方の側が、優勢の方についた
身内をたよって寝返りに出る。
こうすることでどちらが勝っても、結果的に勝者の側にいられる。
破格の恩賞は期待できない。だが、領地の安堵は保証される。
末端の協力者とは自身の保身のために、そんな悪知恵をめぐらす者たちばかりなのだ。
西から足利軍に合流するため、東へ走る者。
東から新田軍に合流するため、西へ走る者たちで京都と鎌倉の間の街道は、
まるでお祭り騒ぎのように、ごった返す。
ついに時至れり。同じ祖を持つ新田氏の8代目と、足利氏の8代目が、
歴史の表舞台で、いよいよ、はげしく刃を交えることになる。
(66)へつづく
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