(新)緑陰漫筆

ゆらぎの読書日記
 ーリタイアーした熟年ビジネスマンの日々
  旅と読書と、ニコン手に。

読書 『手紙歳時記』

2013-01-26 | 時評
読書 『手紙歳時記』(黒田杏子 白水社 2012年11月)

 
 印象に残るエッセイを残した歌人・俳人といえば、上田三四二、飯田龍太の名をまず挙げねばなるまい。上田三四二の「私の人生手帖」、飯田龍太の「遠い日のこと」そしてもちろん「飯田龍太全集」の中の第3巻、第4巻の随想など。

 この黒田杏子(もも子)さんの本は、これらの本とは趣が違い、新しいジャンルを開拓した感じがする。俳句の本ではない、俳句を縁の糸として交流した人々との交遊録である。

 黒田杏子(ももこ)さんは、日経俳壇の選者の一人で、毎週その記事をみては彼女の選句と講評になぜか共感するものを覚えていた。彼女は山口青邨に師事した俳人であるとともに、広告代理店大手の博報堂の「広告」編集長という別な顔をもっている。その編集の才、そして文才も十分に発揮されたものである。巧まずして、語るがごとく文章がなめらかに滑ってゆく、そんな感じのエッセイで埋め尽くされている。

 ではその一部を見て見よう。

 冒頭の「敢然と立つ波の上」は、86才現役の磯見漁師斎藤凡太さんの手紙から始まる。出会いは、新潟出雲崎での句会「渚会」であった。そこで、凡太さんはの句は、選者黒田杏子が三重丸をつけた特選句となった。

  ”間引き菜や妻も間引かれ石の下” (凡太)

この句を選ばれての凡太さんの挨拶が紹介されているが、”妻をなくした今の実感と語る”と言う。 そこから凡太さんは、著者が選者をしている新潟日報の俳壇に投句するようになり、十余年に渡って黒田杏子は、凡太の俳句を見つめ、交流を続けてきた。彼を見つめる眼差しのあたたかさが感じられる。

 アメリカの女性外交官、アビゲール不二さんとの出会いが語られる。縁あって指導をすることになった静岡県沼津の「沼杏句会」に、たった一人でやってきたアビゲールさんは、句会に英語と日本語と二つの言語で書いた俳句作品を投句する。選句もして、句会のあとでは質問までした。”スタートまもない「沼杏」の句座に鮮烈な風が流れこみました”
ここから黒田とアビゲールさんの手紙(封書 なんと鳩居堂白い和紙の縦書封筒))によるやりとりが始まり、それはひと月に2時間の俳句特別講義へと発展した。そして18回に渡った内容は一冊の本にまとめられ、2006年に『The Haiku Apprentice』(ストーンブリッジ社)として出版された。中野利子さんによる邦訳『私の俳句修行』(岩波書店)がある。黒田は、自分より20才も若いこの句友の作品から”私の大好きな句”として次の作品を挙げている。

  ”子の靴に足入れてみる夏の果” (アビゲール不二)


 西鶴研究者として著名な暉峻康隆(てるおかやすたか)氏との書簡の往復によるやりとりは愉快、愉快!出会いは、東大赤門前の法身寺で開かれている句会「東京あんず句会」の会場。一葉忌ででかける。 ”二階の小座敷に上がってゆくと、先生はしきりに手帖になにか書き留めておられます。「ああ、クロダモモコさん、存じ上げていますよ。杏っ子と書くモモコさん」”その席で、先生は茶碗酒をぐいっと呑みながら句を詠んでおられるのす。”この先生と書簡の往復による両吟半歌仙の様子が述べられる。やりとりのうちに、「花咲かおばさん」と題する人物評までうける。そのうち、現代俳句大賞の贈賞式に招かれ、このテルオカ大老にエールを贈るスピーチをする。

 ”大宗匠より、常に心に命じて行動せよと命じられておりますことをお伝えいたします。☆仕事は十年単位で取り組むこと ☆俳句しかわからないケチな人にならないこと。☆歳時記は一つの手がかり。・・・脚をしっかり使って、身体を動かして、季語という国民的文化遺産を自分の血肉としてゆく努力を俳人は積み重ねるべきです。☆長生きの秘訣すなわち日本酒のたしなみ方。①上等の酒を ②常温で ③上品に” テルオカ先生大喜び。問題は、そのあと先生が、”現代俳句協会は貧乏なのかね。賞金が少ない”とつぶやく。これには、モモコさんは、カッとなって先生をなじる。じつは裏があって、テルオカ大老は賞金を沖縄の大田知事にカンパされている。この話を金子兜太から聞いたモモコは、自宅から大宗匠に電話。”私は自宅で電話の前にひれ伏していました”先生からの最後の葉書は、黒田杏子の主宰する結社誌「藍生」の雑詠投句の用紙。

  ”大雪で韋駄天杏子立ち往生” (暉峻桐雨 九十四歳)


「蒼い目の太郎冠者 ドナルド・キーン」との交流も香り高い。

  ”罪もなく流されたしや佐渡の月” (ドナルド・キーン)

 しばらくして、黒田杏子は同人誌「件」(くだん)を創刊する。そしてメンバーが五万円ずつ出しあって、すぐれた句集や評論を対象に賞をだすことになった。第一回の「みなづき賞」は中村草田男俳句を世に遺すことに尽力した「萬緑」代表とその刊行委員会に行った。そのうち「件」主催の講演会にキーンを招き、かつ「みなづき賞」を授賞する運びとなった。キーンは、「ドナルド・キーン著作集」や「おくの細道と日本文化」など精力的に講演活動を行なっている。贈賞式では、金子兜太や芳賀徹がお祝いの言葉を述べた。この間の手紙の往復がつぶさに紹介されている。

 榊莫山、瀬戸内寂聴との交流もまた心あたたまるエピソードである。 昭和の終焉と同時に師の山口青邨が亡くなり、そのあと青邨の精神を受け継ぐ形で、黒田は新しい俳句結社を興すことを決意する。その俳誌の表紙を飾る書「藍生」を榊莫山にていねいな書簡を送って依頼する。そうしたのは瀬戸内寂聴のアドバイスによったものである。折り返し莫山から黒田の創作集団を作るとする考え方を支持するとの封書が届き、その数日後「藍生」という二文字が5タイプ、色紙に墨書されたものが届く。その御礼にと黒田は三重県名張にある榊莫山の自宅を訪れる。その日の喜びが書かれた一文は、著者の感動に溢れたもので、印象に残る。

  ”かきくわりんくりからすうりさがひとり” (寂聴)

 最終章では、歌人鶴見和子との出会いと交流が語られる。、そして対談の相手として望まれたが、黒田は”鶴見和子と黒田杏子では本になりません”と断り、金子兜太との対談を提案する。対談のあと金子兜太先生は、すっかり和子ファンになり、「姉御としての和子さん」と讃える。そして鶴見和子なき後、鶴見俊輔・金子兜太・佐々木幸綱、の三人による『鶴見和子を語る』という本を黒田がプロデュースする。さらに鶴見和子の忌日を「山百合忌」として毎年開催している。黒田杏子はこの「山百合忌」の名付け親であり、司会・進行をつとめている。この交流は、藤原書店刊の『われの発見』(社会学者鶴見和子と歌人の佐々木幸綱の対談)を読んだ黒田が、一枚の読者カードに感想をしたため、著者の鶴見和子に送ったことから始まっている。たった数行の読後感がはじまり。

 世に知られた人たちだけでなく、名も無き市井の人々との交流もあり、人とのつながりを大切にする人だという印象が残った。こういうエッイの書き手と出会えたことはとても嬉しいことであった。





コメント (6)
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