りばぁさいどらいふ

東京を流れる某川のほとりから。
ガーデニング、アウトドアなど生活を心地よくするために思うところ、備忘録、いろいろです。

旧東海道散歩 その38-⑤ 本宿~

2019-04-24 07:08:00 | 旧東海道散歩
岡崎城下を通る東海道は、敵の進攻を妨げるために多くの曲がり角が造られ「岡崎二十七曲」と呼ばれました。

nikoそういえば、掛川城下にも「七曲り」がありましたね。

さあ、いよいよ「岡崎二十七曲」を出発!と信号待ちをしていると・・・
「ねえ・・・ねえ・・・あなたたち・・・」と小さな声に呼び止められました。
「うん?」振り返ると、小さな可愛いおばあちゃんが息を切らせてかけよってくるところでした。

smile「あなたたち・・・東海道を歩いているのでしょ?」
niko「はい。これから二十七曲へ行こうと思っていました」
smile「やっぱり!そうだと思って・・・家から走って追いかけてきたのよ」
niko「え~⁉ ありがとうございます!」
smile「あのね。二十七曲へ行くのなら必ず根石原観音堂へ立ち寄って!病気にならない観音様でね。私は毎日お参りしているからこんなに元気!うちのおじいさんも大往生したのよ!これ・・・どうぞ」とこの付近を案内するパンフレットをくださいました。
niko「ありがとうございます!必ず立ち寄ります!」
と約束をしてお別れをしました。

家の中で我々を見かけ、追いかけてきてくたおばあちゃん・・・息を切らしながら話している姿を思い出すたびに、おばあちゃんの優しい気持ちに感謝の気持ちでいっぱいになります。
ありがとうclapおばあちゃん。いつまでもお元気で長生きしてくださいねkirakira
     
改めて「岡崎城東入口」から「岡崎二十七曲」を出発します。


曲がり角には大きな道標が立っていて道案内をしてくれます。

niko道標の上には金のわらじkirakira

西へ向かって「若宮通り」を進みます。この辺りは茶屋が多く、あんかけ豆腐の「あわ雪」が名物でした。

おばあちゃんお勧めの「根石原観音堂」

niko約束通り、しっかりとお参りしました。

708年(和銅元年)悪病が大流行しました。天皇は行基法師に悪病退治を念願され、行基法師は観音像を彫り、祈祷を続けられたところ悪病が治まったそうです。堂内にはその観音像が安置されています。
また、徳川家康の長男「岡崎三郎信康」の首が最初に埋葬されたのが根石原観音堂(根石寺)でした。
徳川家康の長男?あまり印象にありません。首が埋葬?何があったのでしょう?様々な疑問は翌日解決されることになります。

道標は「ろ」「は」「に」と続きます。

niko途中、1790年(寛政2年)建立の秋葉山常夜燈がありました。

「伝馬通り」を進みます。


道路沿いには石像が点在。


この辺りが岡崎宿の中心でした。

niko創業230年の備前屋と創業100年の永田屋本店

岡崎宿は東海道で3番目の大きな宿場で、本陣3軒、脇本陣3軒、旅籠120軒がありました。しかし昭和20年7月20日の空襲で町は壊滅・・・日本橋から81番めの一里塚の場所も不明です。

道標は「ほ」「へ」・・・総門通りを進むと「岡崎信用金庫資料館」

niko岡崎信用金庫資料館は、1917年(大正6年)岡崎銀行本店として建てられました。

突き当たりに「籠田総門跡の碑」と「田中吉政像」がありました。

niko1590年(天正18年)北条氏降伏後、豊臣秀吉の命令で徳川家康は駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国を召し上げられ、北条氏の旧領である関東へ移ることになりました。
この時岡崎城主になったのが、豊臣秀次の家老だった田中吉政です。田中吉政は外堀を築き、城下町を形成し、東海道の「岡崎二十七曲」を整備しました。「籠田総門」は東海道の城内への出入口でした。

ここで迷子になりました。詳しい地図を持っていないので道標だけを頼りに歩いて来ましたが、周囲をいくら探しても「金のわらじの道標」が見つかりませんhekomi

とりあえず籠田公園内を進むと・・・


「連尺通り」に出ました。


良かった!籠田公園内を進むルートで正解だったようですok

(つづく)

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