小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

正解なんてどうでもいい

2016年02月19日 01時46分18秒 | 日記
2013年1月14日(月)(4歳9か月)
 
 
 きのうの、「時々春奈の言っていることの意味がわからないことがある」
とか、「子供の考えることは大人の頭では想像できないことが多い」という
ことについて、いちおう説明しておこうと思う。
 
 これはあくまでも、「大人の頭では幼児のことが理解できない」という意味で、
幼児の思考が変だということではない。
 
 大人の場合、経験や知識の豊富さのせいで逆に思考の幅を狭めている
のかもしれない。
 
 反対に幼児は想像力をフルに働かせている。
 
 僕は幼い頃、テレビで放送されていた『セサミストリート』を欠かさずに
観ていたけど、これは日本語吹き替え版ではなく英語のオリジナル版
だった。
 
 当然幼い僕が英語など一言もわかるわけがない。
 
 なのに、いつもこれを観ていて、母親からも「何言ってるのかわからへん
のに何がおもしろいんやろ?」と不思議がられた。
 
 その時のことはもう詳しくは思い出せないけど、『セサミストリート』が
大好きだったことだけは覚えている。
 
 きっと、幼児の持つ想像力で言葉の壁を乗り越えてしまっていたのだろう。
 
 もちろん、想像だけで内容がすべて理解できていたわけでもない。
 
 けどれ、想像したことが正解なのか間違いなのか、そんなこと幼児は一切
気にしていないのだ。と言うよりも正解することなどということはどうでもいい
ことなのだ。
 
 逆もまたしかりで、自分の言っていることも日本語として正しいかどうか
なんてことも一切気にしない。ただ、相手に伝わっていない時に「ん?おか
しいな。別の言い方した方がいいのかな?」と考えるくらいのものだろう。
 
 大人が外国語を学ぶとき、正解かどうかを気にかけすぎるからなかなか
言葉が身につかないのだろう。
 
 その点幼児は正解することにこだわらないからこそ、母国語だとか外国語
だとかなんていう言葉に縛られないし、どんどん言葉を吸収していけるの
だろう。

480 難波と大和と神婚譚⑨

2016年02月18日 01時58分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生480 ―難波と大和と神婚譚⑨―
 
 
 三輪氏、物部氏、中臣氏の結びつきは偶然のものとは思えないところがあります。なぜなら
この三氏は、後世、仏教を認めるか否かで強硬な態度を取った氏族でもあるからです。
 『日本書紀』によれば、欽明天皇の時代に、欽明天皇が仏教の礼拝の可否について群臣に
問うたところ、物部尾輿と中臣鎌子が反対したとあり、敏達天皇の時代には、疫病が流行し、
物部守屋と中臣勝海が、疫病流行は仏教を取り入れたことが原因だとして仏像や寺院を焼いた
とあります。また異伝として、三輪逆と中臣磐余も物部守屋にともに仏教を滅ぼそうと諮ったと
あります。
 さらに用明天皇の時代には、用明天皇みずからが仏教の信者になろうとしたことに、物部
守屋と中臣勝海が反対を唱えた、とあります。
 
 このようにタケミカヅチで結びつく三氏ですが、これに尾張氏を加えることができます。
 そのことを説明するには話を稲穂の話に戻すことが必要となります。
 
 中臣壽詞や『日本書紀』の一書にあるように、天孫降臨に際してホノニニギが斎庭(ゆにわ)の
稲穂を授けられたこと、雷と稲の関係をすでに採り上げましたが、今度は践祚大嘗祭における
稲種公(いねのみのきみ)のことを少し採り上げてみたいと思います。
 
 践祚大嘗祭は新天皇が即位して行われる最初の新嘗祭で、つまりは11月の卯の日に行わ
れるわけですが、践祚大嘗祭における稲実公の役目について、井上辰夫著『古代王権と語部』
から、その箇所を紹介します。
 
八月上旬になると神祇官を命じて、宮主一人、卜部(うらべ)三人を悠紀(ゆき)、主基(すき)
両国に派遣する。それぞれの国には二人ずつの卜部が下向するが、そのうち一人を稲実卜部と
称し、一人を禰宜卜部と呼ぶ。
 造酒児(さかつこ)らとともに稲実公一人が両国からそれぞれ選ばれる。
 収穫が近づくと八神殿とともに「稲実斎屋一宇」と「稲実公一宇。造酒児等屋一宇」などの建物が
造営される。
 
 九月になると吉日を選んで抜穂が行われる。その時卜部が国郡司や雑色人などを率いて田に
臨む。一番最初に抜穂を行うのは造酒児であり、次に稲実公、御酒波の順であり、それが終わって
雑色人、庶民と続く。抜き終わるとその稲穂、つまり撰子稲は斎院(八神殿)に入れて乾かす。
その場合、初めに抜いた四束は供御の御飯にされるので、とくに八神殿の横の高萱御倉(たかか
やのおくら)に収められる。
 
 九月下旬になると、これらを竹籠に入れ、編んだ茅で蓋をし、賢木を挿し、木綿(ゆう)をつけて荷と
する。卜部が国郡司や雑色人を率いて運送するが、その場合も供御の御飯の稲の荷を先頭に置く。
それを必ず稲実公が木綿鬘(ゆうかずら)をつけて先導し、京の斎院の外に設けられた仮屋に収納
する。
 今日の斎院は、悠紀と主基それぞれ両処に設けられるが、斎院は内院、外院の両院とする。その
内院には「八神殿一宇、稲実屋一宇、黒酒、白酒屋各一宇」などが建てられる。そして、御稲を稲実屋
に収めるが、とくに供御の御飯に供する稲は棚を造って別置する。
 
 以上のことが稲実公の職務内容なのですが、これは平安時代の『延喜式』に記されていることです。
 そこで古代における新嘗祭について考察したのが柳田國男の「稲の産屋」(『海上の道』に所収)です。
 
 柳田國男の考察では、新嘗とは「ニヒノアヘ」であるといいます。
 稲村、稲積のことをニホ、ニョウというところから来ている、というのがその考察で、全国には産屋の
ことをニホ、ニフ、ニュウと言う方言が多く見られるそうです。(註:ただし現在ではそれらのほとんどが
姿を消してしまったようです)
 また、アヘは穀物を食することの意味を持つ、としています。
 
 さらに、アジア東南の島々の稲作種族の間に、穀母が穀童を産み、育てていく信仰行事が存在し、
これは穀霊の生誕を意味します。
 
 もっとも、上記のとおり新嘗祭における稲実公の任務にこの信仰を見つけることはできません。
 しかし、柳田國男は、八神殿の外に稲実斎屋を造り、さらには稲実公の屋というものが設けられている
ことから、稲実公には籠りの役があったものと考えています。
 また、聖別された稲穂の中から翌年の種実を拝受して、郷里に還ってくる任務があったのではないか、
とも「稲の産屋」の中で述べています。

理由がわからん

2016年02月14日 01時23分18秒 | 日記
2013年1月13日(日)(4歳9か月)
 
 
 いつもは僕が春奈を風呂に入れてやる係なのだけど、
その春奈が僕に言った。
 
 「今日はおねえちゃんとお風呂入る」
 
 「なんで?」
 
 「ポテト食べたから」
 
 「はあ?」
 
 怪訝そうに僕が訊くと、春奈は、
 
 「えへへ」
 
と、笑って、
 
 「ポテト食べたから、おねえちゃんと入る」
 
 今でも時々春奈の言っていることの意味がわからない
ことがある。
 
 想像を働かせるなら、りえがよく、「焼き芋を食べたら
オナラがでやすくなるで」と言っているから、ジャガイモも
食べるとオナラが出やすくなるから恥ずかしい、と思った
から?
 
 いやいや、普段の行動からそれはないかもな。
 
 じゃあ、他の理由は?
 
 やっぱりわからない。
 
 子供の考えることは大人の頭では想像できないことが
多いなあ。

479 難波と大和と神婚譚⑧

2016年02月12日 00時48分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生479 ―難波と大和と神婚譚⑧―
 
 
 『日本書紀』が、オオタタネコは大物主の子、としているのに比べて『古事記』の方は、
 
大物主 ― 櫛御方命 ― 飯肩巣見命 ― 建甕槌命 ― オオタタネコと、間に3代を挟ん
でいます。 
 このことは、『古事記』の方が新しい神話を採用しているものと解釈されています。
 
 大物主の子が櫛御方命(クシミカタノミコト)というのは、『先代旧辞本紀』に登場する
天日方奇日方命(アマツヒカタクスヒカタノミコト)のことだと思われます。この奇日方命
(クシヒカタノミコト)が櫛御方命(クシヒカタノミコト)に酷似しているからなのですが、
『日本書紀』には、オオタタネコの母を奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタ
タケチヌツミ)の娘とする異伝がある、と伝えています。
 
 『先代旧辞本紀』には、事代主が、三島溝杭耳神(ミシマノミゾクイミミ神)の娘の玉櫛媛を
娶って天日方奇日方命と媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)を生んだとあり、
妹のイスズヒメが神武天皇の皇后になった、とあります。
 その一方で、同じ『先代旧辞本紀』はイスズヒメを「大三輪の大神の子」と記します。
 もっとも、『先代旧辞本紀』は、事代主を大国主の子とした上で、大国主と大物主を
同神しているので決して矛盾はしません。
 このことは『日本書紀』とも一致します。『日本書紀』もイスズヒメを、事代主が三島溝杭
耳神の娘の玉櫛媛を娶って生んだ子とし、またイスズヒメを大物主の子とも記しているの
です。さらに大物主と大国主を同神としている点も一致します。
 
 これらのことから推測するに、成立時期は不明ながら、大物主の子にクシミカタノミコト
もしくはクシヒカタノミコトがいるという伝承が存在したと思われます。
 そして、『先代旧辞本紀』はクシヒカタノミコトを、三輪氏の始祖と記しますが、『古事記』も
『日本書紀』もともに三輪氏をオオタタネコの子孫としています。
 つまり、大物主の子がオオタタネコという伝承に、大物主―クシミカタ―オオタタネコという
系譜ができ、そこに建甕槌(タケミカヅチ)をはさんだ、しかしタケミカヅチをクシミカタの子と
するのに少なからず抵抗があったのでその間に飯肩巣見命を一代挟んだのではないで
しょうか。
 
 もっとも、『先代旧辞本紀』では、事代主 ― 天日方奇日方命 ― 健飯勝命 ― 健甕尻命
またの名を健甕槌命、としており、タケミカヅチがクシヒカタの孫と言う点は一致します。
 ただし、『先代旧辞本紀』と『古事記』の違いは、こちらでは、オオタタネコが、健甕尻命
(健甕槌命) ― 豊御気主命 ― 大御気主命 ― 阿田賀田須命 ― 大田田禰古命、とより
複雑になっているところです。
 
 ところで『先代旧辞本紀』はクシヒカタについて、ニギハヤヒの子、宇摩志麻治命(ウマシ
マジノミコト)とともに、神武天皇より食国(おすくに)の政事を行う大夫に任じられた、と記し
ます。重臣として政務を任されたということです。
 『先代旧辞本紀』はニギハヤヒ系によって記された書ですから、ウマシマジを始祖とする
物部氏にも関係します。だから、この一節にある、三輪氏の祖と物部氏の祖がともに政治を
行ったというのは、ニギハヤヒ系氏族と三輪氏の結びつきを意味することにもなるのです。
 
 三輪氏は神(みわ)氏とも表記され、大の美称を冠して、大三輪氏、大神氏とも称しました。
なお、姓(かばね)は君(きみ)です。その名が示すとおり、大神神社の祭祀氏族でもありま
すが、姓の最高位である君の姓を持つ理由は、この大物主を祭祀するからこそとも考えら
れる、つまりは当時の大和政権はそれほど大物主の祭祀を上位に置いていたと考えられる
のです。
 
 三輪氏は大物主の子孫を称し、大神神社の祭祀を司る。
 太氏も大物主の子孫を称し、多坐弥志理津比古神社の祭祀を司る。
 
 大神神社と多神社の関係が祭祀氏族の関係にもあらわれている形です。
 しかも、太氏は『古事記』では「意富」と表記され、三輪氏の始祖オオタタネコも『古事記』では
「意富多多泥古」と、ともに「意富」と表記されます。
 
 同時に三輪氏はタケミカヅチとも結びつくわけです。
 なぜなら三輪氏の始祖オオタタネコはタケミカヅチの子だからです。このことは同時に
三輪氏と中臣氏、物部氏との結びつきをも意味します。
 その関連性は、
 
 三輪氏。タケミカヅチ(建甕槌命)の子オオタタネコを始祖とする。
 中臣氏。タケミカヅチの祭祀を司る。
 物部氏。タケミカヅチの分身布都御魂を管理する。
 
と、いうものになるわけです。

おなかがいっぱい空いている

2016年02月10日 01時12分38秒 | 日本語
2013年1月12日(土)(4歳9か月)
 
 
 夕ご飯前に、春奈が、
 
 「お父さん、おなかいっぱいすいてる?」
 
と、訊いてきた。
 
 とても空いてる?とか、すごく空いてる?ならわかるけど、
いっぱい空いている?って何だよ。
 
 そんな日本語初めて聞いたよ。
 
 ふつう、「おなかいっぱい」って言うと、満腹のことを指すだろ?
 でも、言いたいことはわかるよ。
 
 春奈にとって、「いっぱい」は「すごく」や「とても」と同じ意味
なんだろうな。
 
 考えてみれば、「とても」という言葉も本来の意味とは違う形で
みんな使っている。
 
 「とても」という言葉は、「とてもできない」とか「とても堪えられ
ない」など、否定的な意味合いで用いられる言葉だった。
 それがいつの間にか、「とても嬉しい」、「とても綺麗」などいい
意味でも使うようになった。
 
 日本語にかぎらず言葉というものは時代とともに意味が変わって
くることがあるものだ。
 
 もしかすると、いつか、「おなかがいっぱい空いている」という
表現もふつうに使われるようになるかもしれないな。