小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

出雲大社17 アヂスキタカヒコネ③―

2014年02月18日 00時05分22秒 | パワースポット
パワースポット編 ―出雲大社17 アヂスキタカヒコネ③―

 さて、水沢は「みさわ」と読むことができる。この音は『出雲国風土記』の三澤に
通じる。

 それから、伊勢の三重村の由来と似た話も『播磨国風土記』に登場する。
 伊勢の三重村の由来が、ヤマトタケルの足がこの地で「三重に折れ曲がったため」と
『古事記』は伝えるが、『播磨国風土記』の賀毛郡(かも郡)三重の里の条に、次の
ような伝承が記載されている。

 「昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」

 注意したいのは、この記事が品遅部村(ほむちべ村)の条に並んで記されていること
である。
 『古事記』のホムチワケ伝承では、

 「また、皇子にちなんだ鳥取部、鳥甘部、品遅部、大湯坐、若湯坐を定められた」

と、いる。
 それに、賀毛郡(かも郡)というのも、アヂスキタカヒコネの坐す鴨と同じである。

 それだけではない。
 足見田神社に残る伝承に、神域の東にオシミ田という地があり、ここで農耕する者は、
口がきけない子を生む、というものがあるらしい。
 『出雲国風土記』の仁多郡三澤の郷の、アヂスキタカヒコ神話の最後にも、

 「今も孕める婦人はその村の稲を食わず。もし食う者があれば、生まれる子はもの
言わざるなり」

という一文があるのである。

 そう言えば、『出雲国風土記』の仁多郡三澤の郷の記事に、

 「国造が神吉事奏上のために朝廷に上がる時にはこの水で身を清めるのは、この故事に
よるものである」

と、いう一文があるが、「この故事によるものである」とは一体どういう意味なのだろ
う?アヂスキタカヒコネの神話のどこが、国造が神吉事奏上のために朝廷に上がる時に
三澤の水で身を清める理由になるのだろう?

 この疑問を解くカギが『出雲国風土記』の出雲郡の記事にある。

 出雲郡漆沼の郷(しつぬの郷)の条に、天津枳比佐可美高日子命(アマツキヒサカミ
タカヒコノミコト)なる神が登場する。
 『古事記』のホムチワケ伝承には、出雲国造の始祖岐比佐都美(キヒサツミ)という人物
が登場する。
 天津枳比佐可美高日子命の天津の部分は美称だろうからキヒサカミ高日子というのが名
になる。キヒサカミとキヒサツミはよく似通った音である。
中央で編纂された『古事記』は、出雲国造の名に、出雲大社のある出雲郡の神のものを
持ってきたとも解釈できる。
 『古事記』では、そのキヒサツミがホムチワケに大御食を奉ろうとした時に、
 「この川下にある青葉の山は本当の山ではないね。もしかしてアシハラシコオの神を祀
る者の斎場なのか?」
と、ホムチワケが口をきいた、となっている。

 キヒサツミ=キヒサカミ高日子との対面でホムチワケは口がきけるようになったという
話には高日子という名が関係するかもしれない。
 国譲り神話では、アヂスキタカヒコネはアメノワカヒコに瓜二つだったことになってい
る。そして、アメノ若日子が死んでアヂスキ高日子が登場する形になっている。
 出雲国造が神賀詞を奏上するのは、新国造の就任時である。
 それらのことを総合して考えると、ここには成人儀礼やあるいは再生の思想が見て取れる
のである。


 さて、最後にアヂスキタカヒコネと、出雲や東海地方とのつながりを示すエピソードを
もうひとつ紹介したい。

 愛知県名古屋市熱田区の熱田神宮では、スサノオがヤマタノオロチを斬った時に、その
尾の中から出てきたという草薙の剣を御霊代としている。
 この草薙の剣はヤマトタケルから尾張氏の女性ミヤズヒメに預けられ、その後に熱田神宮
に納められることになったものだが、一度この剣が熱田神宮より盗み出されたことがある。
 『日本書紀』の天智七年の記事にそのことが記されている。
 すなわち、新羅の僧であった道行が草薙の剣を盗み出し、新羅へ逃げ帰ろうとしたもの
の、途中暴風に遭って失敗に終わった、とある。

 大阪市鶴見区放出東にある阿遅速雄神社(あちはやお神社)には、この事件に関連した
伝承が残されている。
 新羅に逃げ帰る途中で嵐に遭った道行は、これを草薙の剣の祟りだと考えて、剣を投げ
捨ててしまった。
 ちなみに放出(はなてん)という地名は剣を放り投げて捨てたことから来たという伝承も
残されている。
 しかし剣は里人に拾われて、この阿遅速雄神社に納められた、というのである。

 この阿遅速雄神社の祭神は、アヂスキタカヒコネであるが、このアヂスキタカヒコネが
出雲と尾張を結ぶ役目を担っていると言ってもいい。

 回収された草薙の剣を預かったという伝承を持つこの神社は、実際にも熱田神宮と深い
関係にある。
 現在でも、阿遅速雄神社の祭礼日(10月22日)には熱田神宮の宮司あるいは神職の
参例あり、熱田神宮の大祭(6月5日)には、阿遅速雄神社の宮司、氏子総代らが参列する。

 熱田神宮の大祭の熱田祭は「菖蒲祭」とも呼ばれ、かつては陰暦の5月5日に行われて
いたが、阿遅速雄神社には神池として菖蒲池があり、5月5日には菖蒲刈神事が行われて
いるのである。

 というところで、アヂスキタカヒコネの話は終わりにします。

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