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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その2)「行為」の問題における「ヘーゲルの制限」:「生産」の問題、「技術や道具や機械」の問題をヘーゲルはとり上げない!

2024-07-03 11:42:18 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その2)(189-191頁)
(41)-5 「行為」の段階を、ヘーゲルは「理性的自己意識の自己自身による実現」と呼ぶ!
★金子武蔵氏が2「行為」の問題と呼ぶのは、ヘーゲル『精神現象学』の目次では、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」B「理性的自己意識の自己自身による実現」に相当する。ヘーゲルのこの見出しはあまりに分かりにくいので「行為」という言葉を使ってみたと金子武蔵氏が言う。(189頁)

★もっとも「行為」と言うのにも、ヘーゲル『精神現象学』のテキストに根拠がないわけでない。ヘーゲルはこの段階(「理性的自己意識の自己自身による実現」)を「能動的行動的理性」die tätigeVernunftとも呼んでいるからだ。(仏のイポリットはこの「行為」の段階をLa raison active と呼ぶ。)(189-190頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

(41)-6 「行為」を論ずる場合の「ヘーゲルの制限」:「生産」の問題、また「技術や道具や機械」の問題をヘーゲルはとり上げない!
★さて「行為」には「社会性」がからまって来る。しかし2「行為」の段階((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」B 「理性的自己意識の自己自身による実現」)では、ヘーゲルにおいて、「行為」は「個人」のものとして考えられている。(190頁)
☆だが「社会性」まで考慮すると、3「社会」も、2「行為」のうちに包含されるべきことになる。かくて2「行為」と3「社会」をひとまとめにすることもできる。(190頁)

☆金子武蔵氏の3「社会」は、ヘーゲル『精神現象学』の目次では (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)に相当する。(205頁)

★かくて3「社会」も、2「行為」のうちに包含されるべきだとの観点からすると、「行為」を論ずる場合の「ヘーゲルの制限」が明らかだ。(190頁)
☆すなわち「行為」を考えようとすると、「技術的行為」の問題、したがって「道具や機械」の問題、また後にマルクスが問題にした「生産」の問題、即ち「人間が人間であるのは生活資料を自分自身で生産するところにある」という場合の「生産」の問題が取り上げられるべきだ。(190頁)
☆だがヘーゲルは、ここで、つまり2「行為」の段階((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」B 「理性的自己意識の自己自身による実現」)では、「行為」は「個人」のものとして考えられ、「技術的行為」の問題、したがって「道具や機械」の問題、また後にマルクスが問題にした「生産」の問題をとりあげていない。(もっともマルクスは「超越論的主体」など、考えはしない!)(190頁)

★しかしとにかく「人間の行為」を問題とするならば当然「生産」の問題、したがってまた「技術や道具や機械」の問題も取り上げてしかるべきだ。だがヘーゲルはとり上げていない。(190-191頁)

★こうした問題(「生産」の問題)は、①「感覚的確信」や「生命」の段階においてすでにとりあげるべきだった。(金子武蔵氏)(190頁)

《参考1》「感覚的確信」の考えというものは、じつはその裏には「キリスト教の受肉の教義」をもっている。「『この人間』も単なる人間でなく、神が肉を受けてなったもので、『絶対的な実在性』をもっているものだ」という「受肉の教義」と関係があることだが、かかるこの「個別者」はヘーゲルも認めている。(96頁)
《参考1-2》「個別的主体」の存在は、「受肉 incarnation 」の教義を強調するヘーゲルにおいて相当強く認められ主張されている。ヘーゲルは決して「個別者」を全然否定しているのではない。(95頁)

《参考2》「生物」(有機体)における「『感受性』と『反応性』と『再生』との関係」のうちでは、「再生」がもっとも根本的で、「個体」として、また「種族」としての自分自身の生命を維持させ、また繁殖させる能力だ。(174頁)

★さらにこうした問題(「生産」の問題)は②「主奴関係において論ぜられた労働の問題」からも当然出てくるはずのものだが、ヘーゲルはそれ以上、取り上げ展開することがない。(191頁)

《参考3》ヘーゲルは「自由」を「奴」の方から説こうとする!むしろ「奴」の方が自己の「無限性」をつまり「真の自由」を実現する!「奴が主となり」、つまり「主奴の関係は逆転する」! 
☆かかる理由(「主もかえって奴に依存している」or「主は奴になり、奴は主になる」)から、ヘーゲルは「自由」をむしろ「奴」の方から説こうとする。(141頁)
☆これについて、ヘーゲルは①「畏怖」と②「奉仕」と③「形成」との3点をあげる。(141頁)
①「畏怖」:「奴隷」は「主人」をおそれる(「畏怖」)!
☆これは「死」をおそれることだ。いうことをきかないと「権力によって殺される」から、「奴隷」は「死」をおそれている。「奴」は「絶対的な恐怖」(「畏怖」)のなかに、「おそれとおののき」(「畏怖」)のなかにいる。(141頁)
☆「奴隷」はがんらい「生命」に執着したものだが、しかし「おそれとおののき」(「畏怖」)のうちにあることによって、その執着を震駭(シンガイ)(Cf. 侵害)されている。(141頁)
☆「奴隷」は「主人」が恐ろしい(「畏怖」)から服従して、「飲み食い眠るという欲望」さえおさえているが、この服従はかえって「個別性への執着」をたちきるものだ。(141頁)

②「奉仕」:「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」!
☆「畏怖」(「主人」をおそれる)(「権力によって殺される」という「死」の「絶対的な恐怖」)(「おそれとおののき」)だけではまだ内面的主観的だ。この「畏怖」の「そとに(※客観的に)あらわれ実証されたもの」が「奉仕」だ。「奉仕」によって、「食いたい眠りたい」という具体的の(※主観的な)「欲望」を「現実的に客観的に」のりこえている。(141頁)

③「形成」(「労働」)(※対象化):自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換することor「労働」!
☆「奉仕」もまだ「個別的断片的」であり、また「自分の身にそくしたもの」であるという意味で「主観的」だ。これがもっと「客観的」にあらわれたものが「形成」(「労働」)だ。(141-142頁)
☆「主人」は「対自存在」であり、「享楽」においてあり、「無限性」を実現している。(142頁)
☆しかし「主人」の「享楽」は消えていく。しかるに「奴隷」はせっせと働き、他物に働きかけてこれを「形成」してゆくことによって、自分の「主観的内面的」のものを「客観的」なものに転換してゆく。(※「労働」or「労働」の対象化!)(142頁)

《参考3-2》「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」!「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」は消えてゆく!
☆したがって「対象的、客体的なもの」(②「奉仕」)に依存して「奴」であったものも、せっせと「労働すること」(③「形成」)によって、かえって「主体的にえがいたもの」を「客体的」に実現し、その結果として「客体から解放される」。(142頁)
☆つまりいろいろの「技能や知識」が得られ、これによって「対象はもはや他者ではなくして自分のものであるという確信」、即ち「無限性」が生まれてくる。(142頁)
☆この「奴」の「労働における無限性」が存続するのに、「主」の「享楽における無限性」はあとかたもなく消えてゆく。(142頁)
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