人と、オペラと、芸術と ~ ホセ・クーラ情報を中心に by Ree2014

テノール・指揮者・作曲家・演出家として活動を広げるホセ・クーラの情報を収集中

ホセ・クーラと母国アルゼンチン――映画「ローマ法王になる日まで」を見て

2017-06-08 | 人となり、家族・妻について



ホセ・クーラの母国は南米アルゼンチンです。クーラは1962年にアルゼンチンの第3の都市ロサリオに生まれ、91年にイタリアに移住するまでは、首都ブエノスアイレスに住んで作曲家、指揮者になるための勉強を続けていました。

今、公開されている映画『ローマ法王になる日まで』(イタリア映画 原題"CHIAMATEMI FRANCESCO - IL PAPA DELLA GENTE"=『フランチェスコと呼んでーみんなの法王』)は、南米アルゼンチン出身の現在のローマ法王フランシスコの半生を描いたものです。クーラの生まれ育った時代ともちょうど重なる時期のアルゼンチンを背景にしています。

今回は、先日鑑賞したこの映画と重ねあわせて、あらためてクーラの生い立ち、アルゼンチンへの思いなどを紹介したいと思います。

まずは、まだ映画を鑑賞されていない方は、ぜひ、この予告編をご覧ください。

映画『ローマ法王になる日まで』予告編



こちらは映画の予告チラシです。




映画は、法王選挙のためにバチカンに滞在しているベルゴリオ枢機卿(現在の法王フランシスコ、本名はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)が半生を振り返るシーンから始まり、彼がまだ、化学を学ぶ学生だった1960年のアルゼンチンに戻ります。
映画のネタバレになるので詳しくふれることはしませんが、神父になったベルゴリオは、若くして南米イエズス会の管区長という地位に任命されました。そこから苦難と激動の時代に直面します。
1976年にクーデターで始まった軍事独裁政権のもとで、反政府の動きが徹底的に弾圧され、密告やスパイも横行、疑いをかけられて多くの市民が連行され、激しい拷問を受け、3万人もの人々が犠牲になったということです。

こういう時代にどう生きるのか、どう生きたのか――スクリーンにリアルに映し出される軍の蛮行、突然の連行・拉致、苛烈な拷問、銃殺・・徹底的に自由と民主主義、人権が抑圧された社会の様相が描かれ、ひたひたと押し寄せる恐怖を目の当たりにするとき、この答えは決して簡単なものではないことを思います。

教会が軍事政権に対決せず、司祭が銃殺されても黙殺するような状況で、苦悩し無力感、罪悪感を抱えながら、反体制派を匿い、逃走を手助けし、大統領に直訴までするベルゴリオ。貧困と抑圧、困難ななかで生きる民衆の立場に立ち続けようとする彼の姿は、とても感動的です。

ルケッティ監督は、信者ではなく無神論の立場から、事実の徹底した調査を土台に、冷静に描写します。英雄伝ではなく、人間的に苦悩し、自らの信念(この場合は信仰)にてらして困難な時代を誠実に生きようとする姿は、神を信じる者、信じない者の垣根を越えて、感銘を与えます。


こちらは劇場で購入したパンフレット



ホセ・クーラが生まれたのは1962年12月。ベルゴリオが神父になることを決意した2年後です。そして軍事独裁政権が始まった1976年には、クーラは13~14歳でした。日本でいえば中学生、クーラもラグビーに夢中になっていた頃でした。

映画では描写されていませんが、軍事政権がイギリスとの間にフォークランド戦争を始めたのは1982年3月。クーラは19歳、ロサリオの芸術大学で指揮と作曲を専攻する学生でした。そして徴兵制が敷かれていたアルゼンチンで、クーラも予備隊に所属させられ、3か月続いたこの戦争がもしもっと長ければ、クーラも戦場に送られていたということです。この戦争による犠牲者は、アルゼンチン側で650人近く、負傷者も1000人以上、イギリス側も犠牲者250人余、負傷者800人近くにのぼったそうです。

1983年にようやく終わった軍事独裁の時代。その時クーラは20歳になっていました。多感な10代から20代初めの時代を圧政下で過ごし、さらにその後、経済的な混乱が続いたということで、作曲家、指揮者になる夢を実現することは非常に困難でした。91年に将来の希望を託し、イタリアに渡りました。

この映画を見たことで、これまでも紹介してきたクーラの言葉、その歩み、そして平和と自由への思いについて、よりリアルに、より重く受け止めることができたように思います。クーラの言葉を、いくつかのインタビューから抜粋してみました。



1962年12月にアルゼンチンのロサリオに誕生


≪2016年インタビューより≫

●軍事政権下の子ども時代について


私が子どもの時、パブロ・ネルーダの仕事や人物について話してくれる人はいなかった。私がラテンアメリカの詩を発見し、学んだのは、すでに大人になってからだった。
私が学校に行った40年前、アルゼンチンは軍事独裁政権が支配していた。私たちはパブロ・ネルーダの詩を知らなかった。彼が共産主義や社会主義の思想をもっていたためだ。私たちはガルシア・マルケスなど革新的な文学偉業も読めなかった。当時情報へのアクセスは非常に限られ、これらの人々は国家の敵とみなされていたからだ。





≪2015年ノヴィ・ソンチでのインタビューより≫

●軍政後の経済的混乱のもとで


指揮と作曲を研究していたが、歌うために離れた。・・
軍事政権の支配とイギリスとの戦争の後、我々はアルゼンチンで民主主義を構築し始めた。しかし作曲家や指揮者でやっていくことは不可能だった。聖歌隊で歌って、ささやかではあるが着実な給与を得た。そして何年間かの中断の後、しかし私は、自分の職業に戻ってきた。それが指揮と作曲だ。

若い頃ボディビルダー、電気技師や大工として働いていた。さまざまな仕事をしてきた。人生経験の荷物がより大きいことは、我々にとって、より豊かな、表現のための言葉になる。・・ジムで教えたり郵便配達もした。頑強な身体と精神を持ったことに感謝する。ある日、自転車で郵便配達中に歩道に落ちた。鼻の傷はその時。幸い鼻骨は壊れなかったが、そうなら歌手になっていないだろう。





≪クロアチアでのインタビューより≫

●イタリアに移住後の苦難


私は財布にコイン2つで、90年代初めにイタリアに着いた。仕事がなく、家族と共に生き残ろうとしていた。私は絶対的に何も持たない者で、お金もなく、ドアをノックし「私に仕事はないだろうか」と尋ね回らなければならなかった。
それは私にとって、各地からヨーロッパへ何千もの難民が到着している状況を非常に連想させる。私はミュージシャンであるという利点があった。私は主張したが、まだ証明していなかった。私はテノールだったが、私はそれを証明しなければならなかった。
私はアルゼンチン人だったが、当時のイタリアでは非常に困難だった。ちょうど北部同盟が出現した時で、私は北部同盟がもっとも強かったヴェローナに住んでいた。そして外国人が排斥されたために、私は離れなければならなくなった。 私の祖母はイタリア出身であり、何人もの親友がいて、私はイタリアを本当に愛している。しかし彼らは私を失った。その後、フランスに移った。そこはとても良かったが、主に天候のためにスペインに移り住んだ。ラテン系の私たちにはパリは雨が多すぎた。





≪2016年ジュールでのインタビューより≫

●若者のリードで新しい世界を


私はいつも理想主義者だった。これまで多くの経験をし、信じがたいような事も少なくなかった。しかし一方で、今日、シリアの若者のおかれた状況は、私たちが想像することさえできないということも知っている。

多くの人々が私に尋ねる。どうして今、素晴らしい歌手が、世界の特定の地域からヨーロッパに来るのかと。
答えは簡単だ。南米に住む人びとにとって、毎日の生存のための糧を得ることが、彼の成功に依存するからだ。

私たちは、言葉の良い意味での健全な「生活のための怒り」を失っている。だが、それをやらなければならない。我々は、この強力なエンジンを取り戻す方法を見つける必要がある。新しい世代がより「ソフト」になる前に。

若者がリードする必要がある。そして彼らの手に未来はある。なぜなら世界の混乱の責任は、我々の世代、その親の世代にあるからだ。世界を腐敗させた国のトップを退陣させなければならない。彼らは全員50代、60代だ。混乱を作りだした者に、それを修正することはできない。古いでたらめの左右の全体主義、ファシストらは消えるべきだ。ゼロからスタートする必要がある。それから、我々は新しい地球を手に入れることができるだろう。





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トップの3枚の写真(このすぐ上と下の写真も同様)は、2007年、故郷ロサリオ市のシンボル、モニュメント・ア・ラ・バンデラ(国旗の記念碑)の前で歌うクーラの姿です。

軍政下はまだ少年だったとはいえ、たいへんな時代を生き抜いてきたものです。クーラは、テノール歌手として世界的に有名になって以降も、「平和の種をまく」ことをアーティストとしての自分の責務と考えて行動し、機会あるごとに平和について、社会的公正について、発言しています。貧困や格差、戦争、社会的不公正への怒り、よりよい社会を希求する強い思いをもっています。
これまでのクーラの発言の一部を、以前のブログでまとめて紹介していますが、それだけにとどまらず、ほとんど毎回のインタビューで何らかの社会的な問題について発言しているといえます。

またクーラは、フォークランド戦争の犠牲者を追悼するレクイエムを1984年に作曲しています。かつて2007年に初公開が予定されていましたが、残念ながら母国の機関のサポートが得られなかったとのことで実現しませんでした。クーラはこの曲を、イギリスとアルゼンチンの2つの合唱団で演奏したいと希望していたそうです。しかし当時はまだ、「戦争の傷は癒えたとしても、しこりがあった」そうです。「どこかでステージにあげられることを願っている。死ぬ前に、たとえアルゼンチン国内でなくとも」というクーラの希望がかなえられることを願っています。

アルゼンチンで、映画が描いた暗黒の時代が終わったのは、わずか34年前。また日本でも、小林多喜二が虐殺されるなど同様の暗黒の時代が終わったのも、72年前です。
今また、共謀罪法案や憲法9条改正の動きがすすむもとで、今、この映画が公開された意義はとても大きいように思いました。





映画パンフより



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