小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

518 出雲臣の西進 その3

2016年08月04日 00時57分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生518 ―出雲臣の西進 その3―
 
 
 反対に、出雲西部を拠点にしていたのが『出雲国風土記』に登場する神門臣古禰(かむどの
おみフルネ)です。
 神門臣古禰(かむどのおみフルネ)が登場するのは、『出雲国風土記』の出雲郡建部郷(たけ
るべ郷)の条です。
 内容について言うと、元は宇夜の里と呼ばれていたが建部郷と呼ばれるようになった理由に
ついて、を記すものです。
 それによると、景行天皇が、
 「わが御子、ヤマトタケルの名が忘れられることがないように」
と望み建部を定めた時に、神門臣古禰(かむどのおみフルネ)を建部とした、そして建部臣らが
古(いにしえ)より今に至るまでこの地にいるため建部郷と呼ばれるようになった、ということです。
 
 ここに登場する神門臣古禰は『日本書紀』の「崇神紀」に登場する出雲振根と同一人物だと
考えられています。『日本書紀』におけるフルネは大和政権に討たれてしまいますが、『出雲国
風土記』のフルネは大和政権に直属下で仕えています。
 『出雲国風土記』の記事は非常に短いものなので、フルネが出雲に進出してきた大和政権の
圧力に屈する形で従属することになったのか、フルネが建部の民を管轄する役職を賜り、その際に
建部臣の姓を与えられたのか、解釈が様々にできるのです。
 しかし、神門臣古禰というからには、フルネの本拠が出雲郡の南に隣接する神門郡であったと
考えてよいでしょう。
 すると、フルネは出雲郡にも根を張っていたのでしょうか。
 
 まあ、それについてはさて置き、出雲振根の方を見てみることにします。出雲振根が登場するのは
『日本書紀』の崇神天皇四十年にはこのような記事で、その内容についてはこれまでにも何度か
触れてきましたが、改めて紹介します。
 
 天皇は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望まれたので、矢田部造の遠祖、武諸隅(タケモロ
スミ)を派遣した。
 出雲の神宝は、出雲臣の遠祖、出雲振根(イズモフルネ)が管理をしていたが、ちょうどその時
筑紫に出向いており不在だった。
 それで、イズモフルネの弟、飯入根(イイイリネ)が代わりに勅命を承り、弟のウマシカラヒサと
その子のウカヅクネに神宝を献上させた。
 その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、
 「なぜ神宝を渡したのか!」
と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟を殺してしまおうと考えた。
 フルネは、真剣そっくりの木刀を作らせると、イイイリネを、
 「近頃、止屋(やむや)の淵に藻がたくさん発生した。それを査察に行くのだがお前も一緒に来て
くれるか?」
と、声をかけて誘い出した。
 二人で止屋の淵まで行くと、
 「淵の水は清らかではないか。せっかくだから、ここで一緒に沐浴しよう」
と、フルネが言った。
 二人はともに沐浴をして、先にフルネが水中から上がると弟の太刀を佩き、剣を抜いた。
 イイイリネは驚いて兄の太刀を手にしたが、これは本物に似せて作った木刀であったから、フルネに
斬り殺されてしまった。
 このことで、人々は、
 
 八雲たつ イズモタケルが 佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き さ身なしにあわれ
 
と、歌った。
 ウマシカラヒサとウカヅクネは朝廷に参上し、事の次第を伝えた。
 天皇は、吉備津彦と武渟川別(タケヌナカワワケ)を遣わしてイズモフルネを討たせた。
 この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が生じた。
 時に丹波の氷上郡の人で氷香刀辺(ヒカトベ)が、皇太子活目命(後の11代垂仁天皇)に、次の
ような訴えをした。
 「私には子がおり、まだこどもなのですが、それがこのようなことを言い出したのです。
 
 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主 山河の水泳る
(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主 」
 
 皇太子は天皇にこのことを報告し、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させるよう勅命を出した。
 
 
 ところが、この記事にはいろいろと矛盾点、疑問点があるのです。