小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

520 出雲臣の西進 その5

2016年08月16日 01時35分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生520 ―出雲臣の西進 その5―
 
 
 なお、『出雲国造世系譜』は、阿多命と伊幣根命の弟に甘美韓日狭の名を記していますが、
これは『日本書紀』に甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)とあるのと一致します。
 次に、『出雲国造世系譜』は伊幣根命の子として、氏祖命(オオシノミコト)の名を記し、
 
 「ウ(盧に鳥という字)濡渟命の別称」
 
と、注記をしています。
 『日本書紀』も、飯入根の子にウ濡渟(ウカヅカヌ)の名を記しているので血縁関係は一致
するわけですが、それでも名前にかぎれば一致するのはウマシカラヒサだけなのです。
 
 さらに『出雲国造世系譜』を見てみますと、この氏祖命の孫である十四世孫の来日田維命
(キヒタスミノミコト)が、『古事記』のホムチワケ伝承に登場する岐比佐都美(キヒサツミ)の
ことだとしています。
 さらに、十七世孫の国造宮向臣が反正天皇十四年に国造に任じられ、出雲臣の姓を
賜わった、とあります。
 
 さて、これを皇統と比較してみると、十一世孫の阿多命・伊幣根命・甘美韓日狭が10代
崇神天皇の時代の人となるわけですが十四世孫の来日田維命は11代垂仁天皇か、あるいは
その御子であるホムチワケと同世代でなくてはならないのでずれが生じます。
十七世孫の国造宮向臣が反正天皇の時代に国造に任じられて出雲臣の姓を賜わったと
『出雲国造世系譜』にありますが、反正天皇は18代天皇とはいえ16代仁徳天皇の御子
なので世代としては17代にあたり、皇統とは1代のずれが生じるのです。
 さらに言えば、阿多命・伊幣根命・甘美韓日狭が十一世孫というのがすでにずれが生じて
います。
 二世の武夷鳥が国譲りの使者となったということは、国譲りの時に生まれたばかりのホノ
ニニギは三世孫と同世代ということになります。
 すると、初代神武天皇(ホノニニギの曾孫)と同世代になるのは七世孫ということになり、
10代崇神天皇と同世代が十一世孫というのは大きなずれが生じてしまうのです。
 もちろん、それぞれの存命した年数が異なるので単純に皇統と出雲臣の世代を重ねるわけ
にはいかないのですが、皇室と出雲臣の系譜は一致しないというのは間違いのないことで、
それはすなわち出雲臣の系譜がいろいろと手が加えられている、ということになります。それに、
『出雲国造世系譜』そのものが平安時代に作られたものであるから、出雲臣の系譜に作為が
あることは間違いないと言えます。
 つまりは、出雲振根や飯入根それに甘美韓日狭、ウカヅカヌが『出雲国造世系譜』に記され
ているから、と言ってそのまま彼らが出雲臣の一族であったと見做すことはできないということ
です。
 おそらくは、出雲国造が杵築大社(出雲大社)の祭祀権を掌握し、かつその正当性を得る
ために振根たちを出雲臣の系譜に組み込んだ、すなわち出雲国造は飯入根の子孫という系譜を
作り上げたのでしょう。
 
 ところが、ここでひとつの疑問が生じるのです。
 フルネ滅亡が出雲西部における勢力の低下を招き、その結果出雲臣の出雲西部への進出を
可能にした、ということは安易に推測できるわけですが、だとすると、『日本書紀』が記す、フルネの
事件をきっかけに出雲臣らが出雲大神の祭祀を自粛するようになった、とあるのはどういう理由
なのでしょうか。
 この出雲臣が後の出雲国造のことではなく神門臣のことだとすれば納得のいくことではあるの
ですが、祭祀の復活を求める神託があったということから想像するに、出雲国造の出雲臣も出雲
大神の祭祀を行っていなかったようなのです。
 
 さらに、その神託が出雲ではなく丹波国氷上郡の氷香刀辺(ヒカトベ)の子にあった、というのは
どうしてなのでしょうか。
 
 また、この神託に対し、氷香刀辺はそれを崇神天皇にではなく皇太子だった垂仁天皇に奏上して
いることも見逃せません。
 それと言うのも、この氷香刀辺の子への神託は、『日本書紀』にのみ記され『古事記』ではまったく
触れていません。
 それに対して『古事記』はホムチワケ伝承で、出雲大神が垂仁天皇に祭祀を要求し、ホムチワケが
出雲大神の宮を訪問するという話を載せていますが、『日本書紀』にはこの話は登場しないのです。
 ですが、話の内容は違えども、どちらも出雲大神の祭祀に垂仁天皇が関係している点では一致
します。
 では、どうして垂仁天皇が関係しているのか、という問題も生じるわけです。