(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

音楽 最近聴いた音楽~チェロの調べ

2019-02-24 | 音楽
音楽 最近聴いた音楽~チェロの調べ

 『私のレコードライブラリー』(共同通信社 1975年)という本がある。作家は、志鳥栄八郎。”音楽の楽しさを一人でも多くの人にわかってもらえるために書いた”と語っている。古今のクラシック音楽を取り上げ、それぞれの名曲の解説と推薦盤(当時は、LPレコード)が紹介されたもので、当時の私にとっては音楽の道標のようなものであった。上中下の三巻本であるが、その中にチェロの名曲として取り上げられているものは、わずかに4曲。サン=サーンスのチェロ協奏曲、ハイドンのチェロ協奏曲、ボッケリーニのチェロ協奏曲とベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番イ長調である。チェロが独奏楽器として活躍するようになったのは比較的遅い時期なので、わずかに4曲というのもうなずける。


(ハイドンのチェロ協奏曲)

 このうちの一曲、ハイドンのチェロ協奏曲を作曲したハイドンは、ボッケリーニと同じ世代で、バッハよりも後の時代の人である。したがってバッハの影響もなんらかの形で受けていたかも知れない。私がチェロの曲を好きなことを知った畏友K氏は、最近そのCD(ハイドンチェロ協奏曲第1番、第2番)を焼いて、わざわざ送ってきてくれた。それを手にして、すぐオーディオ装置にかけて聴いてみて、びっくりした。有名な無伴奏チェロ組曲を作曲したバッハよりも後の時代の人でもあるにもかかわらず、聞き慣れたバッハの曲とはまったく違った音色の演奏であった。チェロの弾き手は、鈴木秀美というチェリスト。彼の名前も聞いたこともなかった。モーリス。シャンドロンがチェロを弾き、カザルスがコンセール・ラムルーを指揮した演奏や、フルニエがラファエル・クーベリックフィルハーモニーと共演したディスクは聞き慣れたものであったが、この鈴木秀美のものはまるでバロック音楽かあるいは古楽器の響きかと感じたのである



 (ハイドン チェロ協奏曲第2番 フルニエ)


 それでどういうことなのだろうと、チェロのわが師匠に疑問を投げかけてみた。そしてその様子をK氏にメールで送った。

 ”彼女は、すぐハイドンの協奏曲の1番と2番とを弾いてくれました。それも、古楽器を弾くやりかたと、現代的なやりかたとで。それぞれ違うのですね頂いたディスクの演奏は古楽器を弾くようなやり方かと思いました。まず、弓の持ち方が違います。軽く持っています。また、音の出し方もやや弱音です。それから、ひょっとして・・と云っていましたが、チェロにエンドピンをつけていないのではないかとも。つけていないと、音は柔らかく甘めになります。”

K氏からは、次のような返事が返ってきた。

 ”CDについていた鈴木秀美の解釈文によると・・・「この演奏でのソロの部分では弦楽五重奏のような響きとなり、親密に室内楽的に語りかけるものとなった。解釈の仕方はいろいろあるが、全般的にハイドンのコンチェルトは譜面上のスラー指示がとても少なく、奏者は多くの箇所で細かいボウイングで微妙な表現を強いられる。例えば、二長調の第1楽章に現れる技巧的なパッセージの数々、走り抜ける感のあるハ長調の最終楽章などはにはスラーが殆ど無い。ゆったりとした両緩徐楽章にすら、小節線はおろか拍をこえるスラーさえ一度も与えられていない。楽譜から見えてくるのは、豪快なひきぶりや連綿として続く曲ではなく、軽やかな語り口の親しい会話と透明な響きである。ハイドンに関しては、一般的に私たちが「チェロ協奏曲」に対してもっている後期ロマン派的なイメージとはかなり違ったものと言わざるを得ない」”


     


 要は弾き方が違うのである。多分、楽器も違うのだろう。あとでわかったのだが、鈴木秀美という人は一般的なチェリストから転じてバロックチェリストとして活躍している。バロックチェロの巨匠であるアンナー・ビルスマに師事している。(私の好きなチェリストの一人) それから、エンドピンの問題であるが、鈴木さんの演奏風景をチェックしてみると楽器を膝の間に挟んで演奏している。エンドピンは使っていない。チェロにエンドピンを使うようになったのは少し後の時代であるようだ。ちなみに私の師匠はチタンのエンドピンを使っている。チタンは軽量であるが、純チタンではやわらかすぎるので合金製と云っていた。おそらくTi-6Al-4Vであろう。(チタン ロクアルミ ヨンバナ)さらに、これもごく最近分かったことであるが、古楽器(鈴木さんの使用しているような)では、ガットに羊腸を使っている。最近のチェロでは金属を巻いた弦である。音の違いに影響することは必至だ。


 いやいやすっかり専門的な話になってしまった。一般の方には面白くないのかも知れない。しかし、音楽の演奏家たちが曲の演奏の仕方だけでなく、楽器そのものを替え、弾き方を工夫し、場合によってはエンドピンの有無まで考えて、音楽を聴いている人たちの心に響くように工夫を凝らして演奏していることには、改めてプロ意識の凄さのようなものを感じた次第である。


     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


(世界一音響効果が美しいサントリーホールでのコンサート)

          


 東京は赤坂アークヒルズにあるサントリーホールは、「音の宝石箱」と呼ばれるくらいで、世界一音響効果が美しいとされ、音楽愛好家などから高い評価を受けている。そのホールで、たまたまチェロのコンサートがあると聞いて、いそいそと出かけた次第である。

 チェリスト辻本玲、ピアニスト外山啓介の共演である。オケは東京フィルハーモニー(指揮、円光寺雅彦であった。

     

 
 辻本玲は若手ナンバーワンのチェリスト。エルガーのチェロ協奏曲ホ短調では、彼の弾き方はややおとなしく聞こえた。この曲は、なんといってもジャクリーヌ・デュプレのダイナミックな名演奏が耳に残っているせいか、余計にそう聞こえたのかも知れない。しかし、音色は甘くつややかであった。第一部のアンコールで彼が弾いたパブロ・カザルスの「鳥の歌」では、その実力が遺憾なく発揮され、実に美しい音色の調べが流れた。ちなみに1961年11月13日、この日カザルスはケネディ大統領に招かれホワイトハウスで「鳥の歌」をふくむ歴史的な名演奏を行っている。

「鳥の歌」の演奏 (パブロ・カザルス 1961年11月13日 ホワイトハウスにて)


 プログラムの第2部では外山啓介によるショパンのピアノ協奏曲第1番ホ短調の演奏があった。それも終わり、アンコール曲(ショパンのノクターン)も終わって、オケの団員たちと引き上げたその後。なぜか辻本と外山の二人が再登場してきた。二人は、東京芸術大学の同期生で仲がいいのである。吉本喜劇ばりのトークショーが繰り広げられた。そして本当に最後のアンコール曲として演奏されたのは、ショパンのチェロ・ソナタ第3番の第3楽章のラルゴであった。初めて聴いたが、実に美しい調べである。これを聞くことができたのは幸運としかいいようのない出会いであった。

   ショパンのチェロ・ソナタ3番 ラルゴ(ヤーノシュ・シュタルケルの演奏) (14分12秒から)
   ショパンのチェロ・ソナタ第3番 ラルゴ(ロストロポーヴィッチとマルタ・アルゲリッチの演奏) (20分15秒から)


外山啓介のピアノがチェロに寄り添うがごとく、そしてピアノが主旋律を奏でるときはチェロは音をやや抑え、まことに息の合った演奏であった。残念ながら、その演奏をこの記事の中でお聴きいただくことはできない。代わりにヤーノシュ・シュタルケルが弾いた演奏を動画でごらんください。。第三楽章のラルゴは、はじめから14分12秒辺りから始まる



この曲の演奏については、いくつか聴き比べてみました。CDで聴いたのはムスチスラフ・ロストロポーヴィッチとマルタ・アルゲリッチの演奏。またアマゾンMusicでは、平野玲音のチェロとぺーター・バルツアー(ピアノ)の演奏も見つけることができましたので聴いてみました。どちらも素敵な演奏でした。 注)アマゾンミュージックについて。アマゾンプライム会員ですと、無料で100万曲、無制限に聞くことができます。スマホでは、AppleStoreからアプリをダウンロードできます。そのうえで曲を検索したら、平野玲音の演奏が出てきました。平野玲音は、東京大学卒業後、ウイーンを拠点に活躍している知性派チェリスト。


 しかし、あの夜のサントリーホールでの辻本玲と外山啓介の演奏は、思い返しても見事なものであった。二人の音が溶け合っていた。そして、二人の協奏にとどまらず、あのホールでの臨場感を感じさせる音響効果が素晴らしいと感じた。たいていのオーディオ装置でこのショパンの曲を聴いても、ハイレゾウオークマンで聴いても、そしてもちろんiPhoneの最新型で聴いても、ひとつ物足りないものがあるとすれば、それは臨場感だ。やはり、ナマの音楽はいい!

 というわけで、サントリーホールの音響について少し調べてみた。サントリーホールのウエブサイトでは、ホールの特性をついて次のように紹介している。

 ”「サントリーホールの設計にあたっては「世界一美しい響き」を基本コンセプトに掲げ、第一線で活躍する指揮者や演奏家はもとより音楽を愛する各界の人々の意見が幅広く取りいれられました。大ホールは、日本では初のヴィンヤード(ぶどう畑)形式。全2006席がぶどうの段々畑状にステージ(太陽)を向いているため、音楽の響きは太陽の光のようにすべての席に降り注ぎます。音響的にも視覚的にも演奏者と聴衆が一体となって互いに臨場感あふれる音楽体験を共有することができる形式です。側壁を三角錐とし、天井は内側に湾曲させ、客席のすみずみに理想的な反射音を伝える構造です。客席はブロック分けされていますが、その側壁も反射壁として有効に活用されています。壁面の内装材にはウイスキーの貯蔵樽に使われるホワイトオーク材を、そして、床や客席の椅子背板にはオーク(楢)材をと、ふんだんに木を使用し、暖かみのある響きを実現。音響的な効果とともに、視覚的にも落ち着いた雰囲気を醸し出しています。」”

 では、このホールのどこの席で聞くのがよいのかということになるが、世の中には、好事家(こうずか)がおられる。”ぶらあぼ”(ブラボーから由来しているようです)というニックネームの音楽好きの方が、そのホールの音響特性をホールのブロック毎に詳しく検討されている。この場合の音響特性というのは、直接音と残響音の比率、音量、またそれぞれの楽器の音の分離などの観点からみた特性のことを指している。

 ”音の特性として、もう一つ注意しておきたいことがある。先ほどの例のように、ステージ上のピアノから出た音は同心半球状に拡がって行く(実際にはピアノの反響板が働くので楽器の正面方向に指向性があるが)。ひとつの方向として捉えるなら、音は直進する。ホールの各席からピアノが見えるなら、直接音は届くことになる。一方、残響音を含む音の集合体は、あらゆる方向から来る音波の混ざったものなので、空間を満たすように拡がる。従って、広い空間なら多くの音で満たされるが、狭い空間には音が物理的に少なくなる。サントリーホールでは、2階の奥の方に行くに従って座席のある床が高くなっていくため天井に近くなり、空間が狭められていく。また2階のLC・RCブロックがバルコニー状にせり出している下の1階席の辺りは天井がかなり低くなっている。”

そして

 ”【6】希望の席を確保するために/私が席を選ぶ理由
 このように、サントリーホールの音響の特性について見てきたわけだが、これで多少は席選びの参考になっただろうか。音楽を聴く上で、良い「音」であることが望まれるのは当然のことではあるが、この「良い音」というのもかなり主観的なもののようである。別の言い方をするなら「好みの音」が人によって違うということだ。残響音が長い方が「良い」という人もいれば、長い残響は音を「濁らせる」と言う人もいる。ステージからある程度離れて色々な楽器の音が程良くミックスされている方が良いという人もいれば、私のようにできるだけ近くでナマの音で聴きたがる人もいる。だからこそ、席の位置によって変わる音響特性を把握して、自分の好みの席を探すことになるのだ。最後に、席選びのポイントをまとめておこう(ただしあくまで個人的な見解)。

①音楽は「どの席で聴いても同じ」ではない
 そのコンサートを「聴く」か「聴かない」という選択肢で判断すること、つまり「聴く」のならどこの席でもたいして変わらないという感覚でいては、聴いた音楽の正しい評価はしにくいと思う。クラシック音楽の場合は、そしてサントリーホールの場合はとくに、どの席で聴くかによって、音楽そのものがまったく違った評価をされるほど聞こえ方が変わるのである。もちろん人それぞれの事情があるので、どこの席で聴いても差し支えはないのだが、ある程度はきちんと聞こえる席で聞かなければ正しい評価はできないと思う。

②録音された音楽との比較
 初心者が必ず陥る落とし穴がある。それはコンサートの演奏と録音された音源とを比較してしまうことだ。とくにオーケストラ音楽の場合、レコード・CDや放送用の録音はマルチ・チャンネルをミキシング編集している(ナマ放送であっても)。つまり音源を面で捉えているものを理想のバランスに近づけてステレオ2チャンネルに変換しているのだ。逆の言い方をすれば、これはこの世には存在しない聞こえ方をしているということである。コンサートホールでは、音源が「面」で、響いているのはホール全体の「空間」で、聴いている人は「点」である。私たちがコンサートを聴くということは、ホールのその「点」で「音」を聴くということであって、別の人は別の「点」で聞こえ方の違う「音」を聴いている。それに対して録音は、皆が同じ「音」を聴くということなのである。従って多くの場合、実際のコンサートの方が録音よりもバランスが悪く聞こえるのである。それなのに、録音ばかりを聴いて来た経験の持ち主が、ナマの演奏を聴いて「オーボエの音が小さい」だとか「ティンパニがうるさい」などと知ったかぶって論評するのはナンセンスである。”
 音にはうるさい私であるが、この”ぶらあぼ”さんの言われることには、いちいち同感する。

 もちろんS席がよいのであるが、その中でも位置によって違いがあると云っている。幸い、その夜は同行した友人が確保してくれた席はS席。2階のCブロックの最前列(2列目)の中央。ステージからは、少し遠いがチェロの最弱音がよく響いていて素晴らしい演奏を堪能することができ、音響特性からしても至福の一夜となった。


     ~終わり~





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2 コメント

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楽しく読ませていただきました  (九分九厘)
2019-02-28 11:01:03
 ハイドンのセロ協奏曲のやり取りは楽しいものでした。これはさておき、音楽ホールの音の響きについての考察の鋭さに驚きました。ブログで強調されている「レコード・CDや放送用の録音はマルチ・チャンネルをミキシング編集している(ナマ放送であっても)。つまり音源を面で捉えているものを理想のバランスに近づけてステレオ2チャンネルに変換しているのだ。逆の言い方をすれば、これはこの世には存在しない聞こえ方をしているということである」については全く異論はありません。しかし、この論議についての反論をこのコメント欄で取り上げたいと思います。
 音楽を鑑賞する「場」という問題になりますが、私はあまり確かでありませんが、平均して年に10回ほどナマの演奏会には出かけています。しかし音楽を聞く楽しい時間は圧倒的に自宅でオーディオを聞く時間のほうが多いです。まさにこの世に存在しない聞こえ方を楽しんでいるわけです。貴兄の言われる、ヴァーチャルな世界を楽しんでいることになります。これには異論はないのですが、考えてみると20世紀の終わり頃から、ヴァーチャルの世界をこの世の現実として、おのれのの世界に取り入れて生活することが当たり前な、すなわちリアルな日常的世界と信じ込む「場」が増えてきました。若い人はイアホーンとスマホで音楽を聞くほうがリアルな方法と考える事になっています。高い入場料を払って演奏会に行くほうが非日常的になっています。
 CDのデジタル録音の普及はやはり音楽を鑑賞する「場」に大きな革新を起こしたものと思います。クラシックでCDを広げたのはカラヤンの功績です。録音に堪能なミキシングエンジニアが現れ、ベルリン・フィルと著名なエンジニアの名を記載したCDを買うのが良いとされました。CD音源を再生する高価な装置が次々と市場に現れました。1970年台の後半ころのことで、クラシック音楽の演奏会も日本では数少なく、私みたいなオーディオ・メカマニアが出現します。目的は自分の家の一角を響きの良い音楽ホールに変えてしまうことにありました。そのために長い月日をかけ貯めたお金で装置を増やし続け自己満足をしていくことになります。本物のホールで聴く音楽と自分が作り出した音場で聞く音楽との価値比較をする哲学論評が、マニア雑誌ではいつも掲載されていたものです。吹き抜けのある私の家は会社の音響研究室の室長が私の大学後輩であったこともあり、測定器でステレオ音響の三次元シミュレーションをしてもらい、その結果天井の板に小さな無数の穴を明けて吸音できるようにしました。加えてエコライザーを購入して音源の各周波数ごとの音圧を手動で調整するまでになりました。病膏肓の
類と言えます。周波数によって違う音源の指向性を考え、エコライザーで調整してCD再生の全周波数の音源を人間の聴覚でコントロールできる場所は部屋の中のある一点の場所のみとなります。この場所に座って、カラヤンを聴いてもカラヤンを超える独特の音場を得ることになります。私が指揮者になるという至福の時間を得ることになります。全くの自己満足です。
 ということで、私の場合は、音楽ホールの「場」で聴くときと、私の家の「場」で聴くときの両者は比較する対象ではなく、別物とは言いませんが
ヴァーチャルかリアルの区別はありません。両者ともに空気中を伝わってくる音の振動を聴いていることに変わりはありません。
 と言いながらも、またそぞろNYのMETに行きたくなっています。次は3回目になりますが、あのオペラの現場の臨場感はやはり劇場に行かないと味わえません。METが演奏会直後に世界に配信する映画に朝早くから度々行きましたが、そろそろ飽いてきました。 長々と書きました・・これにて失礼!
 ハイドンのセロ協奏曲のやり取りは楽しいものでした。これはさておき、
音楽ホールの音の響きについての考察の鋭さに驚きました。ブログで強調されている「レコード・CDや放送用の録音はマルチ・チャンネルをミキシング編集している(ナマ放送であっても)。つまり音源を面で捉えているものを理想のバランスに近づけてステレオ2チャンネルに変換しているのだ。逆の言い方をすれば、これはこの世には存在しない聞こえ方をしているということである」については全く異論はありません。しかし、この論議についての反論をこのコメント欄で取り上げたいと思います。
 音楽を鑑賞する「場」という問題になりますが、私はあまり確かでありませんが、平均して年に10回ほどナマの演奏会には出かけています。しかし音楽を聞く楽しい時間は圧倒的に自宅でオーディオを聞く時間のほうが多いです。まさにこの世に存在しない聞こえ方を楽しんでいるわけです。貴兄の言われる、ヴァーチャルな世界を楽しんでいることになります。これには異論はないのですが、考えてみると20世紀の終わり頃から、ヴァーチャルの世界をこの世の現実として、おのれのの世界に取り入れて生活することが当たり前な、すなわちリアルな日常的世界と信じ込む「場」が増えてきました。若い人はイアホーンとスマホで音楽を聞くほうがリアルな方法と考える事になっています。高い入場料を払って演奏会に行くほうが非日常的になっています。
 CDのデジタル録音の普及はやはり音楽を鑑賞する「場」に大きな革新を起こしたものと思います。クラシックでCDを広げたのはカラヤンの功績です。録音に堪能なミキシングエンジニアが現れ、ベルリン・フィルと著名なエンジニアの名を記載したCDを買うのが良いとされました。CD音源を再生する高価な装置が次々と市場に現れました。1970年台の後半ころのことで、クラシック音楽の演奏会も日本では数少なく、私みたいなオーディオ・メカマニアが出現します。目的は自分の家の一角を響きの良い音楽ホールに変えてしまうことにありました。そのために長い月日をかけ貯めたお金で装置を増やし続け自己満足をしていくことになります。本物のホールで聴く音楽と自分が作り出した音場で聞く音楽との価値比較をする哲学論評が、マニア雑誌ではいつも掲載されていたものです。吹き抜けのある私の家は会社の音響研究室の室長が私の大学後輩であったこともあり、測定器でステレオ音響の三次元シミュレーションをしてもらい、その結果天井の板に小さな無数の穴を明けて吸音できるようにしました。加えてエコライザーを購入して音源の各周波数ごとの音圧を手動で調整するまでになりました。病膏肓の
類と言えます。周波数によって違う音源の指向性を考え、エコライザーで調整してCD再生の全周波数の音源を人間の聴覚でコントロールできる場所は部屋の中のある一点の場所のみとなります。この場所に座って、カラヤンを聴いてもカラヤンを超える独特の音場を得ることになります。私が指揮者になるという至福の時間を得ることになります。全くの自己満足です。
 ということで、私の場合は、音楽ホールの「場」で聴くときと、私の家の「場」で聴くときの両者は比較する対象ではなく、別物とは言いませんが
ヴァーチャルかリアルの区別はありません。両者ともに空気中を伝わってくる音の振動を聴いていることに変わりはありません。
 と言いながらも、またそぞろNYのMETに行きたくなっています。次は3回目になりますが、あのオペラの現場の臨場感はやはり劇場に行かないと味わえません。METが演奏会直後に世界に配信する映画に朝早くから度々行きましたが、そろそろ飽いてきました。 長々と書きました・・これにて失礼!







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音楽談義、楽しませていただきました! (ゆらぎ)
2019-03-01 19:58:37
九分九厘さま
 拙文にお目通しの上、情熱のこもった感想をお漏らし頂きありがとうございました。
 ほとんど大兄の見方に同感いたします。

 ”音楽を聞く楽しい時間は、圧倒的にオーディオ装置で聴く時間のほうが多い。
  ~私の場合もそうです。西宮の芸文や東京のHKKホールなどに、そうそう行けるものではありません。それに、故人になったフルトヴェングラーやカラヤンの指揮する曲を聞くとなると、オーディオ装置で聞く以外はありません。それにしても、いつぞや聴かせていただいた尊兄のご自宅の装置は、ものすごい贅沢なものでした。

 ”クラシックでCDを広げたのはカラヤンの功績です・・・”~本当にそうですね。現在はベルリン・フィルの映像配信があり、ハイレゾで聞くことができるだけでなく、ホールでの演奏風景まで楽しみながら聞けるのですから、本当に恵まれています。これは、インターネット大手のIIJとベルリン・フィルが協力して配信していますが、泉下のカラヤンもさぞかし喜んでいることでしょう。

 ”またぞろNYのメットに行きたくなりました”~いやいや、そのバイタリティには恐れ入ります。ホールの音響効果といえば、オランダはアムステルだダムにある「コンセルトヘボウ」は、コンサートホールのストラディヴァリウスとまで言われ、あたかも一つの大きな楽器そのものになって豊かな響きを感じることができると言われています。一度足を運んでみたいと思っています。

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