(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

エッセイ 向田邦子の思い出

2020-09-17 | 日記・エッセイ
                                              冒頭の写真は、向田邦子の唯一の長編小説『あ、うん』の表紙。中川一政画伯描く.。
向田邦子の思い出

 さる八月二十二日は、向田邦子の亡くなった日でありました。人よんで、木槿忌。彼女のことについては、いささかの思い出もありますので、改めてあれこれ偲んでみました。

 1970年代の後半から1980年代前半にかけては、仕事の都合上、東京に定宿をもち、週末になると神戸に戻るという生活を繰り返していました。仕事場が、日本橋にあり、夜になると人形町あたりに出没することが再々でした、人形町の近くには明治座があるのですが、その裏手、いわゆる浜町あたりには黒板塀の料亭が立ち並んでいました。あたりは真っ暗です。一度こんなとことろで料理を味わってみたいと思い、思い立って一軒の扉をたたきました。すると迎えてくれた女将は、”ここでは一見の方はお迎えできません。ですが、私どもの裏手に小さな小料理の店がありますので、よろしければそちらへお回りください”と案内してくれました。今にして思えば、この黒板塀の立ち並ぶ店は、いわゆる木場にある材木商の旦那衆の寄り合いの場所でした。とても若造のいくところではありません。それはともかく、案内された店の暖簾をくぐると、9名ほどが座れるカウンターがありました。もちろんヒノキの一枚板です。その日の料理は、カンナで削り出したうすい板に墨で、”本日のお献立”として、季節の酒肴が書かれていました。「すみ谷」(すみや)という名前の店は、暗い通りの一角にあり、あまり気がつく人もいませんでした。いつも、涎の出るような美味しい一品が並んでいました。静かに、お酒と料理を楽しむに絶好の場所でした。しかも、それほど高くはありませんでした。

 ある時、多分1970年代の終わり頃だったと思いますが、三人連れの客が入ってきました。そのうちの一人は小柄な女性でした。黒っぽいワンピースを着ていたように記憶しています。はっとするような美人ではありませんでした。どこの、誰か知るよしもありませんが、漏れてくる会話のはしばしから、サラリーマンや実業の世界の人たちではなく、映画かあるいは文芸に関わりのある人たちのようでした。飲み終わった私は、”お先に失礼します”といいながら、彼女の後ろを通ってお店を出ていきました。ただ、それだけのことですが、その夜の事は記憶の片隅に残っていました。漂ってきた、香水の香りのせいかもしれません。それからしばらくして、1981年8月22日台湾上空で飛行機の事故があり、全員即死。その中に、脚本家の向田邦子の名前があったのです。その時、浜町の「すみ谷」で出会った女性は、向田邦子さんではなかったかと思いました。

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~

(向田邦子のプロフィール)

 向田邦子は、ホームドラマの脚本家にして小説家/エッセイイスト。テレビ作品には、一世を風靡した「阿修羅のごとく」、「あ、うん」、「寺内貫太郎一家」などがあるが、中でも「寺内・・・」は小林亜星の好演もあって平均視聴率31.3%を記録しました。昭和の東京下町、石屋を営む一家とそれを取り巻く人々との人情味溢れる毎日を、コメディータッチで描いている。放送されたのは1974年頃のことである。四人姉妹の日常を描いた「阿修羅のごとく」も、人気を呼んだ。

 小説では、1980年に短篇の連作『思いでトランプ』収録の『花の名前』『かわうそ』『犬小屋』で第83回直木賞を受賞している。『思い出トランプ』では、浮気の相手であった部下の結婚式に、妻と出席する男のことなどが描かれている。結婚したこともない向田邦子に、よくこんな描写ができたものだと感心する。エッセイは、数多くある。「父の詫び状」、「男どき女どき」(おどきめどき)「無名仮名人名簿」などなど。しかし、「父の詫び状」にしても、今読み返してみると、さほど面白いものとは感じない。たしかに、書き方はうまいが、内容となるとどうか。谷沢永一は、こう言っている。”始めて現れた生活人の昭和史である。たしかにそこには、とりたてて変わったところのない中流で平凡な家庭に、主として戦前における生活の相が活写されているる。”ある意味、ふるきよき昭和の時代を感じるのかも知れない。

 それはともかく、平成を過ぎた今でも向田邦子の人気は根強い。ネットで調べると、いくつも向田邦子に関する文章がみつかる。今でも、である。
 
  向田邦子が飛行機事故でこの世を去ってからひと月後、青山の斎場に多くの人が集まった。その数八百。四月に亡くなった評論家小林秀雄氏の葬儀を上回る数だった。森繁久彌氏の弔辞をここに掲載する。

          

 ”あなたのお写真の前で私が永別の辞をのべる、それはあまりにも過酷なことです。運命の皮肉とは申せ、まだ五十歳の若い身空で異国の人に空に散華されるとは、神も人も信じがたい痛恨極まりないことです。・・・思えば三十年年近いお付き合いでした。ようやく多忙を極める文筆生活の中にも、義理堅いあなたは古い友だちを忘れず、お力を割いてくださいました。あなたの作られたドラマの中から何十何百の人が世に出たことでしょう。

 あなたと、始めて一緒にお仕事をしたのは、昭和三十年をすこし過ぎた頃でしたね。あのラジオの帯放送「重役読本」は、十年近く、二千数百回を重ねました。すでにその時から、私はあなたの鬼才を十分承知していました。・・・その頃、あなたはもうテレビ局からひっぱりだこでした。・・。そしてまもなく直木賞です。・・・あなたとの最後は婦人雑誌の対談でした。あのときの黒い服の姿しか思い浮かんできません。すでに帰らぬ人に、今更なんの言葉がありましょう。・・・哀しいお別れです。さよなら向田邦子さん。”

 注)「重役読本」は向田邦子作・森繁久彌朗読によるラジオエッセイ。森繁の冠番組となり、6年以上続く長寿番組になった。

 ちなみに、向田邦子は、短編シリーズ『男どき女どき』の中で、こう言っている。”私は父の転勤で、何度も転校をしました。・・・今、思い返してみますと、私の師は学校の外にいたよう思います。その筆頭が、森繁(久彌)さんです。”
それというのもNHKの銀河ドラマの収録後開かれたささやかなパーティの席でことです。私は主演の森繁久彌さん、演出の和田勉さんの間にはさまってビールのグラスを上げていたのです。大きな拍手が起こって、娘役の和田アキ子さんが父親役の森繁さんに花束を贈呈しました。森繁さんは花束のお礼と和田アキ子さんの自然な演技を褒め、大きな拍手を浴びました。それからなんとなく二三歩下がって手をたたいている私の隣に立たれました。そして、小さな声で、「向田さん、あなたの時代が来ましたね}と、なんともお面映ゆいセリフです。・・・こんな凄い殺し文句をいわれたころとはありません”、と回想しています。


 そして作家の山口瞳氏も弔辞を捧げた。その中で、彼は、こう言っている。
 ”向田邦子さん。あなたは茶目っ気のある好奇心の強いかたでしたから、ご自分の葬式に誰が来ているかを知りたいでしょう。あの直木賞受賞を祝う会の出席者はみんな来ていますよ。あなたが愛していた方々は、みんな来ていますよ。また、あなたのことを愛していた人たちもみんな来ていますよ。今日の列席者はみんな、あなたの大ファンです。森繁久彌さん、竹脇無我さん、大山勝美さん、岸本加世子さん、倉本聰さん、山田太一さん、澤地久枝さん、豊田健次さん、みんな来ていますよ・・・”


 向田邦子は、多くの人に愛されていたのだ! 放送の世界でも、小説の世界でもたいそう評判がよく、「向田邦子を守る会」というのがあったそうだ。だからと言って、作家や俳優といった人だけにとどまらず。数多く”の人たちからも愛されている。一つ、二つ例を上げてみる。


 ” 終戦の年の四月、小学校一年の末の妹が甲府に学童疎開をすることになった。すでに前の年の秋、同じ小学校に通っていた上の妹は疎開をしていたが、下の妹はあまりに幼く不憫だというので、両親が手放さなかったのである。ところが、三月十日の東京大空襲で、家こそ焼け残ったものの命からがらのめに遭い、このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

 妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で・・・父はおびただしいはがきにきちょうめんな筆で自分あてのあて名を書いた。「元気な日はマルを書いて、毎日一枚ずつポストに入れなさい。」と言ってきかせた。妹は、まだ字が書けなかった。

 あて名だけ書かれたかさ高なはがきの束をリュックサックに入れ、雑炊用のどんぶりを抱えて、妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけていった。 一週間ほどで、初めてのはがきが着いた。紙いっぱいはみ出すほどの、威勢のいい赤鉛筆の大マルである。付き添って行った人の話では、地元婦人会が赤飯やぼた餅を振る舞って歓迎してくださったとかで、かぼちゃの茎まで食べていた東京に比べれば大マルにちがいなかった。

 ところが、次の日からマルは急激に小さくなっていった。情けない黒鉛筆の小マルは、ついにバツに変わった。そのころ、少し離れた所に疎開していた上の妹が、下の妹に会いに行った。下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いたそうな。

 まもなくバツのはがきも来なくなった。三月目に母が迎えに行ったとき、百日ぜきをわずらっていた妹は、しらみだらけの頭で三畳の布団部屋に寝かされていたという。妹が帰ってくる日、私と弟は家庭菜園のかぼちゃを全部収穫した。小さいのに手をつけるとしかる父も、この日は何も言わなかった。私と弟は、ひと抱えもある大物からてのひらに載るうらなりまで、二十数個のかぼちゃを一列に客間に並べた。これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。
夜遅く、出窓で見張っていた弟が、「帰ってきたよ!」と叫んだ。茶の間に座っていた父は、はだしで表へ飛び出した。防火用水桶の前で、やせた妹の肩を抱き、声を上げて泣いた。私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。”


 これは、『眠る盃』というエッセイの中の「字のないハガキ」というごく短い短編である。戦争中の向田一家の小さい妹と父とのエピソードを綴った実話である。絵本『字のないはがき』の文を担当した角田光代さん(小説家、児童文学作家)は、文章を書きながら、絵を見ながら、校正をしながら、そのたびに涙が止まらなかったそうだ。

 私は、この掌編は読んだことがなかったが、ジョンという方が2019年6月にアメーバブログに投稿された文を読んで、知ることができた。

 もう一つ。向田邦子と台湾とのつながりを書いている人がいる。木下諄一という小説家にしてエッセイスト。彼は、会社経営のあと一時台湾観光協会の雑誌の編集長をして事がある。彼が、2017年に「あれから36年、向田邦子のこと」という一文を投じている。

 (台湾での向田邦子)
 ”ぼくは数年前から8月になると、新聞や雑誌で向田邦子に関する記事を書いてきた。また、彼女の作品を取り上げた読書会も何度か行っている。それは、こうした機会を通して、多くの人たちに向田さんのことを知ってもらい、彼女の作品に触れてもらいたいと思うからだ。

ところで、これら一連の活動を行う中で、実はぼくが思っていた以上に台湾には向田作品のファンがいることが分かった。例えば新聞で記事を書くと、読者からメールが来ることが多い。彼らはみんな向田作品のファンで、中には事故現場まで足を運んだ人もいた。

現在、台湾でも数冊の向田作品が出版されている。『父の詫び状』、『眠る盃』、『思い出トランプ』、『隣りの女』、『あ・うん』のほか、『阿修羅のごとく』などテレビドラマの原作版もある。こうした作品が40年近い時間を経て、台湾で出版され、しかも確実にファンを増やしていることは向田作品の一ファンとしてもうれしい限りだ。

さて、ここで一つ不思議に思うことがある。向田作品は「昭和」のエッセンスが色濃く含まれているが、当時の日本、当時の日本人の家族について、どうして台湾の人たちは知っているのだろうということだ。そこで、知り合いを何人か集めて読書会を開き、質問してみた。すると、意外なことに気付いた。

若い世代は別にして、四十代以上では多くの人が「昭和」と共通する感覚を持ち合わせていたのだ。「お父さんは怖かった」とか、「家族がみんな一つの部屋で寝てた」とか、当時の日本と同じような体験があるというのだ。それに作品の中に登場する小物。給食に出て来る牛乳瓶とかブリキのバケツとか、こういうものは実際に使ったことがある人も少なくなかった。さすがにこれは知らないだろうと思って「縁側」を聞いてみると、「あそこに座ってスイカを食べるんだよね。庭に向かってタネをぺっと吐いたりしながら」、と言った。

どうしてそんなことを知ってるんだ。あり得ない・・・。彼らが「縁側」を知ってたのは『クレヨンしんちゃん』とか『ちびまる子ちゃん』とか、アニメの中で見たことがあるからだった(台湾の人たちに疑似体験をさせてしまうとは、日本のアニメ恐るべし・・・)。

向田作品をさらに深く理解してもらおうと、今年ぼくは少人数制の文学講座を開くことにした。”

 ということで二つほどの例を上げたが、私自身はどうかと言うと、向田邦子のエッセイなどに、それほどの深みは感じない。五木寛之と塩野七海の対談『おとな二人の午後』などを読んでいると知的好奇心を掻き立てられるし、語られている主題について、深堀りしてみたくなる。しかし、向田邦子のエッセイや小説には、そういうものは望むべくもない。ただ、読んでいると彼女の人間を見る目の暖かさのようなものを感じて、心が惹かれるのである。

 
 向田邦子が幼少期を過ごした鹿児島市にある「かごしま近代文学館」では、工夫を凝らした企画展を毎年のように開き、向田さんの魅力を発信し続けている。若者の来館も増えつつあり、学芸員の井上育子さん(44)は「働く女性の先駆けで、繁忙な毎日を送りながらも軽やかに生きる姿に人生のヒントをもらう人も多いのでは」と語る。向田邦子は、東京で生まれ、10歳で鹿児島市に移住。約2年間、戦前の穏やかな時を家族と共に過ごした地を「故郷もどき」と表現し、51歳で飛行機事故で亡くなるまで生涯愛し続けた。文学館では作品や原稿のほか、向田家から寄贈された遺品など約1万2千点を保管する。ここを訪れる人もおおく、未だに向田ファンが生まれている。


(向田邦子のプライベートなこと)

 向田邦子には、あまり人に知られていない事がある。乳がんになり手術をしている、手術そのものは、成功したが、輸血による血清肝炎になり、右手が使えなくなっている。それでも左手で原稿を書いた。

 彼女が、20歳代後半のころに、妻子ある人と道ならぬ恋に落ちた。13歳年上のカメラマン。ところが、10年くらい経った頃に彼(N氏)は、体調を崩した。向田邦子は、仕事の合間をみて家庭内別居をしていた彼のマンションを訪れ、あれこれ世話を焼いていた。それからしばらくして、N氏は脳卒中で倒れ、足が不自由になって動けなくなった。そして彼は、自身の不甲斐なさから命を絶ったと言われている。その時のことを妹(三女)の和子さんは、次のように言っている。

  ”姉は整理たんすの前にぺたりと座り込んで、半分ほど引いた引き出しに手を突っ込んでいた。放心状態だった。見てはいけないものを見てしまった、とっさに思った。「どうしたの?」と声もかかられない。・・・ここまで憔悴しきった姉の姿をみるのは初めてだった。”

しかし、向田邦子は乳がんのことも恋人の死のことも、一切外に言っていない。そういう人であった。


(向田邦子の料理)

 今度は楽しい話をいたしましょう。エッセイ『女の人差し指』の中で、向田邦子はこんなことを云っている。

  ”私は、仕事にはまったくの怠け者だが、こと食べることにはマメな人間で、お招(よ)ばれ、ということになると前の晩から張り切ってしまう。お招きの席がフランス料理らしいと見当がつくと、前の晩は和食にする。締め切りの原稿はおっぽり出してもよく眠り体調を整える。”

 要は食べることが好きで、それが高じて「ままや」という料理屋までひらいてしまった。店主は、妹の和子さんだが、実質のオーナーは邦子さんで料理に口も出す。以下は、『女の人差し指』の中で、「ままや繁昌記」として記されている。

 ”(ままやのこと)(向田邦子が、親のうちを出て15年、)ひとりの食事を作るにも飽きてきて、おいしくて安くて小綺麗で、女ひとりでも入れる和食の店はないだろうか、と切実に思った。吟味されたご飯、煮魚と焼き魚、家庭のお惣菜、できたら精進揚げの煮付けや、ほんのひと口、カレーライスなんぞ食べられたらもっといい。そう考えて、向田邦子は妹の和子を抱き込んで、赤坂に店を作ってしまった。カウンター八席、四人がけのテーブル席二つ。従業員は妹と板前とあと三人。社長は妹の和子、邦子は重役で黒幕兼ぽんびき・・・。1978年5月のことであった。

 案内状の文面。
”「おひろめ
 蓮根のきんぴらや肉じゃがをおかずにいっぱい飲んで、おしまいにひと口ライスカレーで仕上げをするーーついでにお惣菜のお土産を持って帰れる。ーそんな店をつくりました。赤坂日枝神社大鳥居の向かい側通りひとつ入った角から二軒目です。店は小造ですが味は手造り、雰囲気とお値段は極くお手軽になっております。 ぜひ一度おはこびくださいまし。”


 ~1978年5月の開店であるから、私がちょうど赤坂見附で会合に出ていた頃。日枝神社の大鳥居はおなじみの場所であったが、当時は、まだこの店のことは知らなかった。(火災事故を起こしたホテルニュージャパンのすぐそば)
 ままやは、文人墨客はもちろんのこと、文字通り繁盛したようである。値段は高くはないし、気楽に食事を楽しめて、いろんな人との出会いもあって、そして時折は”黒幕”にも出会えるというわけだ。

          

向田邦子が没して17年目。1998年3月末、惣菜・酒の店「ままや」の暖簾はたたまれた。


(『向田邦子の手料理』から )

 和子さんが書いた『向田邦子の手料理』には、向田邦子さんの作った料理の数々が満載されている。この本は、私の愛読書でもある。時にはこれを読んで舌なめずりをしながら、厨房に立つこともある。ノンフィクション作家の澤地久枝さんは、向田邦子とは同年。若い頃からの戦友である。その彼女が、「思いやり」と題して『向田邦子の手料理』に、次のような文を寄せている。

 ”この本に登場しないという手料理の一品は、仕事を持つ女には便利なつくりおきの品の一つ。材料は、ししとう。三パックくらいを一度に使う。なるべく上等のゴマ油を適量熱して、ししとうを炒める。特級酒と水をひたひたにし、薄い醤油味にして弱火で小一時間煮て出来上がり。酒のつまみ、ご飯の箸休めとして好適。”

”夏には、そうめんを茹で薄めたつゆをはって、細かく刻んだ青じそと梅干しの梅肉をつぶしたものを混ぜた。「食欲ないの」と云っていた私がぺろりと平らげ、向田さんは大喜びだった。極細のスパゲッティをかために茹で、フライパンに多めのバター、きざみにんにく、そこへ熱々のスパゲティを移して青じその千切りを手早く混ぜ合わせ、塩・胡椒して、醤油を少々の一品。包丁さばきの見事な人であった。手早くでき、決して高価でなく、一瞬の芸術のように登場したあの手料理たち!”


 前置きはさておき、この本に紹介されている料理の中から、私の興味を引いたものを、いくつかご紹介することにしたい。

 「いつものおかずで、気張らずおもてなし」向田邦子は、よく人を招いた。気張らず、いつものおかずーだからこそお客の方も気持よく、楽しく、足繁く向田さんちを訪れた。不意の来訪にも、心尽くしの品が並んだ。寒い夜訪れたお酒が飲めない来客には、熱いほうじ茶と冷蔵庫に作り置きしておいた「さつま芋と栗のレモン煮を、夕食を食べはぐれた若いディレクターには、ありあわせを工夫してお腹のたしになるものを・・・。

 <さつま芋と栗のレモン煮>  (写真)
 レシピ: 
 (材料)さつま芋、栗の瓶詰め、レモンの輪切り適宜。砂糖、みりん少々。
 (作り方)①さつま芋は皮を剥き、幅1センチくらいの輪切りにして、水によくさらす。②鍋にたっぷりの水とさつま芋を入れ、水からやや固めに茹でて、茹で汁をすてる。③②の鍋に栗の瓶詰めを汁ごと加える。甘みが足りないとき 
        は、砂糖、みりんで調味する。④③に紙蓋をして、弱火でことこと静かに煮含める。冷たくしてから食べると美味しい。

 <みそ豆>   
 レシピ:
 (材料)大豆カップ二分の一。するめ二分の一枚。人参、ごぼう各一本。れんこん少々。ごま油適宜。甘みそ400グラム。砂糖200グラム。酒カップ1。
 (作り方)①大豆は、から鍋に入れ、弱火で香ばしく煎る。するめはよく焼き、細く小さめに割く。人参、ごぼうはささがきにして、蓮根は小口から薄切りにし、小さく切る。②フライパンにごま油を熱し、①の材料を加えて、炒める。
       ③別鍋に甘みそ、砂糖、酒を入れてよく混ぜ合わせる。炒めた材料を加えて中火にかけ、もとの味噌の固さになるまで練る。

          



 「器狂い」 ”車を持たず、腕時計、電気洗濯機、ピアノ、夫、子供、別荘、なんにも持っていない・・・”(『霊長類ヒト科動物図鑑』「虫の季節」』向田邦子は持とうとしなかったのである。しかし、器には執着した。熱中した。日々の暮らしを何よりも大切にし、愛すればこそである。 

            

 <ピーマンの焼き浸し>肉厚で大きめのピーマンが入ったら毎日でも作りたくなるおかず。炒めるより、焼くのが一番早い。
 レシピ:
 (材料)4人分。ピーマン6個。糸削り節、揉みのり適宜。しょうゆ、大さじ1。出し汁か、酒大さじ3。
 (作り方)①ピーマンは縦ふたつに切り、へたと種をとって焼き網に載せ、中火で表裏をしんなりする程度に焼く。②しょうゆと出し汁か酒をあわせる。③①ピーマンを横千切りにし、②の調味料をかけて、削り節であえる。④食べる直
       前に器に盛り、もみのりをかける。出し汁とかつを節であえてから、冷蔵庫で冷たくすると、味がしみてお弁当のおかずなどにいい。

         

 <ほろほろ卵>  ちょっと下世話で、なんとも懐かしい味。お箸でつまみにくので、サラダ菜で包んでどうぞ。
  レシピ:
  (材料)4人分。卵6個。バター、大さじ1、ウスターソース大さじ3、サラダ菜1株。
  (作り方)①フライパンを熱し、バターを溶かし、溶いた卵を入れて煎り卵状にし、ウスターソースをからめて、香ばしく炒りあげる。③サラダ菜に包んで、冷めても美味しく、お弁当のご飯の上にたっぷりまぶすもよし。
                                


 <野菜のごまみそ> ほかほかご飯に。薄味の卵焼きにつけて食べるのも美味しい。(
  レシピ:
 (材料)にんじん、ごぼう、蓮根各適宜。塩・酢少々。白ごま、出し汁、田舎みそ各適宜。調味料(みそ10に対して、酒9,みりん、しょうが汁各い1と二分の1の割合。
 (作り方)①にんじんは皮を剥き、5ミリ角くらいの薄切り、ごぼうは皮をこそぎ、にんじんと同じくらいに切って塩水につけ、アク抜きする。蓮根は、薄く皮を剥き。にんじんとおなじようい切って、酢水のにさらす。
           ③白ごまは煎り、乾いたまな板で刻む。④鍋に①のにんじん、②のごぼう、蓮根を入れ、出し汁をひたひたに加えて、中火で煮る。野菜が少し柔らかくなったら、野菜の分量の三分の一のみそを加え、酒。みりん、し
            ょうが汁を加えて、時々混ぜながら、弱火で煮詰める。汁けがなくなったら、ごまを混ぜる。

      
   

 酒の肴のきわめつき、と題して『女の人差し指』の中で、向田邦子は、次のように言っている。

  ”父が酒呑みだったので、子供の時分から、母があれこれと酒の肴をつくるのを見て大きくなった。・・・酒呑みはどんな時にとんなものを喜ぶのか、子供心に見ていたのだろう。・・・酒のさかなは少しづつ。間違っても、山盛りにしてはいけないということこのとき覚えた。出来たら、海のもの、畑のもの、舌ざわり歯ざわりも色どりも異なったものがならぶと盃がすすむのも見ていた。

      


 気配りの酒席 ”酒がすすみ、話がはずみ、ほどたった頃、私は中休みに吸い物を出す。これが自慢の海苔吸いである。(『夜中の薔薇「くらわんか」・・・これは、食べることが好きな向田さんらしいエッセイ。)

   

  レシピ:のり吸い。
  ①出汁は昆布であっさりと取る。出しをとっている間に、梅干しをちいさいものなら一人一個。大なら二人で一個の種をとり、水でざっと洗って塩けをとり、手で細かくちぎる。②わさびをおろす。③海苔を炙って、
   もみほぐす。一人二分の一枚。③なるべく小さいを椀に、梅干し、のり、わさびを入れ、熱くした出し汁に、酒と、ほんの少量の薄口じょうゆで味をつけた吸い地を張る。

<サーモンと玉ねぎのグレープフルーツあえ> 
  レシピ:
 (材料)スモークサーモン6枚、 玉ねぎ小一個。、グレープフルーツ二分の一個。塩少々。
 (作り方)①スモークサーモンは、食べやすい大きさに切る。②玉ねぎは、薄い輪切りにし、盆ざるに広げて薄塩にする。③しばらくして、しんなりしたら、水洗いし、水けをよく拭く。④グレープフルーツは、袋から身を出し、食べや
   すい小切りにして半つぶしくらいにして、サーモンと玉ねぎを加えて混ぜ、器に盛る。

           

 実際作ってみて、これは酒のあてにいいと思った。酒は、やや辛口の日本酒か、白ワインのミュスカデなどに合うおすすめの逸品。


     

(多磨霊園に眠る)木槿忌
 1981年8月22日、向田邦子はその生涯を突然閉じた。

        

 その霊は、東京都武蔵小金井にある多磨霊園に眠っている。たまたまのことであるが、私の本家である高橋の家も、また母方の速水家のお墓もここにある。そこから、そう遠くないところに向田邦子のお墓がある。墓碑には、森繁久彌の言葉が刻まれている。

 「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」


 ある人、いわく向田邦子は天性の劇作家であった、と。多分、そうであろう。そして、これほど多くの人に愛された人は、あまり知らない。ちなみに木槿忌という言葉は、向田邦子を高く評価していた山口瞳が、そのエッセイ『木槿の花』のなかで提唱している。山口瞳は、彼女のことを戦友と呼んでいた。

    
     
      ~~~~~終わり~~~~~


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