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人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

2006年インタビュー メイクなし、素顔のホセ・クーラ The Real José Cura

2016-04-29 | 人となり、家族・妻について


ホセ・クーラが2006年に受けたインタビューで、私生活、本人の生活、性格などについて、語ったものがあります。
たわいもない、身辺のことについて多く聞いていますが、飾らない人柄、普段の暮らしぶりが垣間見えるので、興味ある方(もちろん私も)にとっては面白いのではないかと思い、紹介します。この第1問と2問の性格について、1も2も「頑固」というのが、笑ってしまいました。自他共に認める頑固者ということですね(笑)。

すでに10年も前のことですので、現在とは、すでに変わっている部分も多々あると思います。ご了承ください。またいつものように誤訳、直訳、ご容赦ください。
原題"Without Make-up: The Real José Cura"

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●性格の主な特徴は?

頑固

●主な欠点は?

同じ。頑固すぎるところ。

●星座は?

射手座

●迷信を信じる?

全く全然

●大人になったら何になりたかった?

大人。“真面目な(シリアス)”とよばれる人間に。実際には、私は永遠の子どものままでいるけれど。

●これまで復讐を叫んだことは?

オペラのなかでだけ。実生活には、それにつながるものは何もない。

●印象に残った本は?

『The Mediocre Man』(『平凡な男』)。ホセ・インヘニェーロス、アルゼンチン哲学者の著書。しばしば、この本のいくつかの章、いくつかの部分を読み返す。



●現時点で、人生に最も欠けているものは?

やっていること、やりたいこと、すべてのための時間。決して十分に持てることはないように思う。

●お金の重要性についてどう考える?

正しく適切に。お金なしで生活する方法も知っていたし、そして今は、ありがたいことに、不足していない。そこには大きな違いがあることを認識している。

●心配していることは?

家族のなかで今ちょうど起きていることのために自分が存在していないこと。息子の野球の試合から十代の娘の初恋についてまで、その事柄の大小にかかわらず。主には、(公演で世界中をまわるため)家庭に不在の父親であることが心配だ。

●どのような権威と権力を持ちたいと思う?政治的役割は?

政治、それは絶対ない。芸術監督や音楽分野の他のポストのオファーを受けてきた。しかし今は、歌と指揮で、より多くの音楽をつくっていきたい。



●誰または何があなたを当惑させる?

当惑というよりイライラを感じるのは、私のキャリアの大部分が、もっぱら「外見が良い」ことに結びついている、とみなす人々に対してだ。私は自分自身が、真面目なプロフェッショナルとして証明されていると信じている。いわば強みと弱点もふくめて。
私のルックスはすでに時間の痕跡を示している。ますます髪はグレーになる。そのプロセスは容赦ない。

●最もリラックスして心を落ち着かせる状況は?

家にいる時。15日間ずっと家にいられたらと思う。

●学校で好きだった科目は?

正直に言って、私は学校はあまり好きではなかった。私はしばしば「アナキスト」だった――学校が課すルールからしばしばエスケープした。しかし、人文・社会科学系の科目は好きだった。

●好きな街は?

好きな街は持っていない。私は、世界の市民、本当に流浪の民だ。

●好きな色は?



●理想的な休暇は?

自宅にいること

●夜型?昼型?

仕事の時は、大幅に夜型になる。しかしもともとは、夜更かしはしない。

●好きな季節は?





●食べ物は?

ちょうど今、再びダイエットに行っていることを言わなければ..。それはデリケートな問題。しかしもちろん、食べ物ととてもよい関係を持っている。

●好きな料理?

何も飾りのないもの。プレーンパスタ。しかし、文字通り熟成したパルメザンで覆いつくしたような...。あなたは、私がパルメザンチーズを食べるために、飾りにパスタをかけていると言うかもしれない。

●赤ワイン?白ワイン?
もちろん赤ワイン。“Barolo”「バローロ」のようなフルボディのワイン。

●楽屋では?
私はスパルタ主義なので、特別なものは何もいらない。ただ飲料水のボトルと紅茶だけ。

●どのように死にたい?

可能であれば年をとってから。しかし、そうでなかったら2つの選択肢。1つは、病気とたたかっての英雄的な死、もう1つは、より簡単に、より苦痛のない死、眠っている間に。

●現在のあなたの考え方は?

最大限ポジティブに。

●あなたのモットー?
今を楽しめ-Carpe diem
この日をつかみ、最大限に活用せよ

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アンドレア・シェニエの解釈――信じるものを守るために立ちあがる Jose Cura / Andrea Chénier 

2016-04-29 | オペラ・音楽の解釈


ホセ・クーラの最後の来日は2006年、ボローニャ歌劇場のジョルダーノ「アンドレア・シェニエ」でした。共演はマリア・グレギーナ、バリトンのカルログエルフィ。ボローニャでの公演がDVDにもなっていますし、来日公演をご覧になった方も多いかと思います。
 →クーラのHPのDVD紹介ページ

 

ボローニャ歌劇場でのリハーサル風景
Rehearsing Andrea Chenier in Bologna (exerpt)


クーラは、このアンドレア・シェニエを、共感できるオペラのキャラクターとしてあげています。
いくつかのインタビューからシェニエの解釈や作品論を、またいくつかのクーラの録音などを紹介したいと思います。

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●共感できるのはシェニエとトスカのカヴァラドッシ
人格的な意味で共感できる役柄は、アンドレア・シェニエとマリオ・カヴァラドッシ。両者は類似している。自ら信ずるものを守るために立ち上がり、そしてそのために死ぬ。

ジョルダーノのアンドレア・シェニエとプッチーニのトスカ、2つのオペラは構造も非常によく似ている。アリアの場所、デュエットの文脈、これらは実質的に同じだ。アリア「星は光りぬ」と「五月の晴れた日のように」は兄弟だ。

シェニエの作曲はトスカに4年先行している。シェニエと違って、トスカは途切れのない傑作だ。しかしシェニエとカヴァラドッシは、ともに人間的にポジティブ。ステージに行くたびに、「自分自身であること」を主張し、そして死ぬ。



――2014年ストックホルムでのインタビューより
●彼らは変革の萌芽

彼らは人々の魂に向けて語る。画家、作曲家、演奏者、哲学者、詩人など、いわゆる知識人であり、彼らは常に変革の萌芽である。

そのために彼らの多くは、身体的または社会的な死をも含む高い代償を払ってきた。アンドレア・シェニエはそうした人々の1人。彼は両方の代償を払った。最初は社会的な信用を奪われ、そしてギロチンに。

私自身が一種のドン・キホーテなので、シェニエであることにくつろぎを感じている。
シェニエの性格と精神を明らかにしている"Improvviso"(独白)は、真のプロテスト・ソング(抵抗の歌)だ。

●ジョルダーノは良い作曲家だが、天才ではなかった
アンドレア・シェニエのオペラ全体の中で、最も重要であり、キャラクターにとってのターニングポイントとなるフレーズの一つは、ぎこちなく音楽に埋もれたままになっている。
それは、“La eterna cortigiana curva la fronte al nuovo iddio”(同じ年老いた売春婦が新しい神にひざまずく)。群衆が新しい司令官に盲目的に熱狂している様をみながら、シェニエが言う言葉だ。

(キーとなるフレーズが埋もれていること等について)ジョルダーノは良い作曲家であったが、天才ではなかった。ヴェルディやプッチーニならば、このようなことは想像もできない。

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クーラがこのオペラ全体のキー・フレーズだと指摘したセリフは、ボローニャ歌劇場の公演DVDでは「永遠の奴隷だ!新しい神を拝もうと列をなして!」という字幕がついていました。確かに、音楽の流れの中に埋もれており、指摘されて改めて見なければ、このフレーズは印象に残らず、見落としてしまうと思いました。
フランス革命のなかで力を発揮し、その後の恐怖政治、反革命、混乱の時代のなかで断頭台に送られたシェニエ、そのシェニエをめぐる時代のうねりと転換点を見すえたシェニエの透徹した視点を示すフレーズが、オペラのなかで十分に生かされていないというのが、クーラの指摘なのだと思います。
クーラ自身、情熱的な熱血漢で、社会的関心も高く、シェニエの人物像に共感を感じているだけに、また、そして、作曲家、指揮者としても活動しているクーラだけに、シェニエの人物像、物語をより深めることに十分成功していないジョルダーノの音楽上の弱点を指摘しないではいられないのでしょうか。



クーラが人格的に共感できるという悲劇の詩人シェニエ、クーラのこれまでの動画や録音からいくつか紹介します。

1997年、ウィーンでコレッリを囲むコンサートより。「5月の晴れた日のように」。熱く歌いあげている。今の成熟した声、表現とはまた違う若い魅力がある。
Jose Cura "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


同じく、シェニエの辞世の句「5月の美しい日のように」、1999年パリ、コンサートのため、やや明るめの表現でドラマティックに盛り上げている。
Jose Cura 1999 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


アンドレア・シェニエから第2幕の二重唱「甘美な時よ、崇高な愛の時よ!」を。2001年ベルリンでのコンサートより(音声のみ)。録音良くないが美しい。
Jose Cura 2001 "Ora soave, sublime ora d'amore!" Andrea Chénier


一番最近のもので録音がある、同じく「5月の美しい日のように」の2013年ウィーン国立歌劇場。解釈を深め円熟した味わいのシェニエ。革命の激動に散った詩人の生への哀惜、誇りと諦観が切ない。
Jose Cura 2013 "Come un bel dì di maggio" Andrea Chénier


最後に、上にあげたものとダブりますが、クーラの「5月の美しい日のように」だけを年代別に1999、2001、2004、2013年と並べたマニアックな(笑)ものを。こうして聴くと、初期の若々しい声の魅力とともに、年を重ねるごとの解釈と表現の深まりが聴きとれるように思います。
José Cura Andrea Chénier "Come un bel dì di maggio" 1999~2013










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