DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その1):「人格」(「主体」)は、「行為する」ことにおいてのみ存在する(ヘーゲル)!「人格」は「超越論的主体X」だ(カント)!

2024-07-02 18:22:51 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その1)(187-189頁)
(41)「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」・「統一」である!「観察」の問題および「行為」の問題!
★「精神」は「対象的に見られる」ものでなく、むしろ「働き」としてのみ存在するから、「観察」に対して、さらに「行為」が問題となる。(193頁)
★「行為」は、全体から見れば、(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」の段階に属する。この段階は、A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)からなる。(187頁)

★この「理性」は、「対象意識」と「自己意識」の「綜合」であり「統一」である。(187頁)
☆そこでおのずから「理性」自身が、一方では「対象意識」に即して展開される。そこに「観察」の問題が生じる。(A「観察的理性」!)(187頁)(※これについては、既述!)
☆これに対して、他方で「自己意識」の側面においても、「理性」は展開されなくてはならない。(187頁)
☆そうしなくては「理性」のもっている「確信」を「真理」にまで高めることはできない。(187頁)
☆かくて「行為」の問題が出てくる。(187頁)

《参考》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考(続) 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」

(41)-2 「観察」は「範疇」(「理性」)を「対象あるいは存在」に即して展開し、また「行為」は「範疇」(「理性」)を「自己あるいは主体」に即して展開する!  
★「理性は範疇である」という観点から言うと、「観察」は「範疇」(「理性」)を「対象あるいは存在」に即して展開した場合であり、また「行為」は「範疇」(「理性」)を「自己あるいは主体」に即して展開した場合である。(188頁)

《参考》「理性」をヘーゲルは「カテゴリー」(「範疇」)とも呼ぶ。「範疇」(「カテゴリー」)がどう考えられているかというと、それはカントから来ているが、カントの「範疇」そのままではない。カントにおいては「範疇」は「直観」に対立するもの、詳しくいえば、「直観」に対立する「純粋悟性概念」だ。しかしヘーゲルは、どんな場合でも「対立」は「綜合」に進むべきであるとするので、「範疇」も単に「直観」に対立するものにとどまらない。すなわち「直観」と結びついたもの、したがってカントの「図式」Schema、さらにこれを命題化した「超越論的原則」を、ヘーゲルは「範疇」と考える。(159頁)

(41)-3 「無限判断」とは、主語と述語が、「結合」において「無限」であると同時に、「分離」においても「無限」であるものだ!「観察」の立場、特に「頭蓋骨」の立場が「結合」の面だけ見て、「分離」の面を忘れていたことが、「観察」から「行為」の問題に移っていく理由だった!
★「観察」から「行為」への移りゆきをなすものは、「無限判断」ということに帰着する。(188頁)
☆「無限判断」とは、主語と述語が、「結合」において「無限」であると同時に、「分離」においても「無限」であるものだ。(188頁)
☆「観察」の立場、特に「頭蓋骨」の立場が「結合」の面だけ見て、「分離」の面を忘れていたということが、「観察」から「行為」の問題に移っていかなくてはならない理由だった。(188頁)

《参考1》「観察的理性」:「理性が物であり、物が理性である」!ヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている!「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)は「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている!(186頁)
☆(A)「『観察的理性』は『頭蓋骨』において『精神』の表現をみる」。「頭蓋論」(「骨相術」)は、根本的にいうと「理性が物であり、物が理性である」ということにその根拠を持つ。この根拠によって立つものが「観察的理性」にほかならないのだから、「頭蓋論」は「観察的理性」の極限であり完成だ。(186頁)
☆(B)「理性が物であり、物が理性である」というときの「物」は、「からだ全体」であってもよいし、また「物質的生産力」のごときものであってもよい。ここでヘーゲルは「精神物理学」的立場や「唯物論」にもその意義を認めようとしている。(186頁)
☆(C)しかし「精神や理性が物である」のは「無限判断」の「肯定面」において成立することにすぎない。「無限判断」には、もう一つ「否定面」がある。「無限判断」は「肯定判断」であると同時に「否定判断」だ。(186頁)
☆しかも「結合」においても「分離」においても「無限」だ。(186頁)
☆「否定面」からすると、「精神・理性・自己」に対する「物」、その極限としての「骨」は、「分離」したものだが、この「分離」の面を「頭蓋骨論」(「骨相術」)は忘れていると、ヘーゲルは言う。(186頁)
☆即ち、たしかに「唯物論」(or「頭蓋骨論」or「精神や理性が物である」)も成り立ちはするが、それは「結合」の一面だけを見て、「分離」の面を全然、忘れている。(186頁)

《参考2》カントは『純粋理性批判』「超越論的論理学」「超越論的分析論」の「判断表」で、判断の「質」に関して、「肯定判断」と「否定判断」加えて、第三の「無限判断」の意義を強調している。カントの原典では次のようになっている。「もし私が魂について、それは《死すべきものではないもの》であると言うのならば、或る一つの否定的な判断を通じて私は少なくとも一つの誤りを防いだことになるであろう。というのも、この『魂は《死すべきものではないもの》である』という文によっては、私は魂を《死すべきものではないもの》という無制限(※「無限」)の領域に置いたわけだから、たしかに論理的な形式からは実際に肯定したのである。」またカントは「[否定的述語によって排除された]この残余の領域が無限であるがゆえに、この判断は無限判断と呼ばれる」と述べる。(伊野連)
《参考2-2》「『AはBではない』(A ist nicht B)、『Aは非Bである』(A ist nicht-B)。前の命題(『AはBではない』)において、命題は否定的である。後ろの命題(『Aは非Bである』)においては非B(Nicht-B)が全体が一つであり、命題は肯定的である。そして、非Bとは、その述語あるいは指標(Merkmal)にはBは属さない、と言いうるような概念を表している。しかしだからといってこの概念は、まだ積極的な(positive、具体的)あるいは一定の仕方で明らかになっているわけではないゆえに、論理学においては非Bは無限述語と呼ばれている」(ランベルト)

(41)-4 「人格」とか「自己」(「主体」)は、「行為する」ことにおいてのみ存在する(ヘーゲル)!Cf. 「人格」とは「超越論的主体X」だ(カント)!
★かくて「観察」から「行為」の問題に移っていくが、なぜ「行為」を考えなくてはならないのか?(188頁)
☆「人格」とか「自己」(「主体」)というものは、「対象的理論的」にのみ見ることができるものでなく、ただ「実践し作用する」ことにおいてのみ、すなわち「行為する」ことにおいてのみ存在する。(188頁)

★ヘーゲルを離れて、カントによれば「人格」とは「超越論的主体X」だ。我々はいろいろの「作用」を行っている。たとえば「表象する」、「認識する」、「意志する」、「感情をいだく」など。そういうときに、これらの「作用」を担うなにか究極的な「主体」があるべきはずだが、その「主体」自身は「見られ考えられる」(※「観察」する)ことができない。(188頁)
☆「我考(オモ)うゆえに我在り」というときの「我」自身も、もはや考えられた(※「観察」された)ものではなく、考えられた(※「観察」された)限りにおいてはもう「対象」になってしまっている。(188頁)
☆「考える我」を考えようとすれば(※「観察」しようとすれば)、「主体」(「我」)自身はうしろへうしろへ退いていってしまう。(188-189頁)
☆したがって「主体」や「人格」は「見られる考えられる」(※「観察」される)ことのできないものであり、それは端的に「X」であって、なにをしようともこの「X」として我々は「作用」を行っているが、しかしそれ自身(「主体」や「人格」)がどういうものかこれを「見る」(※「観察」する)ことができない。(189頁)

★「人格」というものは、ただ「作用」においてのみ「体験」されるものであって、(「観察」し)「対象」化することはできない。そのことを「超越論的主体X」という概念を使って表すことができる。(189頁)
★このように「主体」とか「人格」とかいうものは、ただ「行為する」・「作用する」ということによってのみ存在し、したがってそのこと(「行為」・「作用」)を通じてのみ認識されうる。だから「観察」のほかに、「行為」の問題が出てこなくてはならない。(189頁)

《参考》超越論哲学(Transzendentalphilosophie )(先験哲学)とは経験を超えて超越論的に経験の成立条件を問うカントの哲学。カントはさらに自分の立場を超越論的観念論と規定する。それは「すべての現象を物自体としてではなくて単なる表象とみなし、したがって時間と空間を物自体としての対象の自体的に与えられた規定や条件とみるのではなく、われわれの直観の単に感性的な諸形式とみる学説」(カント)である。
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... | TOP | 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 日記