大国主の誕生219 ―出雲臣の西進 その4―
それではこの記事のどこに矛盾点や疑問点があるのかと言うと、まず崇神天皇が求め、飯入根が
差し出した「出雲大神の宮に納められた神宝」についてなのですが、これを『日本書紀』は、「武日
照命(タケヒナテルノミコト)あるいは武夷鳥(タケヒナテル)あるいは天夷鳥(アメノヒナトリ)が天より
持ち来たれる神宝」と記していることです。
この神は「出雲国造神賀詞」では天夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、『古事記』では建比良鳥命(タケ
ヒラトリノミコト)と記されていますが、ここで注意したいのは、フルネたちの戴く神宝が大国主では
なく天夷鳥命が天より持ってきたものである、ということです。
すると、フルネたちが祭祀する神は大国主ではなく天夷鳥命であった、ということになってしまう
わけですが、しかし、フルネの事件をきっかけに、大国主の祭祀が行われなくなった、というのは
どうしてなのでしょうか。
これに対する解答として考えられるのは、「出雲国造神賀詞」に、
「天夷鳥は荒ぶる神を払い伏せ、国作りましし大神を媚び鎮めた」
という一節があることです。
この国作りましし大神とはオオナモチ、すなわち大国主で、このことは『古事記』や『日本書紀』では、
天夷鳥の父神である天穂日命が国譲りの使者として高天の原から派遣されてそのまま出雲に
留まった、とあることと重なります。
また、同じく『古事記』や『日本書紀』には、国譲りの条件として大国主が自身の祭祀を高天の原に
要求し、これに対して高天の原は櫛八玉神らに大国主の祭祀を行わせていますので、フルネらは
天夷鳥の祭祀を通して同時に大国主の祭祀を行っていたと解釈することもできるわけです。
そうすると、フルネの事件の後、大国主の祭祀が行われなくなった、というのも理解できるように
なるのです。
ですが、そうだとしてもなおもひとつの疑問が残ります。
『古事記』には、
「建比良鳥命は、出雲国造、无邪志国造、上莵上国造、下莵上国造、伊自牟国造、津島縣直、
遠江国造等の祖」
と、あり、建比良鳥命を始祖とするのは出雲国造であり、神門臣は建比良鳥命の子孫であるとは
記されていないのです。
ただし、『日本書紀』ではフルネのことを「出雲臣の遠祖出雲振根」と記しています。
すると、神門臣フルネは出雲臣の一族ということになります。
しかし、出雲臣が意宇郡を本拠とする氏族だった、とする説に従うならば、この時代に出雲臣が
出雲西部への進出を終えていたとは考えにくいのです。
このフルネの伝承が出雲西部を舞台にしていることは次のふたつのことから知ることができます。
まず、フルネが出雲大神の宮に納められた神宝を管理していた、ということ。出雲大神の宮とは
出雲大社のことだと考えられるから、フルネの本拠は出雲西部ということになります。
次にフルネが飯入根を殺害した止屋の淵です。
『出雲国風土記』の神門郡の項に、
「塩冶(やむや)の郷 もとの字は止屋なり」
と、あるから、止屋は神門郡にあったわけで、ここからもフルネが神門郡を拠点にしていたことが
わかります。なお、塩冶郷は出雲市塩冶町(えんや町)周辺に比定されています。(塩冶町の他に
上塩冶町や塩冶〇〇町といった町名がいくつかあり)
つまりは、意宇郡の出雲臣とは無関係の、神門臣の内紛であった、と見るべきこの事件を『日本
書紀』は出雲臣の遠祖出雲振根としているわけですが、実は当の出雲国造もフルネを出雲国造の
家系に加えているのです。
それは、出雲国造に伝わる『出雲国造世系譜』に記されているものです。
『出雲国造世系譜』では、天穂日命を始祖に、二世を武夷鳥命としており、この点は他の記録
とも一致します。
そして、十一世に、阿多命、伊幣根命、甘美韓日狭の三名の名を記し、このうち伊幣根命を当主
としています。
それで、この三兄弟ですが、『出雲国造世系譜』は、長子の阿多命を、
「またの名を出雲振根。事詳見日本書紀崇神天皇紀」
と記し、伊幣根命を、
「崇神紀作飯入根」
と、記しているのです。