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藤田正勝『西田幾多郎』(その14):「東洋文化を背景として新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」!「日本精神」は「世界的」なものでなければならない!

2021-08-28 18:16:00 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(8) 東洋文化(印・中・日)の根柢:「形なきものの形を見、声なきものの声を聞く」!日本文化は「無限に動くもの」に目を向ける「情の文化」だ!(162頁)
H  『働くものから見るものへ』(1927年、57歳)「序」で西田は「東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが潜んで居る」と言う。(162頁)
H-2  論文「形而上学的立場から見た東西古代の文化形態」(1934年、64歳)で西田は西洋文化が「有を実在の根柢と考える」のに対し、東洋文化(インド、中国、日本)は「無を実在の根柢と考える」、つまり「無の思想」だと言う。(164頁)
H-2-2 インドの無の思想は「知的」、中国の無の思想は「行(ギョウ)的」、日本の無の思想は「情的」だと西田は言う。(164頁)
H-2-3 日本文化が「情的文化」だとは、形をもった「有」として固定化できない「無限に動くもの」に目を向け、把握し、表現しようとすることだと西田は言う。「形なき情の文化」!(166頁)

(8)-2 「東洋文化を背景として新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」!「日本精神」は「世界的」なものでなければならない!
H-3 1937年、盧溝橋事件とともに 日本は日中戦争に突入する。その年、西田は「学問的方法」という講演を行い、また1938年「日本文化の問題」という連続公演を行い、それらをもとに1940年『日本文化の問題』(岩波新書)を出版した。
H-3-2 その中で、西田は「我々はいつまでも唯、西洋文化を吸収し消化するのでなく、何千年来我々を孚(ハグク)み来った東洋文化を背景として、新しい世界的文化を創造して行かねばならぬ」と言う。(167頁)
H-3-3 また西田は言う。「日本は世界に於て、只特殊性・日本的なものの尊重だけではいけない、そこには真の文化はない。・・・・つまり自家用の文化ではいけない。自ら世界的な文化を造り出さねばならぬ。」(169頁)
H-3-4  西田は、「日本精神」は「世界的」なものでなければならないと言う。そして「日本精神」が「世界的空間的となる」ためには「厳密なる学問的方法によって概念的に構成せられることでなければならない」と述べた。(169頁)
H-3-5  西田は「日本も・・・・皇室を中心として自己同一を保って来た。そこに日本精神というものがあった」と言う。そして「今の日本はもはや世界歴史の舞台から孤立した日本ではない。・・・・皇道は世界的とならなければならない。・・・・世界的原理を創造せねばならい」と言う。(173-174頁)
《感想》「皇道は世界的とならなければならない」とは、「世界的原理を創造する」にあたって、日本は独自の貢献をしなければならないという意味だ。
H-3-6  実際、西田は言う。「真の国家は、他の民族に対して、共に自己自身を形成する歴史的世界の自己形成の立場に於て結合するのである。・・・・単に排他的なる民族主義から出て来るものは、侵略主義と帝国主義との外にない。帝国主義とは民族利己主義の産物である。」(「哲学論文集第四補遺」1944年)(175頁)
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藤田正勝『西田幾多郎』(その13):「宗教」こそ「哲学の終結」である!《自己》と《自己を超えたもの》との矛盾的な関係としての「逆対応」!「平常底」(ビョウジョウテイ)!

2021-08-28 16:09:28 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(7) 西田は『善の研究』(1911年、41歳)で、宗教こそ「哲学の終結」であると述べた!(142-143頁)
G 西田は初期から晩年まで「宗教」の問題に深い関心を寄せ続けた。(142頁)
G-2 西田は『善の研究』(1911年、41歳)で、宗教こそ「哲学の終結」であると述べた。(142頁)
G-2-2  西田は晩年しばしば《自分の体系をしめくくるものとして宗教論を書きたい》と語っていた。それを実現したのが最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年、75歳)だった。(142頁)
G-2-3  種田山頭火(1882-1940)に「へうへう(飄々)として水を味(アジハ)ふ」の句がある。西田が「宗教」の究極に見ていたのは、そのような《ごく普通の行為》、《ごく普通の生の営み》だった。(142-143頁)

(7)-2 「逆対応」:《自己》と《自己を超えたもの》との矛盾的な関係!(143-155頁)
G-3 西田は、論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945、75歳)で「宗教的意識と云うのは、我々の生命の根本的事実として、学問、道徳の基でなければならない」と述べる。(143頁)
G-3-2  論文「経験科学」(1939年、69歳)では、哲学も宗教も《「全自己の立場」に立つこと》が求められると西田は言う。《世界を外から眺める》のでなく、「ポイエシス(制作)的自己の自覚の立場」、すなわち世界の中で生き、行為する(制作する)自己であることが求められる。(144頁)
G-3-3 『一般者の自覚的体系』(1930年、60歳)、『無の自覚的限定』(1932年、62歳)で西田は「場所」(※純粋経験)を「絶対無の場所」という一つの宗教的意識として説明している。それは「見るものも見られるものもなく色即是空(シキソクゼクウ)空即是色(クウソクゼシキ)の宗教的体験」であるという。(144頁)(Cf. 104-107頁)
G-3-4 西田は「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で親鸞にふれ、自己の「死」、自己の「無」を意識した時にこそ、《自己を支えるもの》、《自己を超えたもの》、つまり「絶対者」、「絶対無限なるもの」に出会うと言う。(148頁, 151頁)

G-3-4-2 そしてこの《自己を超えたもの》は、超越的な他者でなく「真の自己自身」だと西田は言う。そして一方でこの《自己》と、他方で《絶対的存在》つまり《自己を超えたものでありつつ、自己の根底である存在》との矛盾的な関係こそ、「宗教」が成り立つ場所とされた。(152-153頁)
G-3-4-3  論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で《自己》と《自己を超えたもの》関係を西田は「逆対応」と呼ぶ。われわれは《われわれの自己が徹底して無であること》つまり《自己の死》を自覚するとき、《自己を生かしているもの》にあるいは《われわれの存在を支えているもの》に出会う。こうして自己の《無》を超える。このパラドックスを西田は「逆対応」(※自己の《無》が、自己の《永遠》に対応すること)と呼ぶ。(153頁)

《感想1》『善の研究』(1911年)における西田の根本の主張は、「『純粋経験』こそ実在、つまり真にあるものである」というものだ。西田は「純粋経験」が「余の思想の根底」だと言う。「純粋経験」が「唯一の実在」とされる。(38頁)
《感想2》西田にとって「場所」(Platz)は、「純粋経験」概念を深化・拡張したものだから、《自己》=「純粋経験」にそもそも「外」(超越)はない。「絶対者」も《自己》=「純粋経験」のうちにあるしかない。
《感想3》評者が思うに、《自己》=「純粋経験」=「場所」(Platz)は、超越論的主観性=超越論的間主観性である。

G-3-4-4 親鸞は、罪悪を背負った自己自身をどこまで突きつめていくとき、つまりそのような「極限」において、阿弥陀の本願に、そのありがたさに出会いうると述べた。このことを西田は「逆対応」という言葉で言い表した。(154-155頁)

(7)-3 「平常底」(ビョウジョウテイ):《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》こと、つまり《もとの自己に帰る》ことだ!(155-158頁)
G-4  論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945)で西田は、「逆対応」という仕方で《絶対》に対することが、同時に自己の立場の根本的な転換を意味すると述べる。《自己の死を知る》ことによって、われわれは《死を超える》あるいは《永遠の生命》を得る。(155頁)
G-4-2 《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》ことだ。つまり《もとの自己に帰る》ことだ。《そこに実現される自己の本来的なあり方》を西田は「平常底」(ビョウジョウテイ)と呼ぶ。(156頁)
G-4-3 「平常底」(ビョウジョウテイ)とは、「仏法は・・・・だだ是れ平常無事、屙屎送尿(アシソウニョウ)、著衣喫飯(ジャクエキッパン)、困(ツカ)れ来れば即ち臥す」(大小便をし、衣服を着け食事をし、疲れれば眠る)というあり方(『臨済録』)に帰ること(禅の立場)、あるいは「へうへう(飄々)として水を味(アジハ)ふ」(山頭火)というような日常の営みに帰ることだ。(156頁)
G-4-4 「平常底」(ビョウジョウテイ)はまた「廬山煙雨浙江潮」(蘇東坡「観潮」)である。これは西田が好んだ詩句だ。「廬山は煙雨(エンウ)、浙江は潮(ウシオ)。未だ到らざれば、千般[長い間]恨み[行ってみたいという渇望]を消せず。到りえて還り来れば、別事なし[何ということはない]。廬山の煙雨、浙江の潮。」(157-158頁)
《感想》平凡なここにこそ幸せはあったのだ。チルチル、ミチルの「青い鳥」だ。《永遠の生命》を得るとは、《最初からあり続けていた本来の自己に出会う》ことだ。つまり《もとの自己に帰る》ことだ。
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藤田正勝『西田幾多郎』(その12):自己は単に「見るもの」つまり《認識主体》でなく、《働き行為する自己》だ!「行為的直観」を支える「表現作用的身体」は、「歴史的身体」だ!

2021-08-28 11:57:24 | 日記
※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)

(6)西田は単に「見るもの」つまり《認識主体としての自己》でなく、現実世界のなかで《働き行為する自己》に注目する:「行為的直観」の立場!(129-132頁)
F 西田は『哲学の根本問題 続編』(1934)の最初の論文「現実の世界の論理的構造」で、「現実の世界」は「行動の世界」だと言い、単に「見るもの」つまり《認識主体としての自己》でなく、現実世界のなかで《働き行為する自己》に注目した。人間を《認識主観》としてのみ捉え、世界をそれに対して立つ《対象界》としてのみ捉える「主知主義」を、後期西田は批判する。(129頁)(Cf. 116-117頁)
F-2  西田はこの自分の立場を、「行為的直観の立場」と述べる。論文「行為的直観の立場」(1935)で、「我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に、我が物を限定する。それが行為的直観である」と述べる。(130頁)
F-2-2  西田はメーヌ・ドゥ・ビランを高く評価する。メーヌ・ドゥ・ビラン『人間学新論』(1823-24)は、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」を「私は行動する、私は意志する、あるいは私は私において行動を思惟する。故に私は自分が原因であることを知る。故に私は原因または力として、現実にある、あるいは現存する」と読みかえる。(129-130頁)

《参考1》西田の「純粋経験」はベルグソンの「直観」に相当する。「分析」は対象を「言語」に「翻訳」して理解するが、「直観」は対象と「共感」する。ベルグソンの「直観」は「物自身になって見る」ことであり、これは西田の「純粋経験」に等しい。(57-60頁)
《参考2》「純粋経験」(「実在」)における「自覚」は「自己の中に自己を写(映)す」こと(反省)でありながら、それ自体一つの《直観》だ。(Cf. 西田が「自覚」と呼ぶのは、普通に日常で「意識する」と言う場合の「意識」に相当する。)(95-96頁)

(6)-2 「行為的直観」(「行為によって物を見る」)とはどういうことか?:①物が我々に対して「表現」的に立ち現れてくる!②行為の惹起!③制作(=表現)!④自ら作ったものを見る!(132-135頁)
F-3  「身体」は単に「生物的身体」でなく①「表現作用的身体」である。物は《単なる物》でなく、《身体的欲求の満足(or不満足)をもたらす「表情」・「表現」を持つ物》として出現する。「身体」は「表現」を引き起こす身体、すなわち「表現作用的身体」である。「行為的直観」の定義として言われた「行為によって物を見る」とは、物が我々に対して「表現」的に立ち現れてくることを意味する。(133-134頁)
F-3-2  物はさまざまな「表情」(「表現」)で満たされているだけでない。②物は《欲求の主体であるわれわれを突き動かす》。「行為的直観」(「行為によって物を見る」こと)の第二の意味は《行為の惹起》だ。(134頁)
F-3-3 ③「行為」は《単なる身体的動作》でなく《物を作ること》、つまり「ポイエシス(制作)」だ。西田は「制作を離れて実践(※行為)というものはない。実践は労働であり創造である」と言う。「行為的直観」の第三の意味は《制作》だ。ここでわれわれは、身体を通して自己を「表現」する。(134-135頁)
F-3-4 ④そしてさらに「行為的直観」(「行為によって物を見る」)は、「自ら作ったものを見る」という意味でもある。(135頁)
F-3-5 こうした連関全体(①②③④)が「行為的直観」である。すなわち「我々は行為によって物を見、物が我を限定すると共に我が物を限定する」。この連関を支える身体が「表現作用的身体」である。(135頁)

(6)-3 「行為的直観」を支える「表現作用的身体」は、「歴史的身体」である!(136-137頁)
F-4 「表現作用的身体」に支えられた「行為的直観」における「制作」は「歴史」をその背景に持つ。どう行為すべきか、何を製作すべきかという課題が「歴史」から与えられる。「行為的直観」を支える「表現作用的身体」は「歴史的身体」である。(136-137頁)
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