小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

意味が分かっていてもマネッコ

2013年03月04日 01時58分49秒 | 日記
2010年5月25日(火)(2歳1か月)


 さて、今日も風呂で春奈の洗髪をしてやる。

 最後にお湯で髪をすすぐと、いつもは、

 「がんばったー」

と、言うのに、今日の春奈は、

 「えらかったなー」

と、言った。

 自画自賛って言うんだよ、そういうの。

 いつも、僕が、

 「がんばったなー、えらいなあ」

と、言っているからだろうけど。

 でも、春奈はどういうつもりで言ったの
だろう?

 もちろん春奈も「えらいなあ」の意味はわかっ
ているはずだ。

 だからと言って、自分で自分をほめているわ
けでもないと思う。

 自分がいつも言われている言葉をそのまま自分
も口に出しただけだろう。

 意味が分かっている言葉だったマネッコする
んだね。

108 吉野の水銀

2013年03月04日 01時54分23秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生108 ―


 『日本書紀』に見える、オオクニヌシの別名のひとつ大国玉神とは、
全国にある国玉神を集めてひとつの神格にしたものである、と言われ
たりもしますが、いずれにせよ奈良県天理市にある大和坐大国魂神社
(大倭神社、大和神社とも)の祭神がその代表的な存在でしょう。

 『日本書紀』の崇神六年の記事に、宮中にて天照大神と倭大国魂神
をともに祀っていましたが、神の勢いが強すぎたために災いが生じて
しまったため、天照大神を笠縫邑に遷した、とあります。
 笠縫邑は、JR橿原線の笠縫駅の周辺に比定されていますが、同時
にここは多神社のすぐ近くでもあるのです。
 オオモノヌシと倭大国魂神はそれぞれの伝承がリンクしています。

 『日本書紀』の記事によれば、アマテラスを笠縫邑に遷した後も世
の乱れが収まらず、オオモノヌシがモモソヒメに憑依して自分を祭祀
するよう要求をします。
 この時に、オオモノヌシを祭祀する者としてオオタタネコが招かれ、
倭大国魂神を祭祀する者として、倭氏の祖市磯長尾市(イチシノナガ
オチ)が招かれたことが記されています。

 『日本書紀』は異伝として垂仁天皇二十五年の項に、次のような記
事も載せています。

 誰に大倭大神を祀らせればよいか、渟名城稚姫命(ヌナキノワカヒ
メノミコト)が占った。その結果、神地を穴磯邑(あなし邑)に定め、
大市の長岡岬に祀った。
 しかしながら、ヌナキノワカヒメは病で体が弱っており祭祀をおこ
なうことができなかったため、大倭直の祖長尾市に命じて祀らせた。

 ここに見られる渟名城稚姫命(ヌナキノワカヒメノミコト)は、『日
本書紀』の「崇神紀」に登場する渟名城入姫命(ヌナキノイリヒメノミ
コト)のことですが、占いの結果、神地が穴磯邑になったというのはど
ういうことなのでしょうか。
 アナシと言えば、製鉄に携わる人々に関係した土地の名前です。
 穴磯邑は、三輪山の北、穴師坐兵主神社の鎮座する桜井市穴師に比定
されていますが(他にも候補地がいくつかあります)、大市も三輪山の
西にある桜井市芝の地に比定されます。

 そもそも倭大国魂神には穴師以外にも金属の要素があるのです。
 奈良県吉野郡に鎮座する丹生川上神社がそれです。
 ここは水銀が関係しています。

 『延喜式』に明神社として丹生川上神社の名が見られますが、蟻通神
社がこれに比定され、現在は丹生川上神社中社の名称となっています。
 中社とあるのは、吉野郡迫に丹生川上神社上社が、吉野郡長谷に丹生
川上神社下社があるからなのですが、その中で中社が本社とされています。
 
 『類聚三代格』には「大和国丹生雨師神社」と記されていますが、実
際、奈良・平安時代には祈雨神として奉幣使が派遣されていたといいます。
 
 この丹生川上神社は、実は大倭神社の別社なのです。
 そのことは、『類聚三代格』の中に、大和神社神主大和人成が、別社
丹生川上雨師神について解状を出したことが記されていますし、『大倭
神社註進状』の中にも、「別社丹生川上神社」と記されています。

 ここに2つの疑問点があります。
 まずは、奉幣使が派遣されるほどの明神大社が近年にはその所在さえ
わからなくなってしまったのはどうしてなのでしょうか。
 大和岩雄(『神社と古代民間祭祀』)は、これについては、吉野の国栖
(くず)たちが信仰する神ではなく、中央集権の祈雨神であったから、こ
の神社は中央権力が大和氏をとおして奉幣をおこなわなくなって衰退し、
神名も消えてしまった、と推測します。

 次に、大倭神社の別社がこの吉野郡にあるのはどういった理由なのか、
ということです。

 紀伊から大和に向けて出立した神武天皇の軍は、吉野でイヒカ(『古事
記』では井氷鹿、『日本書紀』では井光)という神に出会います。この神
は、光る井という名前が示すように、水銀の採坑を表わしていると考えら
れています。
 古代においては、水銀から丹を作っていました。この丹は赤の塗料とし
使用されていました。
 このイヒカが吉野の首の祖で、続いて現れた石押分之子(イシオシワク
ノコ)という神が吉野の国栖の祖であると、『古事記』、『日本書紀』と
もに記しています。
 この辺は水銀の採取地でもあったのです。

 『日本書紀』には、神武天皇が八十建(やそたける=日本書紀では八十
梟帥と表記)を攻略する際に、
 「天の香具山の社の土を取りて天の平瓫(あめのひらか)80枚を作り、
同時に厳瓫(いつくへ=神酒を入れる瓶)を神に供えよ。その上で厳呪詛
(いつのかしり=呪術のひとつ)を行えば敵はおのずから伏する」
と、いう神託を受け、オトウカシと、倭氏の祖シイネツヒコに香久山の土
を採りに行かせるエピソードが記されています。
 続いて神武天皇は、
 「吾今まさに八十平瓫を以て水無に飴(たがね)を造らん」
と、言って飴を造ります。
 水無は、通常は丹生川上神社の周辺を指すと解釈されています。
 飴(たがね)は、アメのことではなく、水銀と他の金属との合金と解釈
されています。
 この時に、神武天皇が造らせた飴を使用して占いを行ったのがシイネツ
ヒコなのです。

 『古事記』では、オオモノヌシが、ミシマノミゾクイの娘セヤタタラヒ
メのもとを訪れたのは時、丹塗り矢に姿を変えて来たと記します。
 なぜ、単に矢ではなく丹塗り矢なのか。
 これまでに見てきた、オオモノヌシと倭大国魂神の関連について考えて
みた時に、ここでもそれが見られるのです。


・・・つづく