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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9):(ホ)「論理学的心理学的法則」!最初には「精神」は「思考」と解せられ、「論理学的法則」が求められる!

2024-06-27 12:30:42 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(三)「理性」1「観察」(その9)(181-182頁)
(39)「外は内の表現である」という命題:(ホ)「論理学的心理学的法則」!「自然」のうちには「概念」は見いだされない!「精神」のうちに「外は内の表現」という法則(「概念」)を求める!最初には「精神」は「思考」と解せられ、「思考の法則」(「論理学的法則」)が求められる!
★「自然的なもの」については「外は内の表現」という法則は見いだされないから、「観察」は「精神」のうちにそれ(「外は内の表現」という法則)を求める。(181頁)

《参考》「観察」の見地((C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」)からいうと、いままでは「観察」されるものは「自然」であり、そのうちには「概念」は見いだされえないという結論がえられた。これからのちは、この結論にしたがって、「自己意識」あるいは「精神」の「観察」に向かい、そこに果たして「概念」あるいは「理性」が見いだされうるかが考察される。(180頁)

☆今や「観察」は、「精神」のうちに「外は内の表現」という法則を求めるが、最初には「精神」は「思考」と解せられ、「思考の法則」(「論理学的法則」)が求められる。(Cf. その後、「心理学的法則」が求められる。)(181頁)

★「思考の諸規定」はヘーゲルにとっては、彼が「論理学」において示したように、「三一的統一」(Cf. 正・反・合)をもって貫かるべき「弁証法的」運動においてのみ「統一」を形づくるべきものだ。(181頁)
☆したがって「個別態が特殊態を通じて『普遍態』に、すなわち『具体的普遍としての個別態』になる」のであり、「主体も主体自身にはとどまらず、客体との対立におちいりながら、この対立が帰一する」のだから、ここにこそ「『外なるもの』は『内なるもの』の表現」ということが成立しうるべきはずだ。(181頁)

《参考》ヘーゲルの方法は「弁証法」であるが、これは「正・反・合というような形式」を内容にそとから押しはめるのではない。「弁証法」は内容そのものに即して考えてゆけば、内容がおのずからそういうプロセスを取らざるをえないような、そういう形式だ。「弁証法」は決して内容から離れたものでもないし、内容に外から押しつける雛型のようなものでもない。(83-84頁)

(39)-2 「論理的法則」(or「思考の諸規定」):「自」は「他」から「区別され分離される」と同時に、「結合」もされている!「自」と「他」とのいずれに対しても、「Grunt」即ち「根拠」なり「理由」なりの意味をもつものがあり、これにおいて「自」も「他」も成立している!
★しかしいまここでは「理性」が「観察」の立場をとっているために、「思考の諸規定」も「対象」化せられて、それぞれ「別々のもの」として受けとられて、「思考の諸法則」となっている。たとえば「同一律」や「矛盾律」や「理由律」も関連づけられずに、それぞれ別個のものとされバラバラになっている。(181頁)
☆しかしそれぞれの間に関係が全然ないわけでもないのだから「外は内の表現である」(Cf. 「内は外の表現である」と金子武蔵氏は書いているが誤りか?)ということがある程度までは成立している。(181頁)

★テキスト(ヘーゲル『精神現象学』)には、①「同一律」・「矛盾律」・「理由律」という実例はあげられていない。また②「論理的法則」の箇所が「外なるものは内なるものの表現」という基本命題と明確に関係づけられているわけでもない。そこで今少し説明する。(金子武蔵氏)(181頁)

★「AがAである」、即ち「自は自である」というのが「同一律」の意味だ。これに対して「Aが、AであるとともにAならぬものであることはない」というのが「矛盾律」の意味だ。(181-182頁)
☆しかしおよそ「自」は「他」なくしてありえない。「自」は「自」であって「他」ではないにしても、「他」なくしては「自」もまたありえない。だから「自」は「他」から「区別され分離される」と同時に、「結合」もされている。(182頁)
☆すると「自」と「他」とのいずれに対しても、「Grunt」即ち「根拠」なり「理由」なりの意味をもつものがあり、これにおいて「自」も「他」も成立しているということなる。そこに「理由律」が意味をもってくる。(182頁)
☆すると「同一律→矛盾律→理由律」の関係は、「個別態」が「特殊態」をへて、「普遍態」あるいは「具体的普遍としての個別態」にいたるという関係と同じことになる。

☆したがって「『主』もまた『主』でありながら、『客』との対立にまきこまれ、そうしてこの『対立』が『統一』に帰入することになる」のだから、「外なるものは内なるものの表現」ということが成立しうる。(182頁)

(39)-2-2 「意識」はヘーゲルにおいて「理論的」たるにとどまらず「実践的」であり、「論理的意識」が同時に「心理的意識」としての意味を持つ!
★以上のようにここには「弁証法的運動」があり、したがって「『具体的普遍としての個別』の自己展開」がある。(182頁)
☆しかし以上のような「弁証法的運動」があり、したがってこれが「『具体的普遍としての個別』の自己展開」という意味をもちうるは、「意識」がヘーゲルにおいてただ単に「理論的」たるにとどまらず同時に「実践的」であり、「論理的意識」が同時に「心理的意識」としての意味を持つことによる。(182頁)
☆そこでおのずとヘーゲルは「心理的法則」に移って行く。(182頁)

《参考》「同一律」・「排中律」・「矛盾律」・「理由律」!
☆「同一律」(自同律):任意の命題Aについて「AはAである」という原理。
☆「排中律」:任意の命題Aについて「AかAでないかのいずれかである」(「Aまたは非Aである」)という原理。
☆「矛盾律」:任意の命題Aについて「Aは非Aでない」という原理。ある命題とその否定命題が同時に成り立つことは無いという原理。
☆「理由律」(「充足理由の原理」):「事実の真理を保証するためには、十分な理由がなければならない」or「何ものも根拠のないものはない」とする原理。推理の真理を保証する「矛盾律」と並ぶ二大原理としてライプニッツによって提唱された。
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