ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

今宵の月 8

2011-01-20 22:35:18 | Weblog
今日が満月。
そうだよね。春節が2月3日。
その日が新月のはずだから、2週間前だと今日が満月だ。



なんとなく思ったのだけど、
満月は明るすぎるからか、なかなか肉眼で見るほど美しい月が撮れない。
下手だからだ、と言ったらそれまでなのだけど、
どうも「星」っぽすぎて・・・。まあ、星なんだけど。

1月17日の午前1時ごろに撮った「今宵の月 4」あたりが一番好きだな。

月は肉眼で見上げるのが一番風情があるし、
月光が、ぼんやりと照らしているさまを眺めるのが美しくていい。

でもきっと、これからも月を撮るとは思う。
欠けていく感じが、きっといいだろう。

以前、「インドへの道」という映画を見たときに、
ガンジス川に月光が反射しているシーンがあった。
あんな月光に、いつかめぐりあいたい。

今宵の月 7

2011-01-19 23:50:22 | Weblog
明るい月が、いまほぼ真南にいる。



いつもと月の角度というか、模様の回転具合が違うのは、
我が家のベランダから真上を見上げて撮っているために、姿勢を変えたから。

なんとなく李白の「静夜思」を思い出した。

 牀前看月光
 疑是地上霜
 挙頭望山月
 低頭思故郷

李白には、満月が似合うような気がする。

なんだか、もっと明るい月のほうが李白っぽいかな、と勝手に思って、
もう1つ。

国際結婚

2011-01-19 21:17:57 | Weblog
今日の帰り道、駅のホームにアメリカ人の男性と日本人の女性と、その2人の赤ちゃんがいた。
大人2人はベンチに座り、赤ちゃんはバギーに乗っていた。
男性は、いかにもアメリカ人というオーバーな語り口調で、
それをまるで無視するように、女性は赤ちゃんに何か食べ物をあげていた。
女性はひたすら無表情。
あんなクールな顔で食べ物を口に運ばれたら、
子どもはきっと食に対して淡白になるだろうな。

アメリカ人と付き合うと、なぜ日本の女性も愛想笑いをしなくなるのだろう。
もし、アメリカ人と別れて、日本人の男性と付き合うようになったら、
あの女性はまた、愛想笑いをするようになるのだろうか。
それになぜ、白人と付き合っている日本人女性の髪型は、
どことなくお菊ちゃん人形みたいなのだろうか。
いろいろと不思議だ。

そんなことを考えているうちに、
アメリカ人の大味な雰囲気はどんどんエスカレートしていく。
赤ちゃんの膝掛けをはずすとき、
ヒモがバギーに結んであることにも無頓着で、がんがん引っ張る。
抱っこするために靴を脱がすときも、すごい勢いでズボッと脱がす。
傍目で見ていても、まるで嵐のようだ。

確かに積極的に子育てに参加してくれているようなのだけど、
大柄なアメリカ人が手加減せず、ぐいぐい赤ちゃんに迫る姿を見ていて、
ああ、だからアメリカ人は厚くて大きい肉を食べるようになるのだな、
と、なぜか納得した。

それにしても、白人の赤ちゃん(今日はハーフの赤ちゃんだったけど)は、
なぜ、目の下にクマがあるのだろう。
私たちの蒙古斑みたいなものだろうか。
国際結婚は、楽しそうだけど、大変だろうな。

ふと、彼らの家の中を想像して、それがとても散らかっている図だったので、
私には耐えられそうにない、と思った。

さて、今日は満月っぽいな。

今宵の月 6

2011-01-18 23:26:11 | Weblog
今日は雲が多かった。

雲の影が黒く見える。


雲にきれいな輪ができていたんだけど、残念ながら撮れず。
ガスガス爆発みたいな写真になった。


少ししたら、スッキリした。


だんだん満月が近づいている。
なんとなく、満月まで続けてみようかと思う。

休憩

2011-01-18 21:43:06 | Weblog
最近、いいことがあると、その直後に必ず、別のことでなにか失敗をしでかしたことに気づく。
なんだよ、もう!
と思ったけど、どこかから「いいことがあるだけ、いいじゃん!」という声がきこえた。
そうだよね。トータルで見たら、いいんだ。きっと。

先日から気になっている近所のケーキ屋さんは、どうやらちゃんと開いている。
土曜日の午後に前を通ったら、
お店の中でコックさんみたいな白い格好をした若い女性が、
幸せそうな顔をしてケーキを作っていた。
そうそう。こうでなくっちゃ。
人に食べてもらうものは、幸せそうな顔をして作るものだ。

そんなお店の前で女性が3人、中を覗き込みながら、
いかに最近のコンビニのケーキは安くて美味しいか、という話をしていた。
そして最後には、「コンビニでいいじゃん」と落ち着いて、去って行った。
まあ、中に聞こえたとは思わないけどさ・・・、そんな店の真ん前でライバルの話をしなくても。
それにしても、ライバルがコンビニとは!
お店をやるというのは、難しいことだ。

さて、年始から北森鴻さんの本を3冊読んだ。
『凶笑面』『顔のない男』『虚栄の肖像』

どれも、なかなか面白かった。
特に『顔のない男』なんかは、少し前に映画になった「某X」よりも
ずっとずっとミステリとして完成度が高い、と思う。
でも、きっと映画化するほうからすると「華はXのほうがあるでしょう」となるんだろうなあ。

『凶笑面』は民俗学者、『虚栄の肖像』は絵画修復師が主人公だから、
こちらも私のツボだったけれど、
いまは蘊蓄よりもミステリを求めていたので、『顔のない男』が一番ハマった。

ある意味では地味だけど、とても面白い作家さんだ。
ちょうど亡くなって約1年なんだなあ。

さて、少しいい休憩時間をもったので、
明日からはまた、課題図書関係の本を読もう。

今宵の月 5

2011-01-17 23:50:36 | Weblog
別に月フェチではないのだが、1月17日23時50分の月。



月というと、私は「コヤ・ライミ」を想う。
南米に栄えたインカ帝国では、皇帝が太陽で、お妃さまが月だった。
毎年9月、お妃さまである月の祭り「コヤ・ライミ」が催されたという。

もちろん、見たことはない。
どんなお祭りなのかもよく知らない。

でも、インカ帝国のお話に興味を持っていた小学生のころ、
アンデスの高地から眺める月は、どれだけ近く見えるだろうか、と想像した。

太陽は、まぶしすぎて見ることができない。
でも月は、きっとやさしくよりそう存在だったのではないか。

むかし、臆せず想像の羽をのばしていたころのことを、ふと思い出した。

いろいろな女性たち

2011-01-17 21:44:02 | Weblog
今日の帰り、新宿駅でパン屋さんに向かって歩いていたら、
向かいから、お目当てのパン屋さんの紙袋を持ち、
むしゃむしゃとクロワッサンをかじりながら歩いてくるOL風の女性とすれ違った。

気持ちはわかる。
が、かろうじて家まで持ちこたえた。
それは単に、うがいしてから食べたかった、というだけで、
以前、モスバーガーのフライドポテトを、
最寄駅から家までの道で歩きながら食べ、
食べ終わってしまい、家に着いてからガッカリしたことがあるので、まあ親近感がある。

今朝、ホームで電車を待っていたら、
となりに来た若い女性が、いきなりヤンキー座りをした。
いまは、ヤンキー座りとは言わず、M字開脚と言うのだろうか。
それすら、死語か・・・。まあ、いいや。
彼女は短パンに破れ気味のタイツを履いていたんだけど、
向かいのホームの人には、少々朝から刺激が強いのではないかと思った。

「みっともないよ」というよりも、「不快だから去れ」と声をかけそうになり、
そのうち私も傷害事件を起こすんだろうなあ、と、漠然と感じた。

食べながら歩く女性はゆるせるのに、ホームにしゃがみこむ女性はゆるせないらしい。
そして、通勤電車の中でおにぎりを食べている女性は不快の部類に入る。
この基準は、いったいどこにあるのか。
自分がやるかやらないかに拠っているのだけど、
やるかやらないかは、どこで決まっているのだろう。
自分の気持ちが謎だ。

今日は、女性でまとめようと、いま思った。

昼休み、派遣社員さんたちの話題は、およそ「家族ネタ」に収まったようだ。
両親、ペット、たまに甥っ子姪っ子。
彼女たちは結婚をしておらず、そして40歳にもなると、
どうやら彼氏ネタはタブーのようで、主な話題は両親がメインになる。

きっと、中学校くらいからずっと繰り返されている話題。
女性同士が一緒にいることを目的としているとき、
そして、趣味などの共通の話題があまりないときに、主に選択される話題「家族」。
そもそも女性は、「家族ネタ」を話したい人たちだし。

結婚しようがしまいが、個人の自由だし、
実家にいるほうが生活は楽だし、親も老いて面倒を見たいだろうし、
まあ、いろいろと一緒に住む方がいいとは思うけれど、
40歳くらいの女性が数人集まって、
「うちの父がね」「母がね」と、毎日昼食のときに話しているのは、
なんとなく・・・、やはり参加しなくてよかったと思う図だ。

3人女性が集まって「かしましい」状態なので、
さっさと昼食を食べ終わって、場所をかえることにしている。

今日の夕陽

2011-01-16 23:02:27 | Weblog
なんとなく、阿弥陀如来を感じる夕陽だった。



西方に浄土があるかどうか、それを科学的に実証しようとしても意味がない。
古代エジプトでも、西は生命の行きつく先だった。

これは、きっと人間のもった生命がささやくことなのだろう。

私が好きな女性に、中国清朝の西太后がいる。
咸豊帝の正妻が東太后で、貴妃だった玉蘭は西太后となった。
西太后が愛した圓明園も頤和園も、北京の西のほうにあった。

清朝のおわりとともに語られる西太后。

西太后という人について、また想いがつのる。

言語の不思議な体験

2011-01-16 16:26:06 | Weblog
昨日は、何ヶ月かぶりに、中国語の会話に2時間半ほど参加したら、すっかりノドが疲れた。
昼間のうちに王菲のCDで発音のチューニングをした。
自然に中国語で考え、中国語で話すようになるまで2時間近くかかった。
少し意識して中国語と接するようにしなければ。

とはいえ、昨日、少し不思議な感覚を味わった。
行きの電車に、きれいな中国語を話す女性が2人乗っていた。
言葉づかいも話し方も、話し声のトーンも、とても上品な2人で、
聞いていて、とても心地よかった。

私は日本語の本を読んでいて、目では日本語の文章を追っているのだけれど、
耳ではずっと彼女たちの中国語の会話をとらえていて、
脳内では、普通に2つのストーリーが同居し、進行していた。

終点に着き、電車を降りたところで彼女たちとは離れ、
まわり全部が日本語になった。

そしたら、日本語が聞き取れなくなった。
そして、頭の中が一瞬にして混乱した。
久しぶりに、平衡感覚を失ったような、強烈な不安を味わった。

次の電車に乗り換えた。やはりまわりはすべて日本語。
でも、言語として入ってくることはなく、
外国に行ったときに、まわりの人の話し声が心地よい雑音となるような、
そんな感覚だった。
そして相変わらず、日本語の文章を、何の苦もなく読みつづけた。

待ち合わせ場所で中国語を話す人たちと落ち合い、
そこからは中国語の会話になった。
もちろん、あまりにも久しぶりなので、私は最初、中国語が出てこない。
でも、それは中国語として立ち止まる、ということであって、
日本語なら出てくるのだけど、ということではなかった。
あたかも私にとっての言語の選択肢は中国語しかなくて、
そのなかで言葉が見つからない、という感じ。
だから、日本語で言ってみて、と言われても、やはり話せない。
それまで、ずっと日本語の文章を読んでいたわけだし、
過去何ヶ月も日本で暮らし、日本語のなかで仕事をしていたのに、である。

ただしこれは、母語を外国語が超えうる、と言いたいのではない。
あくまでも思考のベースも限界も、私は日本語に負っている。

言語って何なんだろう。
脳のどの部分がどんなふうに反応しているんだろう。
そんな疑問がわいた。

脳は、私が意識しているよりもずっと、複雑で繊細な働きをしているのだろう。