(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書『われ巣鴨に出頭せず』ー近衛文麿と天皇

2007-02-15 | 時評
『われ巣鴨に出頭せず』(工藤美代子著 日経新聞社 2006年7月)

 終戦の年昭和20年の12月、近衛公(侯爵)はマッカーサー総司令部への出頭の前夜、杉並の自宅で自死した。大戦中、三次にわたって首相をつとめ、天皇への補弼の役割を果たしてきた近衛公は、その死後批判と非難に曝された。
これまで「『香淳皇后」や「黄昏の詩人堀口大学」「野の人会津八一」などノンフィクションに精力的に取り組んできた工藤美代子が、ロンドンのナショナル・アーカイブスなどの外交資料もふくめ綿密な調査にもとづいて、その生涯から死の真相に至るまでを追った。ここで語られていることは、もう50年以上も前のことである。しかしそこには、極めて重要かつ衝撃的な内容が含まれており、今日の私たちにとっても知るべきことと思うので、少し詳しくご報告することにした。なおこの本を手にしたのは、万巻の書を蔵する読書家のM氏の推薦のお陰である。でなければ、この本との出会いはなかったであろう。

430ページに至る大冊だが、一気に通読した。これまであまり知られてこなかった近衛公の実相に迫り、きわめて興味深い本である。なかんずく、終戦直後の、マッカーサー総司令部の近衛に対する態度の急変と、その因となったノーマン・都留重人の動きをを追った項は、迫力がある。E・H.ノーマンは、カナダの外交官で、マッカーシズムの犠牲となった悲劇の人としての見方がある。中野利子の『外交官E・H・ノーマン』は、ノーマンの人となりをドラマティックに描いて感動すら覚える。しかし、ここで描かれた総司令部の情報部の一員として動いたノーマンの姿と、『巣鴨にわれ出頭せず』で述べられた姿は、相当に異なる。

 工藤美代子の本は、『黄昏の詩人堀口大学』にもみられるように、淡々と事実を追求してゆくので、文学的な面白みに欠ける。一方、中野利子の著は、『父中野好夫のこと』で日本エッセイストクラブ賞をとっただけあって感動を誘う描写が巧みである。しかし、事実の背景を追求するのは、文学的な興味や表現の巧みさではない。今回両方の本を読み比べてみて、どうも工藤美代子の探り当てた事が事実であるように思える。


本題に入る前に近衛公とは、いかなる人物か見てみよう。古くは、藤原鎌足に端を発し、島津久光の流れをひいた名門の公家で、曾祖父は幕末の頃孝明天皇を補佐する立場にあった。維新後も天皇家から厚遇をうけた。また新政府の下では、華族の筆頭として侯爵に序せられた。そういう背景のもとで、近衛は、大正6年大学を卒業し、内務省にはいる。すぐ第一次大戦終了時に、近衛は、『英米本位の平和主義を排す』という論文を発表し、「その平和主義とは自己に都合良き現状維持、平和」と鋭く喝破した。
明治18年にパリで講和会議が行われ、近衛は、西園寺公に随行した。帰国後に記した『欧米見聞録』では、日本が提出した人種差別撤廃が否決されたこともあり、”力の支配という原則の露骨な表現と・・”と批判的な目でみている。帰途、アメリカに立ち寄り、そのエネルギーの噴出に圧倒されている。帰国後は、貴族院議員として活動。

昭和3年年、満州で張作霖の列車爆破事件が、発生。その後満州事変などにつながってゆく。この事件で、著書は、国際共産主義の諜報活動が、その後の昭和日本を翻弄した、と指摘している。。この裏には、スターリンの画策があり共産スパイが動いていたと、最近明らかにされた。(『ワイルド・スワン』の著者、ユン・チアンの書いた『マオ』 2005年末刊 講談社) 戦火拡大を狙うコミンテルンの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動の謀略の可能性を、作者は示している。なおこのとき近衛は、満州事変そのものを自存自衛のためだと、評価している。

昭和6年満州事変。軍の過激派によるテロが計画されるも未遂に終わる。昭和8年には、貴族院議長。昭和11年に、2.26事件が発生。このとき、30歳だった昭和天皇は、誰の補佐をうけることなく、一人で軍の反乱の鎮圧を指示、反乱軍の容認の声に断固反対した。

その後近衛は、45歳で組閣の大命をうけ、第一次近衛内閣となる。このころは、皇国史観に平泉澄と近い。この頃から陸軍が、陸相は出せないなどと、組閣に反対する動きが出ている。昭和12年、廬溝橋事件が発生。何物かの発砲、天皇の指示で、外交交渉での解決を目指すも、上海事変に至る。これも、瞬く間に華北を占領した日本軍に脅威をかんじたスターリンが、日本軍の南下を狙って画策したとの見方が有力である。近衛は、不拡大の方針であった。しかし、軍は、強権を振りかざし、戦火拡大は、むしろ外国のせいにした。陸相になった東城英機は、「今より、北方に対しては、ソ連、南方に対しては英米ソと戦争しなければならぬ」と発言していた。近衛は、辞職。

 注)もうすでに、論理的な成算なしに戦争を叫ぶ陸軍の姿があった。また国際的な情報収集やそれのもとずく諜略などは、その思想すらない。 こんな状態で、よく戦争を始めたものだと、思う

 その後も軍主導で事態はどんどん進む。昭和14年、ノモンハンでソ連軍と衝突。日本 軍は壊滅的な打撃を受けた。昭和15年第二次近衛内閣。このときの外相松岡が、功 名心にはやり、軍を使って走った。また組閣に際して近衛は、脇の甘さをみせ、それに食いついたのが、後にスパイで逮捕される尾崎秀実である。基本国策として、南方への 武力行使が決定され、仏印に進駐。英米が、これに反発して鉄などの禁輸に踏み切っ た。その後、いわゆる三国同盟などに進んでゆくが、天皇は、日本がドイツの戦争に巻き込まれることに反対、また「アメリカが石油など禁輸する、それで日本はやっていけるのか」など心配していた。

  注)この頃までは、天皇のところに情報も入り、合理的な判断を下していたようだ。

昭和16年、近衛は、アメリカとの交渉に精魂を傾ける。日ソ中立条約などで独走した松岡外相を辞めさせるべく、近衛は辞職。その上で第三次近衛内閣となる。そののち陸軍の横暴に近衛は辞職。

  ”首相の意見が通らぬ国だ”

   注)統帥権を手中にした陸軍は横暴を極めたが、理解しがたいのは、統帥権の大本たる天皇は、どうしてそれを見過ごしたのか。

10月には、ゾルゲ・尾崎秀実(ほつみ)検挙された。尾崎は、第一次近衛内閣の嘱託。彼の昭和研究会を通じ、日本の情報はすべてクレムリンに流れていた。
昭和16年10月、東条英機に組閣の命がくだる。このとき昭和天皇は40歳、近衛50歳、木戸52歳、東条57歳。この4人が関わり合って、時局は動いてゆく。とくに東条が、独走して戦争を引っ張り、敗戦にいたるのだが、この間の近衛に『関する特徴的な動きだけを拾い出してみる。

昭和16年10月、アメリカ政府から、いわゆるハルノートがきた。戦後東京裁判にかかわったパル判事は、これならば「モナコでもルクセンブルグ大公国でさえも合衆国に対して矛をとって立ち上がったであろう」といわしめた文書である。驚くべきは、このハルノートを作成した元財務相特別補佐官のH・D・ホワイトは、実は、戦時中からソ連KGBのスパイであったことが、後にアメリカ上院の査問委員会で明らかにされた。ホワイトハウスの深部に潜入したホワイトが、日本を挑発させるような文案を用意して国務長官にわたしたことになる。

昭和17年ミッドウエー会戦、ガダルカナル撤退などにより、時局は大きな転換期を迎えた。昭和18年ころから、和平の道をさぐるべく吉田茂などが『動き出すが、木戸が反対。このころから天皇には、情報が入っていない。近衛は、このように言う。

 ”政府は正確な事を伝えない。木戸内府が、事実をなにも天皇に知らせない”

  注)このような状況下で、何故天皇は東条を信頼していたのであろう。

・・・(つづく)
 


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