小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

519 出雲臣の西進 その4

2016年08月08日 00時04分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生219 ―出雲臣の西進 その4―
 
 
 それではこの記事のどこに矛盾点や疑問点があるのかと言うと、まず崇神天皇が求め、飯入根が
差し出した「出雲大神の宮に納められた神宝」についてなのですが、これを『日本書紀』は、「武日
照命(タケヒナテルノミコト)あるいは武夷鳥(タケヒナテル)あるいは天夷鳥(アメノヒナトリ)が天より
持ち来たれる神宝」と記していることです。
 
 この神は「出雲国造神賀詞」では天夷鳥命(タケヒナトリノミコト)、『古事記』では建比良鳥命(タケ
ヒラトリノミコト)と記されていますが、ここで注意したいのは、フルネたちの戴く神宝が大国主では
なく天夷鳥命が天より持ってきたものである、ということです。
 すると、フルネたちが祭祀する神は大国主ではなく天夷鳥命であった、ということになってしまう
わけですが、しかし、フルネの事件をきっかけに、大国主の祭祀が行われなくなった、というのは
どうしてなのでしょうか。
 
 これに対する解答として考えられるのは、「出雲国造神賀詞」に、
 
 「天夷鳥は荒ぶる神を払い伏せ、国作りましし大神を媚び鎮めた」
 
という一節があることです。
 この国作りましし大神とはオオナモチ、すなわち大国主で、このことは『古事記』や『日本書紀』では、
天夷鳥の父神である天穂日命が国譲りの使者として高天の原から派遣されてそのまま出雲に
留まった、とあることと重なります。
 
 また、同じく『古事記』や『日本書紀』には、国譲りの条件として大国主が自身の祭祀を高天の原に
要求し、これに対して高天の原は櫛八玉神らに大国主の祭祀を行わせていますので、フルネらは
天夷鳥の祭祀を通して同時に大国主の祭祀を行っていたと解釈することもできるわけです。
 そうすると、フルネの事件の後、大国主の祭祀が行われなくなった、というのも理解できるように
なるのです。
 
 ですが、そうだとしてもなおもひとつの疑問が残ります。
 『古事記』には、
 
 「建比良鳥命は、出雲国造、无邪志国造、上莵上国造、下莵上国造、伊自牟国造、津島縣直、
遠江国造等の祖」
 
と、あり、建比良鳥命を始祖とするのは出雲国造であり、神門臣は建比良鳥命の子孫であるとは
記されていないのです。
 ただし、『日本書紀』ではフルネのことを「出雲臣の遠祖出雲振根」と記しています。
 すると、神門臣フルネは出雲臣の一族ということになります。
 
 しかし、出雲臣が意宇郡を本拠とする氏族だった、とする説に従うならば、この時代に出雲臣が
出雲西部への進出を終えていたとは考えにくいのです。
 このフルネの伝承が出雲西部を舞台にしていることは次のふたつのことから知ることができます。
 まず、フルネが出雲大神の宮に納められた神宝を管理していた、ということ。出雲大神の宮とは
出雲大社のことだと考えられるから、フルネの本拠は出雲西部ということになります。
 次にフルネが飯入根を殺害した止屋の淵です。
 『出雲国風土記』の神門郡の項に、
 
 「塩冶(やむや)の郷 もとの字は止屋なり」
 
と、あるから、止屋は神門郡にあったわけで、ここからもフルネが神門郡を拠点にしていたことが
わかります。なお、塩冶郷は出雲市塩冶町(えんや町)周辺に比定されています。(塩冶町の他に
上塩冶町や塩冶〇〇町といった町名がいくつかあり)
 
 つまりは、意宇郡の出雲臣とは無関係の、神門臣の内紛であった、と見るべきこの事件を『日本
書紀』は出雲臣の遠祖出雲振根としているわけですが、実は当の出雲国造もフルネを出雲国造の
家系に加えているのです。
 それは、出雲国造に伝わる『出雲国造世系譜』に記されているものです。
 
 『出雲国造世系譜』では、天穂日命を始祖に、二世を武夷鳥命としており、この点は他の記録
とも一致します。
 そして、十一世に、阿多命、伊幣根命、甘美韓日狭の三名の名を記し、このうち伊幣根命を当主
としています。
 それで、この三兄弟ですが、『出雲国造世系譜』は、長子の阿多命を、
 
 「またの名を出雲振根。事詳見日本書紀崇神天皇紀」
 
 と記し、伊幣根命を、
 
 「崇神紀作飯入根」
と、記しているのです。

よかったじゃないよ!

2016年08月06日 00時35分26秒 | 日記
2013年4月10日(水)(5歳0か月)
 
 
 春奈の保育所は、送り迎えには「中学生以上の人」で
あることが条件になっている。
 
 この春から、ゆうきとりえも中学生になったので、春奈の
送り迎えをすることができる。
 
 さて、仕事を終えて家に帰ると、春奈が、
 
 「今日りえがお迎えにきた」
 
と、僕に報告してきた。
 
 そうか。今日はりえが保育所にお迎えに行ってくれたのか。
 
 それで、
 
 「よかったな」
 
と、言うと、
 
 「よかったじゃないよ!」
 
と、春奈が返した。
 
 え?何かあったのか?
 
 でも、話を聞くとそういうわけでもないらしい。
 
 単純にりえのマネっこだろう。
 
 りえもよく、
 
 「よかったな」
 
と、言われた時に、
 
 「よかったじゃないよ!」
 
と、返す時がある。
 
 そして、今の春奈の「よかったじゃないよ!」もりえの「よかった
じゃないよ!」とまったく同じ音の波だ。
 
 もっとも、りえの場合、「よかったけど、その反面こんなマイ
ナス面があった」という時に「よかったじゃないよ!」」と言うの
だけも、春奈の場合にはマイナス面はなかったようだ。
 
 思うに、春奈の場合は、「別にうれしい出来事でもラッキーな
出来事でもない」という意味で、「よかった」わけじゃない、と言い
たいのだろう。
 
 りえの「よかったじゃないよ!」も「マイナス面があったから
決して『よかった』ではない」という意味が含まれるから、春奈の
「よかったじゃないよ!」も使い方としては間違ってはいないと
言えるかも。

518 出雲臣の西進 その3

2016年08月04日 00時57分07秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生518 ―出雲臣の西進 その3―
 
 
 反対に、出雲西部を拠点にしていたのが『出雲国風土記』に登場する神門臣古禰(かむどの
おみフルネ)です。
 神門臣古禰(かむどのおみフルネ)が登場するのは、『出雲国風土記』の出雲郡建部郷(たけ
るべ郷)の条です。
 内容について言うと、元は宇夜の里と呼ばれていたが建部郷と呼ばれるようになった理由に
ついて、を記すものです。
 それによると、景行天皇が、
 「わが御子、ヤマトタケルの名が忘れられることがないように」
と望み建部を定めた時に、神門臣古禰(かむどのおみフルネ)を建部とした、そして建部臣らが
古(いにしえ)より今に至るまでこの地にいるため建部郷と呼ばれるようになった、ということです。
 
 ここに登場する神門臣古禰は『日本書紀』の「崇神紀」に登場する出雲振根と同一人物だと
考えられています。『日本書紀』におけるフルネは大和政権に討たれてしまいますが、『出雲国
風土記』のフルネは大和政権に直属下で仕えています。
 『出雲国風土記』の記事は非常に短いものなので、フルネが出雲に進出してきた大和政権の
圧力に屈する形で従属することになったのか、フルネが建部の民を管轄する役職を賜り、その際に
建部臣の姓を与えられたのか、解釈が様々にできるのです。
 しかし、神門臣古禰というからには、フルネの本拠が出雲郡の南に隣接する神門郡であったと
考えてよいでしょう。
 すると、フルネは出雲郡にも根を張っていたのでしょうか。
 
 まあ、それについてはさて置き、出雲振根の方を見てみることにします。出雲振根が登場するのは
『日本書紀』の崇神天皇四十年にはこのような記事で、その内容についてはこれまでにも何度か
触れてきましたが、改めて紹介します。
 
 天皇は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望まれたので、矢田部造の遠祖、武諸隅(タケモロ
スミ)を派遣した。
 出雲の神宝は、出雲臣の遠祖、出雲振根(イズモフルネ)が管理をしていたが、ちょうどその時
筑紫に出向いており不在だった。
 それで、イズモフルネの弟、飯入根(イイイリネ)が代わりに勅命を承り、弟のウマシカラヒサと
その子のウカヅクネに神宝を献上させた。
 その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、
 「なぜ神宝を渡したのか!」
と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟を殺してしまおうと考えた。
 フルネは、真剣そっくりの木刀を作らせると、イイイリネを、
 「近頃、止屋(やむや)の淵に藻がたくさん発生した。それを査察に行くのだがお前も一緒に来て
くれるか?」
と、声をかけて誘い出した。
 二人で止屋の淵まで行くと、
 「淵の水は清らかではないか。せっかくだから、ここで一緒に沐浴しよう」
と、フルネが言った。
 二人はともに沐浴をして、先にフルネが水中から上がると弟の太刀を佩き、剣を抜いた。
 イイイリネは驚いて兄の太刀を手にしたが、これは本物に似せて作った木刀であったから、フルネに
斬り殺されてしまった。
 このことで、人々は、
 
 八雲たつ イズモタケルが 佩ける太刀 黒葛(つづら)多(さわ)巻き さ身なしにあわれ
 
と、歌った。
 ウマシカラヒサとウカヅクネは朝廷に参上し、事の次第を伝えた。
 天皇は、吉備津彦と武渟川別(タケヌナカワワケ)を遣わしてイズモフルネを討たせた。
 この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が生じた。
 時に丹波の氷上郡の人で氷香刀辺(ヒカトベ)が、皇太子活目命(後の11代垂仁天皇)に、次の
ような訴えをした。
 「私には子がおり、まだこどもなのですが、それがこのようなことを言い出したのです。
 
 玉藻鎮石 出雲人の祭る 真種の甘美鏡 押し羽振る 甘美御神 底宝御宝主 山河の水泳る
(みずくくる)御魂 静かかる甘美御神 底宝御宝主 」
 
 皇太子は天皇にこのことを報告し、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させるよう勅命を出した。
 
 
 ところが、この記事にはいろいろと矛盾点、疑問点があるのです。

横文字の言葉の不思議

2016年08月02日 01時33分41秒 | 日記
2013年4月9日(火)(5歳0か月)
 
 
 今日も春奈を風呂に入れてやり、髪をシャンプーで
洗ってやる。
 
 さて、これをすすぐ時なのだけど、男の子なら髪が
短いので何度かお湯をかけてやればOKなのだけど、
女の子は髪が長くてお湯をかける回数が増える。
 
 ちなみに春奈はシャワーでなく桶にお湯を入れて
頭から流す方法。
 
 何でかと言うと、春奈はシャワーだと息継ぎができ
ないからだ。
 
 しかし、春奈は乳児の時からそうだったけど顔が
濡れるのを嫌がる。
 
 だから、頭にお湯をかけてシャンプーを洗い落とす
途中で必ず、
 
 「待って!」
 
と、言っては僕の手を止めてタオルで顔を拭く。
 
 どうせまたお湯をかけたら濡れるのに。
 
 それでも我慢ができないんだろうな。
 
 ただ、今日は、「待って」の代わりに、
 
 「いいよー、ストップ」
 
と、言った。
 
 なんで英語?
 
 いや、「ストップ」ってのは日本語に入り込んでいる
言葉ではあるけど。
 
 だけど、春奈が横文字を口にする時は間違った
使い方はしない。
 
 必ずその場面に適した言葉を口にするのだ。
 
 なぜ横文字の言葉は間違った使い方をしないの
だろう?
 
 これも幼児の言葉の不思議なことのひとつだ。

517 出雲臣の西進 その2

2016年08月01日 01時14分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生517 ―出雲臣の西進 その2―
 
 
 当時の出雲は一言で言えばいくつもの豪族によって部分統治されていた
状態で、ひとつの国としてまとまってはいなかった、と考えられています。
 その中で、『日本書紀』などの中央の記録に登場するのが出雲西部の
出雲振根、そして出雲東部の淤宇宿禰(オウノスクネ)なのです。
 
 淤宇宿禰が登場するのは『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」なのですが、
そこには「出雲臣の祖淤宇宿禰」と記されています。
 それで、この淤宇宿禰が出雲東部の豪族と言うのは、名前の淤宇(おう)が
出雲東部の意宇郡(おう郡=現在の松江市)に通じるからで、意宇郡は
出雲臣の本拠だからです。
 出雲臣が後に出雲国造に任じられた、いうのが定説ですが、同時に意宇郡は
出雲国府の置かれた地でもあります。出雲国府が記録では意宇郡に置かれて
いたことはわかっていましたが、近年の発掘調査によって、それまでも比定地
だった松江市大草町で国庁跡と思われる遺構が確認されました。
 
 さて、出雲臣の祖淤宇宿禰が登場する『日本書紀』の「仁徳天皇即位前紀」の
記事とは以下の内容です。
 
応神天皇の皇子、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と
屯倉を掌ろうとして、屯田司で出雲臣の祖淤宇宿禰に、
 「この屯田は、本来は山守のものである。だから吾が治めようと思う。汝は屯田に
関わるな」
と、言います。そこで淤宇宿禰が皇太子(ウジノワキイラツコ。同じく応神天皇の
皇子)にこのことを報告すると、皇太子は、オオサザキ皇子(後の仁徳天皇。同様に
応神天皇の皇子)に相談するように答えます。
 淤宇宿禰に相談を持ちかけられたオオサザキ皇子が倭直の祖麻呂に、
 「倭の屯田は本来山守のものというのは、どういう理由なのだ?」
と、尋ねると、麻呂は、
 「どのような経緯があったものなのか私も知りません。ですが、私の弟の吾子籠
(あごこ)がその辺のことに詳しいのですが」
と、答えますが、この時吾子籠は韓国に派遣されて日本にはいませんでした。
 そこでオオサザキ皇子は、淤宇宿禰に、
 「その方みずから韓国に渡り吾子籠を呼び戻せ」
と、淡路の海人80人を水手(かこ)として淤宇宿禰につけ、淤宇宿禰を韓国に遣わし
ます。
 かくして帰国した吾子籠に問えば、
 「垂仁天皇の時代に、皇太子のオオタラシヒコ尊(後の景行天皇)に倭の屯田を定め
られましたが、この時に、
 『倭の屯田は常に天皇のものである。たとえ兄弟といえども天皇でない者が掌る
ことはできない』
と、おっしゃられました。だから山守のものではありません」
と、答えた、というものです。
 
 もっとも、この伝承については、淤宇宿禰が本当に屯倉の管理を司る役職について
いたのか(本来はもっと低い官職の者が就く役職だから、という解釈と、この時代に
すでに出雲臣が大和政権に取り込まれていたのか、という疑問に寄ります)、それに、
屯倉の管理を担う者が屯倉の所有者についての知識を持ち合わせていなかったのか、
という疑問などがあり、史実性を疑う研究者が多くいます。
 
 ただ、この伝承の興味深いところは、上記の疑問を踏まえつつも出雲臣が大和政権に
仕えて屯倉の経営に関わっていたとする点、それと、屯倉の経営について、蘇我馬子が
推古天皇に葛城縣の返還を要求した時に、阿倍臣摩侶とともにその使者となって推古
天皇に蘇我馬子の要求を伝えた阿曇連が関わっていた、とする点です。
 
 ところで、ここまでのところで注意したいことがあります。
 それは、後に出雲国造となる出雲臣の本拠が出雲東部の意宇郡(松江市)ということ
です。
 出雲国造は、代替わりし新しい国造が就任すると、一族百余人とともに大挙上京し、
数々の神宝や供え物の献上とともに、天皇の長久と若返りを祈る神賀詞(かむよごと)を
唱和したのですが(いわゆる出雲国造神賀詞)、この神賀詞は大国主の神話と唱和する
内容となっています。
 
 ところが、大国主を祭祀する出雲大社は出雲西部の出雲郡(現在の出雲市)に鎮座
しているのです。(註:出雲市の位置は島根県の中東部にあたりますが、島根県は出雲と
石見を合わせたものなので、旧出雲国においては西部に位置します)