大国主の誕生451 ―忍海飯豊青尊と二皇子の帰還①―
吉備を支配下に置くことに成功した大和政権は、吉備の向こう側にある世界、出雲へと
進出していくことになるのですが、それは少しだけまだ先の話。
大和ではまだ動乱の時代が続くのです。
21代雄略天皇崩御の後、白髪皇子が22代清寧天皇として即位したことで、允恭天皇の
系統が継続されたわけですが、大日下王の系統は雄略天皇によって滅亡し、履中系の
市辺之忍歯王と御馬皇子もやはり雄略天皇によって殺害され、市辺之忍歯王のふたりの
遺児も逃亡して事実上滅亡してしまっていましたから、皇統は允恭系のみの状況でした。
そして、清寧天皇の生母は、葛城円大臣の娘の韓媛でしたから、久しぶりに葛城氏の
女性が生んだ天皇が現れたことになります。
しかし、『日本書紀』が記すには、天皇は、大伴室屋を大連に、平群真鳥を大臣にしており
、葛城氏の復権とはいかなかったようです。
そんな清寧天皇は、雄略天皇崩御の翌年(清寧天皇元年)の正月に即位し、清寧天皇五年の
正月に崩御した、と『日本書紀』は伝えており、その治世は実質4年という短命に終わってしま
いました。
しかも、『古事記』は、この天皇は后も子もいなかった、と伝え、『日本書紀』も皇后についての
記載は一切なく、子はいなかった、と明記しています。
その結果、允恭系の皇統は途絶え、次の22代天皇には亡命していた市辺之忍歯王の遺児が
就くことになったのです。
ただ、そのいきさつについては、『古事記』と『日本書紀』では異なることを伝えています。
『古事記』は清寧天皇の治世を次のように記します。
「白髪大倭根子命(註:清寧天皇)、伊波礼の甕栗宮に坐しまして天の下治らしめしき。この
天皇、皇后無く、また御子も無かりき。これに日継ぎ知らす王を問うに、市辺忍歯別王の妹、
忍海郎女、またの名は飯豊王、葛城の忍海の高木の角刺宮に坐しましき」
この一文は、清寧天皇には子がいなかったので、天皇崩御に直面して朝廷では次の天皇を
どうするべきかという問題が起こりましたが、市辺忍歯別王(市辺之忍歯王)の妹である忍海
郎女(飯豊王)が葛城の忍海の高木の角刺宮にて執政を行った、と解釈されています。
忍海郎女は以前に紹介した忍海飯豊青尊(オシヌミノイイドヨノアオノミコト)です。
『古事記』はその後のことを次のように伝えます。
山部連小楯(やまべのむらじおたて)が播磨国の宰(みこともち=後の国司にあたる役職)と
して赴任した時、地元の豪族志自牟(しじむ)が邸宅を新築した祝いの席を設けていたので
小楯もこれに招待された。
人々は順に舞を舞い、竈のそばにいた火たきのふたりの少年たちにも舞えと皆が言った。
少年のひとりはもうひとりに、
「弟よ、先に舞え」
と、言い、もうひとりの少年も、
「兄よ、先に舞いたまえ」
と、譲り合った。
結局、弟の方が先に舞うことになり、その前振りとなる歌を詠んだが、その歌の最後に、
「天の下治めたまいき伊邪本和気天皇の御子市辺押歯王の奴すえ(吾は履中天皇の皇子
市辺之忍歯王の子であるぞ)」
と、詠んだ。
それを聞いた小楯は床から転げ落ちると、その室屋にいる人々を追い出して、そのふたりの
皇子を左右の膝に座らせて泣き悲しんだ。
それから人々を徴集して仮宮を造って皇子に住まわせると、早馬の使者を送って大和にこの
ことを報せた。
その報告に叔母の飯豊王は喜び、ふたりを大和に上らせた。
この二皇子の帰還について、『日本書紀』の記事は少々異なっているわけです。
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