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現存在は「死へ臨む存在」であり死において全体として存在する!現存在の本来的な存在可能は、良心を持とうとする意志のなかにある!ハイデガー『存在と時間』(1927)「第1部」「第2編」「第45節」

2019-11-05 15:30:20 | 日記
※「第1部 現存在を時間性へむかって解釈し、存在への問いの超越的地平として時間を究明する」「第2編 現存在と時間性」「第45節 現存在の準備的基礎分析の成果と、この存在者の根源的な実存論的解釈の課題」

(1)「実存」:「現存在は、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらせられている了解可能的な存在可能として、存在している」!
A 「現存在の本質」は「実存」である。(231頁)
A-2 「実存」とは「現存在は、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらせられている了解可能的な存在可能として、存在している」ということである。(231頁)
Aー3 「存在了解が現存在の本質的な存在契機であるからには、おのれの存在のうちに存在了解をそなえているこの存在者を、まずそれ自身の存在について根源的に解釈しておかなければならない。」(231頁)
《感想1》「存在了解」とは日常用語では”意識する”ということだ。

(2)解意としての存在論的考究:先持(※主題)と先視(※仮説)と先取(※理論)!
B 「存在論的考究は解意の一種である。」(231頁)
Bー2 「解意とは・・・・ある了解を開発して領得することである。」(231ー2頁)
Bー3 「解意には・・・・先持と先視と先取がある。」(232頁)
《感想2》「先持」とは解意さるべき「開示さるべき『対象』」、つまり《主題》をあらかじめ明確にすることだ。
《感想2ー2》「先視」とは主題についての《仮説》のことだ。
《感想2ー3》「先取」とは主題を説明する《理論》(「概念組織の型」)のことだ。

(3)これまでの実存論的分析の「先視」(※仮説):「本来的な存在可能」が「先視」のうちに取り入れられていない!
C 「現存在の存在は関心である。」(232頁)
C-2 「実存論的分析は日常性から着手した」ので、「無差別的もしくは非本来的に実存することの分析」に限られていた。このような「先視」(※仮説)には不足がある。「本来的な存在可能」が「先視」のうちに取り入れられていない。
《感想3》「先視」(※仮説)は「世間」(das Man)のレベルにとどまるということ!

(4)これまでの実存論的分析の「先持」(※主題):「全き現存在」を・・・・「主題提示」できなかった!
D 実存論的分析を「日常性から着手した」ので、「全き現存在を、すなわちその『始め』からその『終末』にいたるまでの姿でこの存在者を、主題提示」できなかった。(233頁)
《感想4》これまでの実存論的分析の「先持」(※主題)において、《死》が取り入れられていなかったということ。

(4)-2 「死へ臨む存在の実存論的構造」が「現存在の全体存在可能の存在論的構成」にほかならない!
E 「現存在は死において終末に達し、このことによって全体として存在する。」(234頁)
E-2 「現存在」にとって「死は、死へ臨む実存的な存在(ein existenzielles Sein zum Tode)においてのみ存在する。」(234頁)
E-3 「死へ臨む存在の実存論的構造」が「現存在の全体存在可能の存在論的構成」にほかならない。(234頁)
E-4 こうして「全き実存する現存在」の実存論的分析の「先持」(※主題)のうちに取り入れることができる。(234頁)

(5)「良心を持とうとする意志」!これのうちに「現存在の本来的な存在可能」はある!
F 「現存在の本来的な存在可能は、良心を持とうとする意志(das Gewissen-haben-wollen)のなかにある」!(234頁)

《感想5》「良心」は一種類でない。一方の者の「良心」が、他方の者の「良心」からみれば「邪悪・悪辣・非道」なこともあり得る。
《感想5ー2》ハイデッガーは、各現存在における「良心」について論じる。各現存在の「良心」間の関係(Ex. 闘争・共同・中立・無関心)について、論じない。
《感想5ー3》「現存在の本来的な存在可能」が「良心を持とうとする意志」の中にあるとしても、「良心」とは何か?ホモ・ルーデンス(遊びの人)の「良心」(虚構の天国のうちに生きる)、ホモ・サピエンス(知恵の人)の「良心」(永遠者が定めた秩序の発見の喜びのうちに生きる)、ホモ・ファーベルの「良心」(工作人、M.シェーラー;プラグマチックな世界での征服感・達成感を人工物の製作を通じて得ることを目的に生きる)、
宗教人の良心(この世と死後を含む世界を信じることの安寧感のうちに生きる)等々、「良心」は様々だ。
《感想5ー4》「良心」とは、各現存在の「本来的な存在可能」の導きの星であり、「死」を知りつつも、「死」を超える永遠の価値・理念つまりイデアのことだ。

(6)現存在の実存性の根源的な存在論的根拠は、時間性である!
G 「現存在の実存性の根源的な存在論的根拠は、時間性(Zeitlichkeit)である。」(234頁)
G-2 「関心」は「時間性にもとづいてはじめて実存論的に理解しうるものとなる」。(234頁)
G-3 「日常性は実は時間性の様態である」。(234頁)
G-4 「この時間性にもとづいて、現存在がその存在の根拠において歴史的であることの理由も・・・・理解されるようになる。」(234-5頁)
H 「関心は『時間』を用い、したがって『時間』を考慮に入れざるをえない」。(235頁)
H-2 「現存在の時間性は『計時法』を発達させる。」ここから「日常的=通俗的な時間了解が生ずる。」(235頁)

(6)-2 「内時性」としての時間の根源は「時熟」である!
I 「世界の内部に存在するものは『時間のなかで』出現するといわれる。」この意味での「時間」が「内時性(die Innerzeitigkeit)」としての時間である。(235頁)
I-2 「内時性」としての時間の根源を解明すると、「時間性の本質的な時熟可能性の一つ」があらわになる。(235頁)
I-3 「現存在の存在を構成する存在了解は、この根源的な時熟(Zeitigung)にもとづく」。(235頁)

(7)「第2編 現存在と時間性」:「第1-6章」!
J 以上より「第2編」は次の諸段階を経歴する。
一、「第1章 現存在の可能的な全体存在と、死へ臨む存在」
二、「第2章 本来的な存在可能の現存在的な臨証と、覚悟性」
三、「第3章 現存在の本来的な全体存在可能と、関心の存在論的意味としての時間性」
四、「第4章 時間性と日常性」
五、「第5章 時間性と歴史性」
六、「第6章 時間性と通俗的時間概念の根源としての内時性」
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