小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

517 出雲臣の西進 その2

2016年08月01日 01時14分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生517 ―出雲臣の西進 その2―
 
 
 当時の出雲は一言で言えばいくつもの豪族によって部分統治されていた
状態で、ひとつの国としてまとまってはいなかった、と考えられています。
 その中で、『日本書紀』などの中央の記録に登場するのが出雲西部の
出雲振根、そして出雲東部の淤宇宿禰(オウノスクネ)なのです。
 
 淤宇宿禰が登場するのは『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」なのですが、
そこには「出雲臣の祖淤宇宿禰」と記されています。
 それで、この淤宇宿禰が出雲東部の豪族と言うのは、名前の淤宇(おう)が
出雲東部の意宇郡(おう郡=現在の松江市)に通じるからで、意宇郡は
出雲臣の本拠だからです。
 出雲臣が後に出雲国造に任じられた、いうのが定説ですが、同時に意宇郡は
出雲国府の置かれた地でもあります。出雲国府が記録では意宇郡に置かれて
いたことはわかっていましたが、近年の発掘調査によって、それまでも比定地
だった松江市大草町で国庁跡と思われる遺構が確認されました。
 
 さて、出雲臣の祖淤宇宿禰が登場する『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」の
記事とは以下の内容です。
 
応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と
屯倉を掌ろうとして、屯田司で出雲臣の祖淤宇宿禰に、
 「この屯田は、本来は山守のものである。だから吾が治めようと思う。汝は屯田に
関わるな」
と、言います。そこで淤宇宿禰が皇太子(ウジノワキイラツコ。同じく応神天皇の
皇子)にこのことを報告すると、皇太子は、オオサザキ皇子(後の仁徳天皇。同様に
応神天皇の皇子)に相談するように答えます。
 淤宇宿禰に相談を持ちかけられたオオサザキ皇子が倭直の祖麻呂に、
 「倭の屯田は本来山守のものというのは、どういう理由なのだ?」
と、尋ねると、麻呂は、
 「どのような経緯があったものなのか私も知りません。ですが、私の弟の吾子籠
(あごこ)がその辺のことに詳しいのですが」
と、答えますが、この時吾子籠は韓国に派遣されて日本にはいませんでした。
 そこでオオサザキ皇子は、淤宇宿禰に、
 「その方みずから韓国に渡り吾子籠を呼び戻せ」
と、淡路の海人80人を水手(かこ)として淤宇宿禰につけ、淤宇宿禰を韓国に遣わし
ます。
 かくして帰国した吾子籠に問えば、
 「垂仁天皇の時代に、皇太子のオオタラシヒコ尊(後の景行天皇)に倭の屯田を定め
られましたが、この時に、
 『倭の屯田は常に天皇のものである。たとえ兄弟といえども天皇でない者が掌る
ことはできない』
と、おっしゃられました。だから山守のものではありません」
と、答えた、というものです。
 
 もっとも、この伝承については、淤宇宿禰が本当に屯倉の管理を司る役職について
いたのか(本来はもっと低い官職の者が就く役職だから、という解釈と、この時代に
すでに出雲臣が大和政権に取り込まれていたのか、という疑問に寄ります)、それに、
屯倉の管理を担う者が屯倉の所有者についての知識を持ち合わせていなかったのか、
という疑問などがあり、史実性を疑う研究者が多くいます。
 
 ただ、この伝承の興味深いところは、上記の疑問を踏まえつつも出雲臣が大和政権に
仕えて屯倉の経営に関わっていたとする点、それと、屯倉の経営について、蘇我馬子が
推古天皇に葛城縣の返還を要求した時に、阿倍臣摩侶とともにその使者となって推古
天皇に蘇我馬子の要求を伝えた阿曇連が関わっていた、とする点です。
 
 ところで、ここまでのところで注意したいことがあります。
 それは、後に出雲国造となる出雲臣の本拠が出雲東部の意宇郡(松江市)ということ
です。
 出雲国造は、代替わりし新しい国造が就任すると、一族百余人とともに大挙上京し、
数々の神宝や供え物の献上とともに、天皇の長久と若返りを祈る神賀詞(かむよごと)を
唱和したのですが(いわゆる出雲国造神賀詞)、この神賀詞は大国主の神話と唱和する
内容となっています。
 
 ところが、大国主を祭祀する出雲大社は出雲西部の出雲郡(現在の出雲市)に鎮座
しているのです。(註:出雲市の位置は島根県の中東部にあたりますが、島根県は出雲と
石見を合わせたものなので、旧出雲国においては西部に位置します)