DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その3):「行為」および「社会」の問題で、ヘーゲルにとって「恢復せらるべき実体性」すなわち「目標」は、「人倫」だ!

2024-07-04 12:34:23 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」2「行為」(その3)(191-192頁)
(41)-7 「ヘーゲルの制限」:(a)「数学的自然科学」の問題、(b) 「生産・技術・道具・機械・分業など」の問題がほとんど全く取り扱われていない!
★とにかく(a)「人間の行為」を問題とするならば当然「生産」の問題、したがってまた「技術や道具や機械」の問題も取り上げてしかるべきだ。だがヘーゲルはとり上げていない。(190-191頁)
☆これについては(b)「観察的理性」の段階において、ヘーゲルが「ルネッサンス以後の近代的理性の理論的方面」を論じるにあたり、「数学的自然科学」の問題が取り扱われるはずにもかかわらず、ほとんど全く取り扱われていないことと平行する。(191頁)
☆これら((a)(b))は「ヘーゲルの制限」を示すものであり、(a)「生産・技術・道具・機械・分業など」の問題をとり上げていないというヘーゲルの欠陥に対して、その欠陥を補うため「マルクスその他の人々」がどうしても出てこざるをえなかったのだ。(191頁)

《参考》ヘーゲルの「自然観察」の段階の議論は、その大部分が「有機体」の観察に限られ、「数学的自然科学」がほとんど問題となっていない。ここには「ヘーゲル哲学の限界」が示されている。(166頁)
☆ヘーゲル哲学の基礎には「クリスト教の信仰」があり、したがって「精神」(「理性」)といっても、根本的には「宗教」や「道徳的生活」において働いているものであって、むろん「自然」のうちにも働いているにしても、それ(「自然」のうちに働いている「精神」)は「堕落した形における精神」にすぎない。(166頁)
☆ヘーゲルにおいては、「自然界」にも「理性」と「法則」があるにしても、それらが明瞭に観察されるのは、比較的「人間」に近い「有機体」の場合に限られるということになる。(166頁)

(41)-8 「行為」および「社会」の問題において、ヘーゲルにとって「恢復せらるべき実体性」すなわち「目標」は、「人倫」しかも「宗教的色彩の濃厚な人倫」だ!
★こういう「ヘーゲルの制限」((a)(b))は、ヘーゲルの行論の「目標」が何にあるかで決まってくることだ。(191頁)
☆さて歴史哲学的にいって『精神現象学』の全体を通じて、「実体性」の段階と「反省」の段階と「実体性恢復」という3段階の区別が重要だ。(191頁)
☆いまの「行為」および「社会」の問題に対し、ヘーゲルにとって「恢復せらるべき実体性」すなわち「目標」は、「人倫」しかも「宗教的色彩の濃厚な人倫」だ。(191頁)

《参考1》さて「行為」には「社会性」がからまって来る。しかし2「行為」の段階((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」B 「理性的自己意識の自己自身による実現」)では、ヘーゲルにおいて、「行為」は「個人」のものとして考えられている。だが「社会性」まで考慮すると、3「社会」も、2「行為」のうちに包含されるべきことになる。かくて2「行為」と3「社会」をひとまとめにすることもできる。(190頁)

《参考1-2》金子武蔵氏の3「社会」は、ヘーゲル『精神現象学』の目次では (C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)に相当する。(205頁)

《参考2》「カントの『人格』とヘーゲルの『人倫』の意味がつかめない。二つが混ざってしまってどっちかわからなくなってしまう」との質問に対する「進研ゼミ」の回答:カントの「人格」は自律的に(自発的に)行動するという、人間の側面・性質。これに対しヘーゲルの「人倫」は道徳や法といった、「社会のルール」を統合したもの。カントの「人格」とヘーゲルの「人倫」は大きく違う。ごく大まかには、カントの「人格」とは、「人間らしさ」のことであるのに対し、へーゲルの「人倫」とは「社会のルール」のことだと考えておいてもよい。

《参考3》「人倫」とは一般に「1 人と人との間柄・秩序関係。君臣・父子・夫婦などの間の秩序」、「2 人として守るべき道。人道」、「3 ひと、身内、人類、人間一般」などの意味だ。また「人倫」とは「儒教」では,君臣,父子,夫婦,長幼,朋友の間の道徳的秩序としての人間の倫理を意味する。Cf. 「倫」は,人として守るべき秩序,道理。

《参考3-2》「人倫」はヘーゲルの「 Sittlichkeit」の訳語としても用いられる。「人倫」は、家族,市民社会,国家において実現される「客観的な倫理」であり、「良心の命令に従う主観的な道徳」である「 Moralität (個人的道徳性) 」と対比される。

★「行為」および「社会」の問題において、ヘーゲルにとって「始点」は「中世クリスト教を通過して出てきた近代的理性」だが、これがその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だ。(191-192頁)

《参考4》『精神現象学』には「歴史哲学」がはいっているが、この点からすると、「自然観察」の段階は「ルネサンス時代から近代の自然研究」を取り扱ったものだ!「中世のアセティスィズム(禁欲主義)」があって初めて「近世的な理性」が生まれた!(163頁)
☆このことはB「自己意識」の最後の段階のB「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(※金子武蔵(二)「自己意識」3「自由」)との関係からして明らかだ。(163頁)
☆「不幸なる意識」は「中世クリスト教」を材料としたものであって、そこでは人間は「超越と内在」、「普遍と個別」、「主体と客体」などの矛盾に苦悶する。(163頁)
☆しかし「不幸なる意識」(「中世クリスト教」の宗教意識)は徹底した「アセティスィズム」を敢行することによって、これらの矛盾を克服し、「あらゆる実在性である」という確信を抱く。(163頁)
☆かくて「自己意識」は、「不幸なる意識」(「中世クリスト教」の宗教意識)としてこれまでのように「超越的なもの」に拘束せられず、また「内面的な世界」にもとじこもらないで、「現実の世界」のうちに足を踏み入れ、そうしてまず最初には「自然の観察」を行うというわけだ。(163頁)
☆歴史哲学的には、『精神現象学』のうちにはいつも「実体性の段階」と「反省の段階」と「実体性恢復の段階」とがある。「観察の段階」も背後に「実体性の段階」として「中世クリスト教」を負うている。しかしまさにここにヘーゲルの特色もまた弱点もある。(163頁)

《参考4-2》「不幸なる意識」(クリスト教的意識)とは、「個別的可変者」(人間)と「普遍的不変者」(神)との「分裂」からおこる「不幸」を克服していない意識だ。(150頁)

★「近代的理性」がその誕生の背後に負うている「実体性」は「信仰」だが(「実体性の段階」)、これに「反省」が加えられ(「反省の段階」)、「分裂」が生じ、いろんな段階が定立される。1「観察」も、2「行為」も、3「社会」も、またそれぞれの小区分も、かくして生じたものにほかならない。(192頁)

★「反省」(「反省の段階」)によって生じた「分裂」を通じて「恢復されるもの」は再び「実体的なもの」だが(「実体性恢復の段階」)、この「恢復せらるべき実体性」(ヘーゲルの「目標」!)は究極的には「クリスト教」だ。(192頁)
☆(C)「理性」(DD)「絶対知」のすぐ前に、(CC)「宗教」C「啓示宗教」があるのは、このためだ。(192頁)

★しかし(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」(金子武蔵氏)の段階において、あるいはさしあたって2「行為」3「社会」とによって到達されるべきものは「人倫」だ。(192頁)

Cf.  金子武蔵氏の (三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」の段階は、ヘーゲル『精神現象学』では(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)である。

★「人倫」には「古代的」と「近代的」との2つがある。(192頁)
☆「近代的」なものは「人倫」というよりむしろ「道徳性」といわれるもので、それが詳しく論じられるのは、ずっと後の(C)「理性」(BB)「精神」の最後の段階であるC「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)においてだ。(192頁)

☆これに対して(三)「理性」2「行為」3「社会」(金子武蔵氏)の段階において、さしあたって「恢復されるべきもの」すなわち「目標」は「古代的人倫」だ。あるいは『精神現象学』のテキストに出ている表現通りに言うならば、ヘーゲルが感激を込めて描いているところの古代ポリスに実現された「人倫の国」だ。(192頁)

《参考5》ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)(1770-1831)は、領邦分立の状態からナポレオンの侵攻を受け「ドイツ統一」へと向かい始める転換期を歩んだ。「神聖ローマ帝国」の領邦国家「ヴュルテンベルク公国」の首都シュトゥットガルトでプロテスタント家庭の官吏の息子に生まれる。1788年、チュービンゲン大学に入学。ヘルダーリン、シェリングと交友関係を築く。1807年に『精神現象学』を刊行。折しも、1806年「イエナ会戦」で「プロイセン王国」がナポレオンに敗北した。フランス軍によるイエナ占領のなか行進中のナポレオンを目撃したヘーゲルは、ナポレオンを「馬上の世界精神」と評した。(1806年「神聖ローマ帝国」は解体され「ライン同盟」が成立。帝国の皇位は「オーストリア帝国」に移った。また「プロイセン王国」支配下の領土は帝国から離脱し、それ以外の全ての小国は「ライン同盟」の傘下に移入。)ヘーゲルは1811年(41歳)、都市貴族の娘と結婚、幸福な家庭生活を享受し、二人の男子をもうけた。1816年、ハイデルベルク大学の教授職を手に入れ、学問的評価を確立していく。二年後の1818年、ベルリン大学の教授に招かれた。ヘーゲルは、数々の講義を担当し学生の心を捉えてヘーゲル学派を形成した。ヘーゲルは、「プロイセン改革」(1807-1822)すなわちシュタイン首相(任1807-1808)とハルデンベルク首相(任1810-1822)等の改革を支持したことによりプロイセン政府の好感を手にし、急進的なブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)運動を抑止する目的で、1829年ベルリン大学総長に選出された。1831年当時猛威を奮っていたコレラに倒れ、ヘーゲルは急逝した(61歳)。

Cf. 「ブルシェンシャフト」(ドイツ学生同盟)運動:ウィーン体制(1815-1848)下のドイツで学生が中心になって起こした自由と統一を目指す自由主義・国民主義の運動。1815年、ナポレオン戦争の戦場帰りの学生を中心に新しい学生組合「ブルシェンシャフト」が創立された。彼らは自分たちの祖国としてただ一つのドイツあるのみ、としてスローガンは「名誉、自由、祖国」とし、旗印に黒・赤・金(解放戦争の一義勇軍団の軍服の配色に由来する)の三色旗を掲げた。1819年以後、メッテルニヒによって弾圧された。

《参考5-2》「プロイセン改革」(1807-1822)あるいは「シュタイン・ハルデンベルクの改革」:1806年「イエナ会戦」でナポレオン軍に敗れたプロイセン王国でなされた「上からの近代化」改革。1807年からシュタインとハルデンベルクによって指導され、農奴解放・教育改革・軍政改革などの「上からの改革」を進めた。ナポレオンとの戦争に敗れて締結したティルジット条約(1807)はプロイセン王国にとって「ティルジットの屈辱」と言われ、敗戦の原因たる国内の「封建的な体制」を改め、フランスに倣った「国民国家」をドイツに実現することが急務とされた。シュタイン首相(任1807-1808)とハルデンベルク首相(任1810-1822)によって、①「農民解放令」による身分制改革、②「内閣制」の確立などの行政機構改革、③都市自治の拡充などの地方行政改革、④「営業の自由」・「国内関税の廃止」・税制見直しなどの経済性改革などが進められた。並行して、シャルンホルストとグナイゼナウによる⑤傭兵制から「国民皆兵制」への軍政改革、⑥フンボルトによる教育改革などの一連の改革が推進された。これらの改革によって、プロイセンは近代的な「国民国家」としての枠組みと「資本主義経済」成立の前提としての自由経済体制が一応できあがり、19世紀後半の「ドイツ統一」(1871)への準備ができたといえる。しかしこの改革は「はじめにナポレオンありき」と言われ、外的要因によって「上からの改革」として打ち出された。その結果、「貴族・ユンカー階級」は解体されず身分制社会の枠組みは温存され、「議会制度」も「憲法」も生み出されなかった。しかし一連の「プロイセン改革」(1807-1822)は、ドイツの統一を実現しなかったが、ドイツの国民意識を喚起し「ドイツ国民」を創出したと言える。ベルリンで行われた哲学者フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」という連続講演(1807-1808)は、ドイツ人の愛国心を呼び起こした。

《参考6》ヘーゲル『精神現象学』の目次!(333-336頁)
(A)「意識」:Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」

《参考6-2 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... | TOP | 金子武蔵『ヘーゲルの精神現... »
最新の画像もっと見る

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

Recent Entries | 日記