小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

春奈の弾き語り

2015年01月11日 03時21分07秒 | 日記
2012年5月31日(木)(4歳2か月)


 今日は木曜日だから和泉中央ファミリーの
日である。

 ファミリーから家に帰ってくると、速攻で
風呂を沸かして春奈に入浴させないといけない。

 風呂が沸くまでの間は、春奈はパジャマなど
のお着替えを用意する時間になる。

 ところが、春奈、それをやらずに、うちわの
ギターとおはじきのピックで弾き語り。

 遊んでないでやることしろよ。

 春奈の保育所の担任は、保育士になってまだ
2年目の若い男の先生で、いつもギターを弾き
ながらみんなに歌を教えてくれるそうだ。

 春奈、先生のマネっこをしているってわけだ。

 他人のマネっこは大人になってもすることが
あるけどね。

 そんでもって、これまでに何度も書いてきた
ことだけど、乳幼児が言葉を獲得していく過程に、
周りの人が言ったことをマネっこして自分も使って
みる、というものがある。

 人間とはマネっこをする習性がある、という
ことだ。

 大人もするマネっこ。でも、春奈のような幼児は
ギターの代わりにうちわ、ピックの代わりにおはじき、
といったように代用品で十分満足してマネっこを楽し
んでいる。

 マネっこに柔軟性があるのだ。

 幼児の言葉の成長が大人よりも速いのは、やっぱり
言葉のマネっこに対しても柔軟性がある、ってこと
にあるのかもしれない。

350 難波の太陽祭祀と朝鮮の関係

2015年01月11日 03時18分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生350 ―難波の太陽祭祀と朝鮮の関係―


 比売許曽神社は大阪市東成区に鎮座しますが、大和岩雄の説によれば、大阪の東成、西成の
「ナリ」も「ナル庭(難波)」と同じく「日(ナル)」から来たものである、となります。
 ところで、大阪市にはもうひとつヒメコソ神社が存在します。
 それは中央区の高津宮(高津神社)の中にある比売古曽神社で「元ひめこそ」と呼ばれている
ものです。
 現在は高津宮の摂社になっていますが、東成の比売許曽神社よりもこちらの方が本家である、
ともいわれています。
 伝えるところによれば、本来、高津宮よりも比売古曽神社の方が先にあり、豊臣秀吉が大坂城
を築城する際に、高津宮をこの地に移転させた結果、元々の比売古曽神社が高津宮の摂社になって
しまったのだといいます。
 生國魂神社も元は現在の大阪城のある地に鎮座していたと伝えられていますが、こちらも秀吉の
大坂築城の際に現在の大阪市天王寺区に移転させられました。
 元ひめこそ比売古曽神社のある高津宮と生国魂神社は近い距離にあります。
 高津宮も生国魂神社がともに移転先として比売古曽神社の周辺が選ばれたことには何らかの理由
があったと思われるのですが、その理由は、この地が熊川の比定地というところにあるのかもしれ
ません。
 それでは熊川とは。
 佐衛門権左平行親の『平記』の中に、八十島祭の祭場について、「熊河尻に祭場を設ける」という
一文があり、熊川の河口にて行われたことが記されているわけですが、この熊川の河口が高津宮や
生国魂神社の辺りだと比定されているわけです。
 古墳時代までは上町台地の周辺は海でしたから、この辺りが海岸線ということになります。

 さて、八十島祭の祭場だった熊川ですが、この名称にも注意が必要になります。
 それと言うのも、朝鮮半島には、熊川、熊浦、熊島、熊津など、熊の付く地名が多いからです。
 等乃伎神社のトキも坐摩神社の旧社地トガも「日の出」を意味する朝鮮語から来ていると考えられ
るように、大阪府の太陽信仰には朝鮮が大きく関係していると見られるのです。
 もちろん、朝鮮が関わると考えられる理由のひとつに比売許曽神社の祭神がかつては新羅からやって
来たアカルヒメであったことも含まれます。

 そして、もうひとつ、渡辺のことも挙げられます。
 上町台地の北、と言いますか坐摩神社の旧社地の北には渡辺津という港があり、現在の大阪市
中央区の天満橋から天神橋の間辺りです。ここは旧淀川の河口近くにあたり、その昔は渡辺村と
いう地名でした。
 ただし渡辺は比較的に新しい地名であったらしく、奈良時代の記録には「新羅江庄」という地名が
登場します。
 渡辺は後に北渡辺と南渡辺となりますが、新羅江庄は北渡辺に比定されますが、豊臣秀吉の大坂築
城にともなう坐摩神社の移転と同時に北と南の両渡辺の人々も移転を強いられることになります。
 現在も坐摩神社の鎮座するところは、中央区久太郎町四丁目渡辺という地名で、渡辺の名が残されて
います。
 ただし、旧北渡辺の人々はそこから旧難波村に再度移住していきます。しかし、ここからさらなる
移住を強いられ、旧北渡辺の人々が最終的に落ち着いた先は旧木津村(浪速区西浜町でした。ここも
明治の頃までは渡辺村を称していましたが、渡辺村に唯一存在した神社は白木神社でした。白木は新羅
に通じます。

 それと、大和岩雄は、『神社と古代王権祭祀』の中で、天平宝字四年(760年)十一月十八日の日付の
ある摂津国安宿王家地倉売買券に、「西成郡擬大領従八位上吉志船人」の名が見えることを紹介し、
この西成の吉志(きし)船人は難波吉士(なにわのきち)の一族であろうとしています。

 難波吉士で思い出されるのが『日本書紀』にある、根使主(根臣)滅亡後に、雄略天皇が、大草香王
(大日下王)が安康天皇によって殺害された時に、王に殉死した難波吉士日香香(なにわのきしひかか)
とその二人の息子の子孫を探し出して、大草香部吉士(おおくさかべのきし)の姓を授けた、という記事
です。
 この記事は、大日下王と難波吉士のつながりを示すものであり、大日下王と若日下王の兄妹と、難波の
太陽祭祀と葛城氏の関係を浮かび上げさせるものでもあるのです。