小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

2015年始動です

2015年01月05日 01時04分36秒 | 日記
2014年1月5日(月)


 今さらながらではありますが、新年あけまして
おめでとうございます。

 今日から仕事はじめです。

 さて、年末年始の間、ブログの更新もお休みさせて
いただいておりました。

 去年の年末近くから忙しくなり更新も1日おき、
となってしまいましたが。

 それでも、まだしばらくブログは続けて行きたい
と思っています。

 今年もどうぞよろしくお願いします。


 (イラスト by りえ)

347 葛城氏と日下部(前編)

2015年01月05日 00時38分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生347 ―葛城氏と日下部(前編)―


 『日本書紀』にある、根使主(根臣)滅亡後、根使主の本宗は坂本臣となった、という
記事ですが、『古事記』にも、「坂本臣の祖根臣」と記しています。
 しかし、その一方で『古事記』は、坂本臣は建内宿禰の7人の息子のひとり木角宿禰
(キノツヌノスクネ)が坂本臣の祖だとしているのです。
 葛城氏の始祖も、建内宿禰の子、葛城曽都比古ですから、根臣と葛城氏は同祖をいただく
関係になります。
 もっとも建内宿禰が伝承上の人物といわれているのですが、坂本氏(根臣)と葛城氏が
同じ建内宿禰系を称するのは何かしらの連帯があったと考えるべきでしょう。

 そもそも大鳥郡には日下神社や等乃伎神社の他に、土師氏が居住する百舌鳥や、オオタタ
ネコの本拠陶邑が存在し、その近くには日置氏が関わる日置里があるように、太陽祭祀に
関わる氏族が集中しているところでもあります。
 大鳥郡より南に根臣の拠点である日根郡があるわけですが、日下も日根も「日の本(ひの
もと)」を意味します。

 さて、次に日下に関わる日下部と葛城氏の関係を考えてみたいと思います。
 いわゆる目弱王の乱の時に、目弱王は安康天皇を暗殺した後、葛城円大臣のもとに逃げ込み
ます。
 しかし、政権の中枢にいたと思われる円大臣のところに逃げ込むのは自ら拘束されに行く
ようなものです。
 それならば、目弱王には、円大臣が自分を保護してくれるという確信とその理由があったこと
になります。
 ところが、目弱王と葛城氏の関係は、『古事記』、『日本書紀』には何も記されていないの
です。
 まず、目弱王の血縁を見てみますと、父の大日下王は仁徳天皇と髪長比売との間に生まれた
皇子で、母の髪長比売は、『古事記』が日向の諸県君牛諸の娘、『日本書紀』が日向の諸県君
牛諸井の娘、としており、一致していると言いきってよいものです。つまり、葛城氏とは無縁
なのです。
 一方、目弱王の母、長田大郎女(ナガタノオオイラツメ)は、允恭天皇と忍坂大中津比売命
(オシサカノオナカツヒメノミコト)との間に生まれているので葛城氏とはやはり無縁です。
あえて言えば、允恭天皇は仁徳天皇と、葛城曽都比古の娘、石之日女命との間に生まれていま
すが、当の允恭天皇は葛城氏の女性を后妃には迎えておらず、むしろ葛城玉田宿禰を滅ぼすなど、
葛城氏との縁は薄い人物です。

 井上光貞の「帝紀からみた葛城氏」(『日本古代国家の研究』に所収)という評価の高い論文
がありますが、この中で、井上光貞は、円大臣の行動は目弱王を皇位につけるためではなく、
雄略天皇を滅ぼすことで市辺之忍歯王(イチノベノオシハノミコ)の不安定な皇位を確立するため
であったのではないか、とします。
 その背景には、市辺之忍歯王ら葛城系の皇統をあくまでも支持しようとする葛城氏と、葛城氏の
権勢を排除しよういう、大伴、物部などの新興豪族との対立があった、と考察します。
 市辺之忍歯王は、履中天皇の皇子ですが、履中天皇が仁徳天皇と葛城石之日売命との間に生まれ
ており、その履中天皇と葛城黒比売との間に生まれたのが市辺之押歯王なのです。
 しかも市辺之忍歯王も葛城荑媛(はえひめ)を妻にしている、という葛城系の皇子で,
葛城氏にとってはプリンスの中のプリンス、反葛城氏の勢力にとっては邪魔な存在だったと言える
でしょう。

 以上、目弱王と葛城氏の関係について再考してみましたが、結果としては両者の間に血縁などの
関係を見つけることはできません。
 ならば、井上光貞が考察するような、政争における利害関係か、あるいは、目弱王の父大日下王と
日下部が関係しているのかもしれません。
 それでは今度はこれについて考察をしてみましょう。