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(写真は、空襲で廃墟と化した名古屋駅の周辺)
”歴史のない国なんてなくて、どこだって昨日があって今日がある。昨日のことをよく知りなさい” (吉沢久子、生活評論家にして、故古谷綱武の夫人 96才だが元気に一人暮らし)
先日8月6日の広島原爆忌にTVを見ていたら、”もう原爆のことを語れる人が亡くなってゆき、語り継ぐことが難しい”と発言しておられた。太平洋戦争のことを知る人も少なくなりつつある。すこしでも戦争の記憶のあるうちは、私も語り継いいでゆきたい。昨年も、その趣旨のことを書いたが、この夏は韻友・九分九厘氏も賛成してくれて、二人でこの記事を書くことになった。まず私の記憶から辿る。なお氏の記事は後半になるが、戦争問題を広く捉え、安全保障論を展開する。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
終戦の8月、私は小学校の一年生。名古屋の家では空襲を受けた。焼夷弾が空から降り注ぐ。屋根に刺さった焼夷弾を、座布団で包んで引き抜き、地上へ投げ捨てた。米空軍のグラマンの機銃掃射もうけ、お寺の床下に潜りこんだこともある。6月には名古屋にある愛知航空機などの航空機製造工場も襲撃を受けた。市内の北西の方角の空が明るく、燃え上がっていた。一回の空襲にB29爆撃機五百機内外が襲ってくる。防ぎようもない。
そういう戦争体験に加え、家にあった戦争中の朝日新聞の縮刷版を、まだ幼かった私だが、よく読んでいて、どんな動きがあったか幾つもの記憶がある。
太平洋戦争のことを知るのに適した、優れた著作がある。なんと言っても鳥居民の畢生の大作『昭和20年』(全11巻、2002年 草思社)。これに加え、不戦論を貫いた三人(石橋湛山、清沢洌、馬場恒吾)のうちの一人、清沢洌の『暗黒日記』(全3冊)がそうである。これに加え、作家結城昌治の『俳句つれづれ草』(朝日文庫、1988年)。これには昭和私史ノートという副題があり、昭和2年以降の、戦争へと突っ走ってゆく日本の姿が、淡々と、そしてつぶさに描かれている。それらからの引用もふくめ戦争中のいくつかの出来事を追ってみた。
その前に<終戦記念日>ではなく、<敗戦・・>であることを指摘しておきたい。
”終戦という言葉で敗戦をごまかそうとするのは、間違っており、職業軍人には敗戦の責任がある” (畑俊六 陸軍元帥、極東裁判のA級戦犯として終身刑)
”「何を言うか、”敗戦じゃないか。”敗戦”ということを理解するところから全てがはじまるんだ」”と一蹴した。(東久邇宮 昭和20年8月から10月の内閣総理大臣)
~~~~~~~~~~~~~~~
(太平洋戦争の動き)
日本が対米開戦に踏み切った一因に、米国の対日石油禁輸があった。日本、とくに海軍はオイルシェールや石炭を原料とする人造石油の開発に取り組んでいた。昭和18年には年間200万トンの液化油を生産する予定だった。また満州での米国企業の独占市場に縛りをかけようとした。当時アメリカ政府の首脳たちには、最大の武器として利用できる石油禁輸の構想が固まりつつあった。ルーズベルト大統領は財務長官のモーゲンソー(『国際政治』のモーゲンソーとは別人)に命じ、対日石油禁輸の計画をつくらせた。こうしてアメリカはじりじり日本を締めあげていった。
戦争が勃発する前年の昭和15年、アメリカではモーゲンソー長官が”ドイツの人造石油工場を爆撃し、オランダ領東インドの油田を破壊し、3~6ヶ月以内に平和を招来させるという世界戦略を開陳した。この計画は、見送りとなったものの、6月に日本への石油と石油製品のすべてを輸出要件とする方向に動き出した。いずれにしろ、こういうグランドデザインを描いて、戦略的に動く欧米にとても日本単独で対抗し得るわけがない。それでも日本政府の首脳は木戸幸一(内大臣、天皇の側近)などのいう、”臥薪嘗胆策”をとってアメリカと現実的な交渉をする道を選ばなかった。
(昭和16年)
「産めよ殖やせよ地に満てよ」という人口政策を閣議決定する。結婚資金の貸付制や独身税を設け、結婚年齢を3年はやめることなどが決まった→余計なお世話だ!
この頃ヨーロッパではドイツがソ連の宣戦布告。モスクワ総攻撃を開始した。
12月8日午前7時大本営陸海軍部発表。”帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ”
大新聞(朝日など)は、”屠れ米英われらが敵”とか、”進め一億火の玉だ”などのスローガンを流し、民意を煽った。 欧米に留学し、近代的自我に目覚めたはずの芸術家ほど国粋主義者となり、戦争協力に積極的だった~高村光太郎/斎藤茂吉/藤田嗣治などなど。
(昭和17年)
アメリカ海軍の爆撃機が日本本土を初空襲。B25機が16機。しかしまだ本格的な空襲が始まるのは、まだ2年半先。当時の防空演習の考え方は、ヨーロッパ戦線の模様が参考になるはずなのに、実に甘く、バケツリレーと砂袋、火たたき棒で猛火を防ぐつもりだった。このころ、防火ずきんをかぶらされたのが記憶にある。
6月、海軍がミッドウエー海戦で大敗。空母4隻、航空機320機 将兵3500名を失う惨敗。報道機関は、その真実を報道せず。ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている
(昭和18年)
2月 日本軍はガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)から撤退。3万4千の将兵のうち、死者2万名。その四分の三は、餓死をマラリアによる病死。ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった。
4月 ブーゲンビル島上空で、山本五十六司令長官機、撃墜さる。
(昭和19年)
南方マーシャル群島など次々敵の手におち、国民も不利な戦局を知る。この頃、女子も25才未満の未婚者は女子挺身隊として軍需工場へと動員された。
3月 日本軍もビルマからインドとの国境近いインパールに向かって進軍するも、食糧・弾薬の補給もなく、無謀な作戦で死者は約7万名。餓死やマラリヤなどの病死者が続出。作戦指令を出したラングーンの軍司令部では、高級軍人が内地から芸者を呼びよせていた。
→こんなことでは、死んでいった若い将兵たちも浮かばれない。
7月 サイパン島の守備隊が全滅。死者4万、非戦闘員1万も死亡。軍に見捨てられて逃げ場を失ったものや動けない傷病兵、看護婦、慰安婦、も手榴弾や、毒薬などで自決した。
9月 グアム、テニアン島守備隊も全滅。
10月 マッカーサー率いる米軍がフィリピンのレイテ島の上陸。この頃、連合艦隊は壊滅状態で、レイテ決戦では、初めて特攻機による自爆攻撃がおこなわれた。
→生還率ゼロの戦術を採用した中央の作戦本部の神経を疑う。
(昭和20年)
敗色濃厚、元旦から空襲。
3月10日、 東京大空襲。 B29爆撃機296機が侵入。深夜2時間にわたって、下町地区を超低空で無差別爆撃。死者10万。焼け出された人、100万人。バケツリレーで立向う姿も痛ましい。
5月24日、未明にB29が525機で来襲。東京は焼け野が原と化した。
6月 大阪・神戸地区をB29が500機で来襲。映画「火垂るの墓」の描くところ。
沖縄では、4月に米軍が上陸して首里戦線は崩壊した。しかし日米両軍は激しい戦闘を展開した。そして5万の将兵の背後には26万の住民・避難民がいた。しかし軍司令部は、非戦闘員・住民への配慮はなにもすることなかった。その後の惨劇は語るに忍びない。沖縄戦での日本側の死亡者18万。一般人約4万。準軍属5万。なおアメリカ軍による日本人女性への性的暴行は、ほぼ1万人に達する。
その後、広島・長崎への原爆投下を経て、8月15日に敗戦を迎えた。この日、終戦を告げる昭和天皇の詔勅、いわゆる玉音放送があった。鉱石ラジオでこれを聞いたことを思い出す。”朕思うに~ピーツ・ガーガア・・・時局の赴くところ~ガアッー・・忍びがたきを忍び・・・・。暑い、よく晴れた日であった。蝉しぐれが降っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみに太平洋戦争では、将兵や一般民間人300万人が犠牲になった。アジアの人々も2000万人近い数字の人々が戦争の犠牲となった。畑元帥の言葉の関連でいえば、職業軍人なかんずく、戦争を指導した高級軍人は、いわば犯罪人にもひとしく、戦争の責任を取るべきで、到底”お国のために命を捧げた”などという存在ではないことを付記しておく。それまで得た領土を失い、多くの人命を奪い、また日本の国土を焦土と化し、産業を壊滅に追い込んだ。企業経営でいえば、全責任をとらなければならない。
こうしたことを考えれば、靖国神社問題は下記の石橋湛山の言葉のごとく、その帰趨は明らかである。
”《石橋湛山の言葉》”
リベラリスト石橋湛山(たんざん)が、敗戦直後の1945年10月に、自らが主宰する『東洋経済新報」の社論で、靖国神社の廃止を提言した。60年余をすぎた今日でもその説得力はは失われていない。
”靖国神社はいうまでもなく、明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、・・・・しかし今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も果たして将来これまでの如き儀礼を尽くして営みうるや否や、疑わざるを得ざるに至った。ことに大東亜戦争の戦没将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功をたたえることは、我が国の国際的立場において許されるべきや否や。
”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」いま日本国民が必要とする のは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”
(終わり)長文にお目通しいただきありがとうございます。この次は、畏友九分九厘さんが、国際安全保障論の観点からの考え方を語ります。
参考)
米軍上陸後の住民避難
人口密集地だった沖縄県の首里、那覇では避難誘導すべき警察官は逃げていた。代わりに憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導している。生存者の証言によれば、憲兵が避難を促した際に「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったところ憲兵に叱責され、「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」と言われ避難壕に誘導されている。その憲兵は避難住民に兵糧を配給した後、戦場に戻り戦死しているらしい。
”歴史のない国なんてなくて、どこだって昨日があって今日がある。昨日のことをよく知りなさい” (吉沢久子、生活評論家にして、故古谷綱武の夫人 96才だが元気に一人暮らし)
先日8月6日の広島原爆忌にTVを見ていたら、”もう原爆のことを語れる人が亡くなってゆき、語り継ぐことが難しい”と発言しておられた。太平洋戦争のことを知る人も少なくなりつつある。すこしでも戦争の記憶のあるうちは、私も語り継いいでゆきたい。昨年も、その趣旨のことを書いたが、この夏は韻友・九分九厘氏も賛成してくれて、二人でこの記事を書くことになった。まず私の記憶から辿る。なお氏の記事は後半になるが、戦争問題を広く捉え、安全保障論を展開する。
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終戦の8月、私は小学校の一年生。名古屋の家では空襲を受けた。焼夷弾が空から降り注ぐ。屋根に刺さった焼夷弾を、座布団で包んで引き抜き、地上へ投げ捨てた。米空軍のグラマンの機銃掃射もうけ、お寺の床下に潜りこんだこともある。6月には名古屋にある愛知航空機などの航空機製造工場も襲撃を受けた。市内の北西の方角の空が明るく、燃え上がっていた。一回の空襲にB29爆撃機五百機内外が襲ってくる。防ぎようもない。
そういう戦争体験に加え、家にあった戦争中の朝日新聞の縮刷版を、まだ幼かった私だが、よく読んでいて、どんな動きがあったか幾つもの記憶がある。
太平洋戦争のことを知るのに適した、優れた著作がある。なんと言っても鳥居民の畢生の大作『昭和20年』(全11巻、2002年 草思社)。これに加え、不戦論を貫いた三人(石橋湛山、清沢洌、馬場恒吾)のうちの一人、清沢洌の『暗黒日記』(全3冊)がそうである。これに加え、作家結城昌治の『俳句つれづれ草』(朝日文庫、1988年)。これには昭和私史ノートという副題があり、昭和2年以降の、戦争へと突っ走ってゆく日本の姿が、淡々と、そしてつぶさに描かれている。それらからの引用もふくめ戦争中のいくつかの出来事を追ってみた。
その前に<終戦記念日>ではなく、<敗戦・・>であることを指摘しておきたい。
”終戦という言葉で敗戦をごまかそうとするのは、間違っており、職業軍人には敗戦の責任がある” (畑俊六 陸軍元帥、極東裁判のA級戦犯として終身刑)
”「何を言うか、”敗戦じゃないか。”敗戦”ということを理解するところから全てがはじまるんだ」”と一蹴した。(東久邇宮 昭和20年8月から10月の内閣総理大臣)
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(太平洋戦争の動き)
日本が対米開戦に踏み切った一因に、米国の対日石油禁輸があった。日本、とくに海軍はオイルシェールや石炭を原料とする人造石油の開発に取り組んでいた。昭和18年には年間200万トンの液化油を生産する予定だった。また満州での米国企業の独占市場に縛りをかけようとした。当時アメリカ政府の首脳たちには、最大の武器として利用できる石油禁輸の構想が固まりつつあった。ルーズベルト大統領は財務長官のモーゲンソー(『国際政治』のモーゲンソーとは別人)に命じ、対日石油禁輸の計画をつくらせた。こうしてアメリカはじりじり日本を締めあげていった。
戦争が勃発する前年の昭和15年、アメリカではモーゲンソー長官が”ドイツの人造石油工場を爆撃し、オランダ領東インドの油田を破壊し、3~6ヶ月以内に平和を招来させるという世界戦略を開陳した。この計画は、見送りとなったものの、6月に日本への石油と石油製品のすべてを輸出要件とする方向に動き出した。いずれにしろ、こういうグランドデザインを描いて、戦略的に動く欧米にとても日本単独で対抗し得るわけがない。それでも日本政府の首脳は木戸幸一(内大臣、天皇の側近)などのいう、”臥薪嘗胆策”をとってアメリカと現実的な交渉をする道を選ばなかった。
(昭和16年)
「産めよ殖やせよ地に満てよ」という人口政策を閣議決定する。結婚資金の貸付制や独身税を設け、結婚年齢を3年はやめることなどが決まった→余計なお世話だ!
この頃ヨーロッパではドイツがソ連の宣戦布告。モスクワ総攻撃を開始した。
12月8日午前7時大本営陸海軍部発表。”帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れリ”
大新聞(朝日など)は、”屠れ米英われらが敵”とか、”進め一億火の玉だ”などのスローガンを流し、民意を煽った。 欧米に留学し、近代的自我に目覚めたはずの芸術家ほど国粋主義者となり、戦争協力に積極的だった~高村光太郎/斎藤茂吉/藤田嗣治などなど。
(昭和17年)
アメリカ海軍の爆撃機が日本本土を初空襲。B25機が16機。しかしまだ本格的な空襲が始まるのは、まだ2年半先。当時の防空演習の考え方は、ヨーロッパ戦線の模様が参考になるはずなのに、実に甘く、バケツリレーと砂袋、火たたき棒で猛火を防ぐつもりだった。このころ、防火ずきんをかぶらされたのが記憶にある。
6月、海軍がミッドウエー海戦で大敗。空母4隻、航空機320機 将兵3500名を失う惨敗。報道機関は、その真実を報道せず。ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった戦闘とされている
(昭和18年)
2月 日本軍はガダルカナル島(南太平洋ソロモン諸島)から撤退。3万4千の将兵のうち、死者2万名。その四分の三は、餓死をマラリアによる病死。ミッドウェー海戦とともに、太平洋戦争における攻守の転換点となった。
4月 ブーゲンビル島上空で、山本五十六司令長官機、撃墜さる。
(昭和19年)
南方マーシャル群島など次々敵の手におち、国民も不利な戦局を知る。この頃、女子も25才未満の未婚者は女子挺身隊として軍需工場へと動員された。
3月 日本軍もビルマからインドとの国境近いインパールに向かって進軍するも、食糧・弾薬の補給もなく、無謀な作戦で死者は約7万名。餓死やマラリヤなどの病死者が続出。作戦指令を出したラングーンの軍司令部では、高級軍人が内地から芸者を呼びよせていた。
→こんなことでは、死んでいった若い将兵たちも浮かばれない。
7月 サイパン島の守備隊が全滅。死者4万、非戦闘員1万も死亡。軍に見捨てられて逃げ場を失ったものや動けない傷病兵、看護婦、慰安婦、も手榴弾や、毒薬などで自決した。
9月 グアム、テニアン島守備隊も全滅。
10月 マッカーサー率いる米軍がフィリピンのレイテ島の上陸。この頃、連合艦隊は壊滅状態で、レイテ決戦では、初めて特攻機による自爆攻撃がおこなわれた。
→生還率ゼロの戦術を採用した中央の作戦本部の神経を疑う。
(昭和20年)
敗色濃厚、元旦から空襲。
3月10日、 東京大空襲。 B29爆撃機296機が侵入。深夜2時間にわたって、下町地区を超低空で無差別爆撃。死者10万。焼け出された人、100万人。バケツリレーで立向う姿も痛ましい。
5月24日、未明にB29が525機で来襲。東京は焼け野が原と化した。
6月 大阪・神戸地区をB29が500機で来襲。映画「火垂るの墓」の描くところ。
沖縄では、4月に米軍が上陸して首里戦線は崩壊した。しかし日米両軍は激しい戦闘を展開した。そして5万の将兵の背後には26万の住民・避難民がいた。しかし軍司令部は、非戦闘員・住民への配慮はなにもすることなかった。その後の惨劇は語るに忍びない。沖縄戦での日本側の死亡者18万。一般人約4万。準軍属5万。なおアメリカ軍による日本人女性への性的暴行は、ほぼ1万人に達する。
その後、広島・長崎への原爆投下を経て、8月15日に敗戦を迎えた。この日、終戦を告げる昭和天皇の詔勅、いわゆる玉音放送があった。鉱石ラジオでこれを聞いたことを思い出す。”朕思うに~ピーツ・ガーガア・・・時局の赴くところ~ガアッー・・忍びがたきを忍び・・・・。暑い、よく晴れた日であった。蝉しぐれが降っていた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ちなみに太平洋戦争では、将兵や一般民間人300万人が犠牲になった。アジアの人々も2000万人近い数字の人々が戦争の犠牲となった。畑元帥の言葉の関連でいえば、職業軍人なかんずく、戦争を指導した高級軍人は、いわば犯罪人にもひとしく、戦争の責任を取るべきで、到底”お国のために命を捧げた”などという存在ではないことを付記しておく。それまで得た領土を失い、多くの人命を奪い、また日本の国土を焦土と化し、産業を壊滅に追い込んだ。企業経営でいえば、全責任をとらなければならない。
こうしたことを考えれば、靖国神社問題は下記の石橋湛山の言葉のごとく、その帰趨は明らかである。
”《石橋湛山の言葉》”
リベラリスト石橋湛山(たんざん)が、敗戦直後の1945年10月に、自らが主宰する『東洋経済新報」の社論で、靖国神社の廃止を提言した。60年余をすぎた今日でもその説得力はは失われていない。
”靖国神社はいうまでもなく、明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、・・・・しかし今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も果たして将来これまでの如き儀礼を尽くして営みうるや否や、疑わざるを得ざるに至った。ことに大東亜戦争の戦没将兵を護国の英雄として崇敬し、その武功をたたえることは、我が国の国際的立場において許されるべきや否や。
”大東亜戦争は万代に拭うあたわざる汚辱の戦争として、国家をほとんど亡国の危機に導き、・・遺憾ながらそれらの戦争に身命を捧げた人々に対しても、これを祭って最早「靖国」とは称しがたきに至った。もしこの神社が存続すれば「後代のわが」国民はいかなる感想を抱いて、その前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨の記念として永く陰惨の跡を留めるのではないか」いま日本国民が必要とする のは、あの悲惨な戦争への反省であり、靖国神社のような「怨みを残すが如き記念物」ではない・・・”
(終わり)長文にお目通しいただきありがとうございます。この次は、畏友九分九厘さんが、国際安全保障論の観点からの考え方を語ります。
参考)
米軍上陸後の住民避難
人口密集地だった沖縄県の首里、那覇では避難誘導すべき警察官は逃げていた。代わりに憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導している。生存者の証言によれば、憲兵が避難を促した際に「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったところ憲兵に叱責され、「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」と言われ避難壕に誘導されている。その憲兵は避難住民に兵糧を配給した後、戦場に戻り戦死しているらしい。
日本海側の片田舎に生まれ育った為か、防空壕も知らず、爆撃に合うこともなく、焼け出されて住む家がなくなることもなかった。昭和20年の富山の空襲では、家の裏の日本海の海岸線沿いにB29が飛んで行くのが音と共に見えたのが記憶に残っている。明け方東の空が真っ赤になっていた。それが富山の空襲だと父から言われた。しかし、我が家ではなんのアクションも取らなかった。
戦後の物のない時代の生活は子供心にも大変なのがよく分かった。親は家族を養うのに朝から晩迄走り回っていた。
ゆらぎさんの靖国神社に対する考え方には賛成です。高級職業軍人の日本を戦争に導いた責任はいつ迄も消えない。従ってそれらを除いた国立の慰霊塔を建て、世界中から後ろ指を差されない形で英霊に尊崇の念を捧げたい。