鈴鹿峠を越えてから所々で茶畑が目につくようになりました。土山茶は滋賀県の中で一大生産地なのだそうです。
大野村の茶摘みの様子を描いた眞風軒(しんぷうけん)漢詩碑がありました。
眞風軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作った人です。
「過土山即興 採茶時節事匁忙 緑髄青芽壮僻郷 清風一瀹君知否 遠到紅洋黒漠香 眞風軒 」
(茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。茶園を見ますと、茶の樹が整然と植 えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。)
街道沿いに旅籠屋跡の石碑が目立ちます。
旧大野村は土山宿と水口宿の間にあった「間の宿」でした。
ここで一つ疑問が・・・「間の宿」では旅人の宿泊は禁止され、休憩所のみ許可されていたはずです。なぜこれほど旅籠跡が多いのでしょう
気になって調べてみると・・・「間の宿での旅人の宿泊禁止」はあくまでも名目上、表向きの事だったようです
ということで江戸時代の大野村にも多くの旅籠が並び、キジ、カモ、サギなどの野鳥の焼鳥と玉井という酒が名物だったそうです。旅籠小幡屋跡には「明治天皇聖蹟碑」もあり、明治天皇も立ち寄られたようです。
それにしても・・・旧東海道でこれほど堂々と旅籠跡の石碑が並ぶ「間の宿」は珍しいです
明治17年創業の「安井酒造場」
主力ブランドは「初桜」・・・軒先の杉玉が素敵です。
「三好赤甫(みよしせきほ)旧跡」
三好赤甫は京で東福寺虚白に俳諧を学び、この地方の俳諧の基礎を築きました。
大野交差点には「大日如来祠」がありました。
「若王寺」
現在も茅葺屋根の「旅籠車屋跡」
さらに旧東海道を進むと・・・
江戸時代、焼酎が名産だった「今宿村」に入ります。
時々見かける祠のない地蔵尊。
甲賀市水口に入ります。
「居酒屋仕事人」の前の側道を進むと・・・
この辺りから信楽焼のたぬきの置物が目立ち始めます。
日本橋から112里の「今在家(いまざいけ)一里塚跡」
一里塚は復元され、榎が植えられています。
1681年(延宝9年)再建された「浄土寺」の前を右折し・・・
県道549号線沿いを歩いていると・・・
庭先でお茶を飲みながらお話しされている地元の方々に「どこから来たの?」「今日はどこに泊まるの?」と声をかけられました。しばらく人と会わなかったので声をかけていただくと嬉しい・・・少しお話しをして再出発です。
「今在家高札場跡」
文字が消えかかっていますが司馬遼太郎文学碑「街道をゆく」
「古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中に伸びています。」
旧東海道を一歩一歩進んできた今、心に響く文章です。そう・・・旧東海道で感じるこの「気配」が旧東海道散歩の大きな魅力のひとつなのです
県道549号線から側道に入り、一本道を進むと・・・
「宝善寺」
「岩神のいわれ」の石碑
近くの参道を5分ほど上ると「岩神社」があります。かつて野洲川に架かる岩上橋の山手には巨岩がそびえ立ち、茶屋もある景勝地でした。村人は子供が生まれるとこの巨岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣(その子供は長生きすると信じられていました)があったそうです。この巨石が岩神社です。
しばらく一本道が続きます。1705年(宝永2年)再建の「永福寺」と通過し・・・
「八幡神社」
右側の道を進み・・・
緩やかな坂道を上ります。
「東海道の松並木」の碑
かつてはこの辺りは松並木で、松並木の合間から古城山が望める景勝地だったそうですが、太平洋戦争で松根油採取の為に伐採されてしまいました。
正面に見えるのが古城山です。1585年(天正13年)豊臣秀吉の命で古城山(大岡山)に水口城が築城されましたが、関ケ原の合戦後に落城となりました。
山川橋を渡ると・・・
「水口(みなくち)宿東見附跡」
水口宿の東側入口です。
(つづく)
大野村の茶摘みの様子を描いた眞風軒(しんぷうけん)漢詩碑がありました。
眞風軒は、江戸時代後期から明治時代にかけて「眞風軒詩鈔」という漢詩の本を作った人です。
「過土山即興 採茶時節事匁忙 緑髄青芽壮僻郷 清風一瀹君知否 遠到紅洋黒漠香 眞風軒 」
(茶摘みの季節に、土山を過ぎて大野という村へ来て見ますと、農家の人達が大変忙しく働いておられた。茶園を見ますと、茶の樹が整然と植 えられており、その茶の樹には新芽が深緑の美しい色をしており、今、この村には初夏の清らかな風がさわやかに吹いていた。この茶の葉を蒸すと緑茶となり、発酵させると紅茶になる事を皆さんは知っておりましたか。また、これらの茶が外国へも輸出されている事も知っておりますか。お茶は、香りも、色もよく、人々に愛されております。)
街道沿いに旅籠屋跡の石碑が目立ちます。
旧大野村は土山宿と水口宿の間にあった「間の宿」でした。
ここで一つ疑問が・・・「間の宿」では旅人の宿泊は禁止され、休憩所のみ許可されていたはずです。なぜこれほど旅籠跡が多いのでしょう
気になって調べてみると・・・「間の宿での旅人の宿泊禁止」はあくまでも名目上、表向きの事だったようです
ということで江戸時代の大野村にも多くの旅籠が並び、キジ、カモ、サギなどの野鳥の焼鳥と玉井という酒が名物だったそうです。旅籠小幡屋跡には「明治天皇聖蹟碑」もあり、明治天皇も立ち寄られたようです。
それにしても・・・旧東海道でこれほど堂々と旅籠跡の石碑が並ぶ「間の宿」は珍しいです
明治17年創業の「安井酒造場」
主力ブランドは「初桜」・・・軒先の杉玉が素敵です。
「三好赤甫(みよしせきほ)旧跡」
三好赤甫は京で東福寺虚白に俳諧を学び、この地方の俳諧の基礎を築きました。
大野交差点には「大日如来祠」がありました。
「若王寺」
現在も茅葺屋根の「旅籠車屋跡」
さらに旧東海道を進むと・・・
江戸時代、焼酎が名産だった「今宿村」に入ります。
時々見かける祠のない地蔵尊。
甲賀市水口に入ります。
「居酒屋仕事人」の前の側道を進むと・・・
この辺りから信楽焼のたぬきの置物が目立ち始めます。
日本橋から112里の「今在家(いまざいけ)一里塚跡」
一里塚は復元され、榎が植えられています。
1681年(延宝9年)再建された「浄土寺」の前を右折し・・・
県道549号線沿いを歩いていると・・・
庭先でお茶を飲みながらお話しされている地元の方々に「どこから来たの?」「今日はどこに泊まるの?」と声をかけられました。しばらく人と会わなかったので声をかけていただくと嬉しい・・・少しお話しをして再出発です。
「今在家高札場跡」
文字が消えかかっていますが司馬遼太郎文学碑「街道をゆく」
「古い街道には、いにしえ人の気配があります。その曲がりくねった道筋に、路傍の道標に歴史があります。あるときは戦の道となって人馬どよめき、あるときは参宮の道となって賑やかな歌声に包まれたであろうこの道。東海道は遠い昔にその役割を終え、今や暮らしの道として、風景の中に伸びています。」
旧東海道を一歩一歩進んできた今、心に響く文章です。そう・・・旧東海道で感じるこの「気配」が旧東海道散歩の大きな魅力のひとつなのです
県道549号線から側道に入り、一本道を進むと・・・
「宝善寺」
「岩神のいわれ」の石碑
近くの参道を5分ほど上ると「岩神社」があります。かつて野洲川に架かる岩上橋の山手には巨岩がそびえ立ち、茶屋もある景勝地でした。村人は子供が生まれるとこの巨岩の前に抱いて立ち、旅人に頼んでその子の名を決めてもらう習慣(その子供は長生きすると信じられていました)があったそうです。この巨石が岩神社です。
しばらく一本道が続きます。1705年(宝永2年)再建の「永福寺」と通過し・・・
「八幡神社」
右側の道を進み・・・
緩やかな坂道を上ります。
「東海道の松並木」の碑
かつてはこの辺りは松並木で、松並木の合間から古城山が望める景勝地だったそうですが、太平洋戦争で松根油採取の為に伐採されてしまいました。
正面に見えるのが古城山です。1585年(天正13年)豊臣秀吉の命で古城山(大岡山)に水口城が築城されましたが、関ケ原の合戦後に落城となりました。
山川橋を渡ると・・・
「水口(みなくち)宿東見附跡」
水口宿の東側入口です。
(つづく)