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宮崎学『突破者 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996)「1 マイ・ファミリー」(1945-1955):敗戦直後、権力機構の壊滅で当時の治安を守ったのは、警察でなくヤクザだった! 

2023-07-01 15:51:08 | 日記
※宮崎学(ミヤザキマナブ)(1945-2022)『突破者(トッパモノ) 戦後史の陰を駆け抜けた50年(上)』(1996年、51歳)
「1 マイ・ファミリー」(1945-1955)
(1)私は敗戦直後の1945年生まれ!親父はヤクザ寺村組組長、かつ解体屋寺村組の親方だった!おふくろが組と会社の裏方を支えていた!
A  私は1945年10月に生まれた。親父の宮崎清親はこのとき43歳、京都・伏見を本拠とするヤクザ組織、寺村組の初代組長だった。親父は博徒だったが鳶や土方を数十人抱える土建屋(解体屋)寺村組の親方でもあった。親父は貧農出身で鳶となった。読み書きが終生できなかった。(上9頁)
A-2  京都を本拠とする(会津小鉄の前身の)中島会の会長・中島源之助から親父は舎弟分の盃をもらった。(上10頁)
A-3  親父はヤクザ渡世と事業の二足のわらじを履いていた。(上15頁)
B 母の文子は、父親がヤクザ渡世を送ったたため、釜ヶ崎周辺のスラムで生まれ育った。(上10頁)
C  私が物心ついた頃には親父は三〇~四〇人の組員を抱えていた。ただし寺村組の組員は大半が鳶や土方の正業をもつ稼業人だった。(Cf.  博打で身すぎ世すぎをするヤクザは渡世人。)(上11頁)
C-2  土建屋の親方としての親父はなかなかの仕事師で、解体で出たクズ鉄を高く売ってもうけた。(上12頁)C-3  敗戦直後の混乱期に通用したのは「腕力と度胸」だけだった。とくに土建業で幅を利かしていたのはヤクザとそれもどきの連中だった。(上12頁)
D その親父に付き添って、組と会社の裏方を支えていたのはおふくろだった。(上13頁)
D-2  組内で、親父が若衆を統括し、おふくろが若衆の女房子供の面倒を見ていた。(上32-33頁)
E  1948年福井大地震を契機に、復興のための建材を大量に運び込んで親父(寺村組)は大儲けした。(上14頁)

(2)暴発する「第三国人」と渡り合って当時の治安を守ったのは、警察でなくヤクザだった!
F 敗戦直後のアナーキーな時代風潮下、しかも権力機構の壊滅で無警察状態に近く、①死にそこねた「特攻がえり」、②「第三国人」と呼ばれた在日朝鮮人・在日中国人、それに③愚連隊・ヤクザが幅をきかせた。(上14頁)
F-2  暴発する「第三国人」と渡り合って当時の治安を守ったのは、警察でなくヤクザだった。(Ex. 「第三国人」による「七条署焼き討ち事件」ではヤクザが警察を救援した。)(上15頁)
G  京都・伏見区の貧民街の真ん中に、親父は(復興のための建材を大量に運びこみ)福井地震で大儲けした。そして300坪の敷地に黒塀をめぐらした豪邸を立て、そこに寺村組の若い組員や土方たちなども含め三〇人が住んだ。(上17-19頁)

(3)寺村組は、擬制にせよ数十人が「ファミリー」を形成し、身内意識でつながっていた!
H  擬制にすぎなかったにせよ、数十人が「ファミリー」を形成し、身内意識でつながっていた。若衆は無茶者ばかりだったが血が濃いというか熱く、感情量が過剰だった。(上22頁)
H-2  (私の15歳上の)長男・常夫は京大工学部に進むが中退し、のちに宮崎組を結成して組長になる。(上22頁)
H-3  寺村組の若衆は私を「ぼん、ぼん」と呼んで可愛がってくれた。(上22頁)
I  おふくろは、子供たちの教育に関しては実に熱心だった。小学校にも通えなかったおふくろは「あんたらに、あの悔しさは味わわせたくない。どんな無理をしてでも人並み以上の教育だけは受けさせる」とよく口にしていた。(上25頁)
J  親父と大映映画社長の永田雅一とは「兄弟分」的な付き合いをしていた。(上28-29頁)

(4)寺村組の若衆には被差別部落出身者や在日朝鮮人が多かった!
K  寺村組の組長かつ親方であった親父の子分や舎弟はかなり多く、数十人いた。その若衆には被差別部落出身者や在日朝鮮人が多かった。そうした若衆の家は食うや食わずの極貧の暮らしぶりだった。その上、差別もひどく、まず就職口がなかった。寺村の若衆や労務者がよく「わしら土方になるか、ヤクザになるか、そのどっちかや」と言っていた。(上34-35頁)

(5)開放的なエネルギーは次第に整序されていった:「五五年体制」確立!
L 私はこういう人たちのなかで育った。負の烙印ばかりを背負った人間の寄り集まりだったが、家柄にも身分にも頼れない裸一貫の生活力と、生きる知恵はあった。そして心の通い合いもあった。猥雑で直截で、時にはグロテスクでもあったが、人と人との関係はともかく濃く熱かった。(Cf.  開高健(1930-1989)『日本三文オペラ』1959年、29歳。)(上41頁)
M  だがこうした熱は次第に冷めていき、開放的なエネルギーは次第に整序されていった。1955年、①日本民主党と自由党の保守合同で自由民主党結成、②左右両派社会党の統一、③日本共産党六全協(第6回全国協議会)で「極左冒険主義」を自己批判。かくて「五五年体制」確立。(上42頁)
N  親父や祖父の血が発現しかかったのか、小学三、四年(9-10歳、1954-1955年)の頃には私はいっぱしの悪童になっていた。(上43頁)

《感想1》敗戦後の混沌とした時代(1945-1955)の日本社会の一断面だ。1956年度『経済白書』は「もはや戦後ではない」と述べた。
《感想2》日本経済は「朝鮮特需」(1950-1953)を経て、「神武景気」(1954/12-1957)以降、高度経済成長期(1955-1973)に入る。
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