小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

知らないと言わないってのも寂しいねぇ

2015年01月07日 01時39分44秒 | 日記
2012年5月29日(火)(4歳1か月)


 春奈に、今日の保育園のおやつは何が出たのか
訊いてみた。

 「今日のおやつは?」

 「名前しらん」

 知らないものは言えない、になったようだ。

前は、知らないことだらけだから、何とか伝えよう
としていたものだけどね。

 形や色を説明したり、味を説明したり、〇〇に
似てる、と説明したり。

 小さい頃は、大人と比べれば知らない言葉が圧倒的に
多い。

 だから知っている言葉を駆使してそれを伝えようとした。

 また、場合によっては新しい言葉や名称を作り出して
いた。

 今はもう、「知らないことが当たり前」ではなくなって
しまったのだね。

 それだけ言葉が増えたということなんだろうけど、代わり
に、名称を知らないと伝えることを放棄してしまうように
なったのは少し寂しい。

348 葛城氏と日下部(後編)

2015年01月07日 01時36分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生348 ―葛城氏と日下部(後編)―


 仁徳天皇が、大日下王の御名代として大日下部を、その妹の若日下部王の御名代として
若日下部を定めた、と『古事記』にありますが、これら部民としての日下部とは別に、
おそらくは日下部と統括していたと思われる日下部連がいました。
 こちらの日下部連は、日子坐王の子、沙本毘古王(サホビコノミコ)を始祖としますが、
以上のことは前にお話ししました。
 そして、日下部連が市辺之忍歯王のふたりの皇子につき従ったとする伝承が『日本書紀』や
『播磨国風土記』に残されているのです。
 目弱王の乱に関連して葛城円大臣が雄略天皇に滅ぼされた直後、今度は市辺之忍歯王と
その弟の御馬皇子が殺害されてしまいます。この時、市辺之忍歯王とその妻の、葛城氏の
女性ハエヒメとの間に生まれたオケ王とヲケ王の兄弟は難を逃れるために大和を脱出します。
 その際に、二皇子の逃走を手伝ったのが日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子
吾田彦(あたひこ)のふたりです。
 使主は丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)に二皇子を連れて行き、そこで名を田疾来
(たとく)と改めますが、なおも追手が来るのを恐れて播磨国の縮見山の石室に二皇子を
連れて行き、この地で自決します。
 その後、二皇子と吾田彦は忍海部造細目に仕え、吾田彦は二皇子に離れることなく従った、
といいます。

 それにしても、日下部氏がここまで二皇子に尽くした理由は何だったのでしょうか?
 考えられる理由のひとつに、実は市辺之忍歯王は天皇として即位していた、という説が
あることを紹介しておきたいと思います。
 前回に紹介した井上光貞の「帝紀からみた葛城氏」(『日本古代国家の研究』に所収)
にもこのことが触れられているのですが、葛城氏の力を背景に市辺之忍歯王は安康天皇の
跡を襲う形で即位したものの、大長谷皇子によってまず葛城円大臣が滅ぼされ、新帝も
また殺害され、そうして大長谷皇子が雄略天皇として即位した、という説が存在するのです。
 この説に従うならば、二皇子は殺害された天皇の遺児であり、正統な皇位継承者になり
ますから、命を賭して護られる理由があります。
 しかし、『古事記』も『日本書紀』も、市辺之忍歯王が天皇として世を治めた時代があったと
思わせるような記述はあるものの、正式に即位したことは一言も記していません。
 そこで、従来どおり、市辺之忍歯王が即位することなく殺害されたということで考えると、
日下部氏が二皇子を護った理由が何だったのか、ということになります。
 その理由。それは葛城氏と日下部の関係にあったのではないでしょうか。
 つまり、太陽祭祀に携わる日下部、そして葛城氏はその太陽祭祀の祭祀者たちを庇護する
立場にあったのではないでしょうか?
 そのように考える理由として、難波と八十嶋祭のことを挙げなくてはなりません。
 でも、その前に、ここまでに取り扱った難波と太陽祭祀について整理してみます。

 ①難波の枕詞は「押し照る」であり、難波は「ナル(日)の庭」ではないかとする説がある。
 ②瀬戸内から見れば、難波は朝日の昇る方角にあり、「日の下(もと)」である。
 ③坐摩神社(いかすり神社)の旧社地に比定される菟餓野(とがの)からは冬至の日に
 ④高安山頂から昇る朝日をのぞむことができる、日読みの地である。
 ⑤さらに、この菟餓野という地名であるが、「とが」は朝鮮語で「日の出」を意味する。

 以上のことはこれまでにお話ししたものです。
 それでは八十嶋祭といきたいところですが、もうひとつ紹介したい難波の神社があります。
 比売許曽神社(ひめこそ神社)です。
 祭神は大国主の御子神といわれる下照比売(シタテルヒメ)ですが、『古事記』には、

 「浪速の比売碁曽(ひめごそ)の社に坐す阿加流比売(アカルヒメ)という神なり」

と、あり、比売許曽神社の祭神がアカルヒメである、としています。
新羅の王子天之日矛(アメノヒボコ)が身分の低い男から得た赤玉を持って帰ると、それが
女性の姿となった、それがアカルヒメなのです。

 『日本書紀』では、大加羅国の王子都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が寝所に置いた白石が
童女の姿となり、それが日本に渡って難波の比売語曽(ヒメゴソ)の神になった、と記します。

 つまりは、『古事記』も『日本書紀』も比売許曽神社の祭神を、朝鮮半島から来た女神だと
伝えているのです。