(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 またまた『ベスト&ブライテスト』に関連して~ベトナム戦争に学ぶ(九分九厘)

2014-10-10 | 読書
ハルバースタムの著書『ベスト&ブライテスト』につき3回にわたってご紹介しましたところ、畏友九分九厘さまより、長文のコメントを頂きました。この夏に、gacco で共に「国際安全保障論」を学んだ仲間であります。貴重なご意見を開陳いただきましたので、ここに全文を紹介させていただきます。

    
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 ゆらぎさんの「ベスト&ブライテスト」を読ませてもらった。なかなかの健筆である。ヴェトナム戦争の教訓から、政治家を補佐する官僚のあり方についての論に興味をもって読ませてもらった。
 
 手許にポール・ジョンソン著『現代史』(上下巻/1917~1991年、共同通信社、1992)の大部作がある。内容はすっかり忘れているが、’90年台の半ばに読んだものだ。Paul Johnson はイギリスのジャーナリスト。歴史に関する著作で有名。イギリスの保守派を代表する知識人で、サッチャ-のスピーチライターを務めた。

 ゆらぎさんのベトナム問題を読んで、この本を引きずり出してきてベトナム関係の著述を再読してみた。以下はこの本による筋書きである。日本人の私が読むと、この著作の文脈に違和感が伴うものであるが、この本の発売時に賛否両論の意見が出たというのも当然と思われる。この本を本欄で引用した理由は、ハルバースターの見たヴェトナム問題とジョンソンの見たヴェトナム問題の切り口が少し違うという点である。ジョンソンは最高司令官のアメリカ大統領の意思決定が如何に頼りなかったかということを暴露している。周りには補佐官がいたはずであるが、補佐官の言ううがままに動いていたのか、大統領自身の意思決定だったのかははっきりしない。ルーズベルトは6人の補佐官を抱えていたが、ケネディーは最初は23人の補佐官を有し、次第にその数を増やした。ホワイトハウスの要員は時代を追うごとに増えたことを書いている。大統領制のもとでは、最終の意思決定は大統領の責任のもとで行われるわけだが、本著によると意外に頼りないことがわかってくる。「戦争は政治の失敗で起こる」という格言が、こうした過去の戦争の経過を知ることによって改めて認識される。

 著者は、ケネディー・ジョンソン両大統領を優柔不断な、半ば無能な指導者として一刀両断している。しかし、軍人で戦略家のアイゼンハワーは、慎重居士であって核兵器と通常兵器の両方に目を配り、当時ソ連に先行されていた人工衛星などには気にもかけなかった現実家として評価している。ただ、ヴェトナムに関する混乱の一番の責任のあるアメリカ人はこのアイゼンハワーであるとする。1954年ディエンビエンフー陥落時にフランスが提唱したジュネーブ調停の調印を拒否し、自由選挙をゴ・ジン・ジェムが拒否したことを黙認した、アメリカ大統領の決断がその後のベトナム戦争をアメリカが肩代わりをする結果となり、フランスは政治的に撤退に成功する。当時、アチソン、ケナンも介入に消極的であったにも拘らず、東南アジアでの共産勢力進展を恐れ、アイゼンハワーは迷った上でのこの判断を行ったとする。
   
 1961年、高齢のアイゼンハワーに変わった若きケネディは、既にヴェトナム問題を抱え込んでいたことになる。ケネディの優柔不断の政治的無能は、キューバへのCIAクーデター作戦の失敗に始まり、結果的にはフルシチョフにしてやられたミサイル問題(この問題の帰着は、キューバに堂々とソ連と軍事同盟を結んだ共産主義政権を存続させたことにあって、安全保障という具体的問題に関しては、ケネディーはミサイル危機で敗北を喫した)にみられたが、さらに宇宙計画とヴェトナム問題に進展する。(宇宙計画に関しは省略するが)ヴェトナムに関しては、その関与がアメリカの威信と技術的リーダーシップを再び取り戻すためにも、恰好な場所であるとNSC(国家安全保障会議)が入れ知恵をしたとする。既に、アメリカにとってヴェトナムは世界のどこよりも大規模で金のかかる、共産主義を叩き勝利を収め面目を保つための大きな仕事になっていた。ド・ゴールはケネディにヴェトナムから手を引くように勧告するが無駄であった。ケネディの就任時1961年にはベトコンは事実上南に侵攻していた。ホーチミンはラオス・カンボジアを含めたインドシナ全土の支配を決断してその勢力を潜ませていたわけだが、アメリカは決定的にならない中途半端な軍事援助を南のゴ・ジン・ジェムに与え続け泥沼に入っていく。1963年アメリカCIAはクーデターを企てゴ・ジン・ジェムは殺され、新たな軍事政権を援助することになるが、このことがアメリカの第二の大罪である。その後すぐに、ケネディ自身が暗殺され、ジョンソンが副大統領から昇格する。

 1964年トンキン湾でアメリカの駆逐艦が攻撃され、議会は大統領に「トンキン湾決議」と称する、大統領が承認抜きで戦争をする権利を与える。ションソンは選挙に圧倒勝利を得た後すぐに1965年北爆に踏み切る。これがアメリカの第三の致命的な誤りである。戦争を始めた以上、早々に北を占領すべき事であったにも拘らず、ようやくにしての空爆であり、その後12万5千人の兵士をダナンに上陸させることになる。その時、ホイラー参謀長は勝つためには、70万から100万の兵力と7年間を要すると大統領に上申していたという。優柔不断のジョンソンは毎週火曜日に標的と爆撃量を決定し、戦争はジョンソンの道徳的抑制という政治的理由により、最初から最後まで制限されることになる。メディアの論調も好戦的なものから反戦に次第に変わり、1966年に「タイムズ」翌年「ポスト」やTVが反戦に転じ、偏向報道とも思われるものまで出現することになる。特に「テト攻勢」がヴェトコンにとって決定意的に優勢であったとする報道は、アメリカの指導者たちに世論に対抗できない弱気を起こさせた。国防長官クリフォードやアチソンも戦争反対に傾き、上院の戦争強行派も兵力増強に反対し始めた。1968年にヴェトナムの司令部が20万6千人の追加派遣に対し財務長官は財政理由を盾にとって反対をする。世界で一番豊かな国が財源の壁に突き当たったのである。防衛費に加え福祉に多くの予算を使ったジョンソン時代の政府の出費は、対GNP33.4%まで膨れ上がっていた。加えて、この時期には黒人人権問題が頂点に達し、暴動が起こる内政問題を抱え込む。

 1969年に大統領になったニクソンは巧妙に戦争を縮小しながら、北ヴェトナムと和平交渉を画策する。 その背景には当時の中ソ対立を利用して中国と対話を始めることであった。新しい中国対策と縮小戦略への転換がハノイとの和平を可能とした。ヴェトナム駐留米軍は4年間で55万人から2万4千人に削減され、出費も250億ドルから30億ドルまで減少する。1973年に「北ヴェトナムにおける戦争終結と和平回復のための協定」が調印されることになる。ただ、ニクソンはハノイが協定破りをした場合は制裁攻撃をする権利を留保していた。ここまでのニクソンの政治処理は評価できるものであったが、この頃既に「ウォーターゲート事件」に彼は巻き込まれていた。

 大統領が電話盗聴などの汚い手段を使うのはルーズベルト時代まで遡る。ケネディ時代のホワイトハウス職員は1664人であったが、ニクソンのもとでは5395人となり費用は7100万ドルまでに膨れ上がる。増加分の殆どが国家安全保障担当補佐官キッシンジャーの仕業であり、そもそも電話盗聴作戦を拡大した張本人はキッシンジャーであった。世論は魔女狩り裁判の典型の様相に変わり、民主党が過半数を占める議会調査委員会が大統領に公然と正面攻撃を仕掛けることを容認するまでに至った。弾効による長期政治不全を恐れたヒクソンは1974年に辞任することになる。このニクソンの失墜は権力のバランスを一挙に立法府に傾ける好機となり、以降大統領の権限がかつてないほどに制限され、軍事を含む外交政策に対し議会の承認が必要となった。上院・下院に多くの委員会を作り大統領の権限の監査監督を行う用になり、その専門職員の数が3000人以上となった。ニクソンのヴェトナム撤退作戦は、あくまでアメリカの抑止力を北に誇示し、アメリカの標榜する自由主義の保持にあった。しかし、「ウォーターゲート事件」は大統領の権威の失墜を招き、南に対する援助の全面的削減を打ち出したため、北ヴェトナムは曖昧な「戦争終結と和平回復のための協定」を破棄することに踏み切る絶好の機会を得ることになった。1973年の暮には北は全面的な侵略を開始する。1975年はじめには中部地域を占領配下に収め、4月にサイゴンを陥落することになる。この間フォード大統領は議会との軋轢の中で身動きが取れない状況にあった。

 以上が、P・ジョンソンのアメリカのヴェトナム戦争に関する概要であるが、大統領の意思決定が如何なる経過を辿ったかの一面がわかる。gacco「國際安全保障論」で学んだ戦争の原因なるものが実例で教えられたといえる。
                                       以上




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