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中西進『古代史で楽しむ万葉集』「十 みやびの抒情」(その2):たゆとう命!宮廷派の歌人、田辺福麻呂(サキマロ)!坂上郎女(イラツメ)!大伴家持の逆説的な感傷!

2021-08-09 19:19:27 | 日記
※中西進(1929-)『古代史で楽しむ万葉集』角川ソフィア文庫(1981, 2010)

(10)-3 たゆとう命:家に暮らしていてさえも、漂うように定めない命である!(214-217頁)
J-4  730年、大伴旅人は大宰府から都に帰る。その従者が海を渡って帰る途中、船上で詠んだ歌がある。
「家にても たゆたふ命 波の上に 思ひし居れば 奥処(オクカ)知らずも」(巻17、3896)
この時代の人びとに「命のむなしさ」の観念はひろく滲みわたっていた。それが海上の日夜によって一層あてどもなく思われる。「家に暮らしていてさえも、漂うように定めない命であるものを、このように波の上で物を思っていると、どうなってしまうかわからないように心細い。」(214-215頁)

J-4-2 『万葉集』巻15には天平8年(736)、新羅に遣わされた人々の歌、145首が載る。「別を悲しみ贈り答え、また海路に情(ココロ)を慟(イタ)み思を陳(ノ)べて」作った歌だ。例えば羽栗翔(ハグリノカケル)の1首。
「都辺(ミヤコヘ)に 行かむ船もが 刈薦(カリコモ)の 乱れて思ふ 言告げやらむ」(巻15、3640)
(都の方へ向かう船があればいいのだけれどなあ。刈り取ったマコモのように千々に乱れるこの家郷への恋しさを手紙に書いて届けたい。)
このような歌を大歌群として万葉に収めた心理は、当事者のみならず、享受者も「家にてもたゆたふ命」を感じていた人びとだったことだ。大宮人(※宮廷人)は常にこの翳りの中にあった。(215-217頁)

(10)-4 宮廷派の最後を飾る歌人:田辺福麻呂(サキマロ)!(217-219頁)
J-5 白鳳の朝廷に人麻呂、また両女帝(元明・元正)の先代にも赤人・金村らをもった宮廷派の和歌は、この天平万葉に、宮廷派の最後を飾る歌人として田辺福麻呂(サキマロ)をもつ。(217頁)
J-5-2 福麻呂(サキマロ)は748年、橘諸兄の使者として、越中の家持を訪ねている。(217-218頁)
J-5-3 人麻呂・赤人・金村への継承というところに、宮廷派をつごうとするの福麻呂の自覚があった。そこで歌われるものは、新都讃美・旧都悲傷の歌だ。天平12年(740)以降の恭仁(クニ)・難波への都移り(745年平城還都)がそれを詠ませる。
「立ちかはり 古き都となりぬれば 道の芝草 長く生(オ)ひにけり」(巻6、1048)
(つぎつぎと旧都となりつづけるので道端の芝草も高くのびたことだ。)(218-219頁)

(10)-5 坂上郎女:おびただしい架空の恋歌を作った!(220-222頁)
J-6  後期万葉の日常的生活性をもっともよく具現している一人が、旅人の妹、坂上郎女(サカノウエノイラツメ)だ。(ア) 郎女は若き日に穂積皇子の寵愛を受ける。子供ほども年のちがう郎女をいつくしんだいずれも穂積皇子は715年に亡くなる。(イ)続いて藤原麻呂の求愛を受ける。年齢的にかなう初めての恋愛だったがすぐに麻呂は離れてしまう。(ウ)その後彼女は、前妻の子もある大伴宿奈麻呂(スクナマロ)に嫁し二女をもうけるが、高齢の宿奈麻呂もすぐに没する。(220頁)
J-6-2  郎女(イラツメ)はこうして、すれ違いの恋しかしていないが、後におびただしい架空の恋歌を作った。
「恋ひ恋ひて 逢ひたるものを 月しあれば 夜は隠るらむ しましあり侍りて」(巻4、667)
これは、母親同士が親しかった安倍虫満(アベノムシマロ)への戯歌(タワムレウタ)だ。「やっとのことで逢えたのだから、月も明るいことだし、夜は隠れていられるのだから、もう少しいてください。」(220頁)
J-6-3  郎女(イラツメ)は命婦(ミョウブ)(五位の女官)として出仕した時期があったらしく、聖武に一首を献上している。親しい生活的接触を思わせる。(※戯れの歌だ!)
「外(ヨソ)にゐて 恋ひつつあらずは 君が家の 池に住むとふ 鴨にあらましを」(巻4、726)
(よそからお慕いしているよりは、天皇のお住いの池の鴨になって側にいたいです。)(221頁)

(10)-6 大伴家持の逆説的な感傷!藤原仲麻呂(恵美押勝)の時代(758-764)、家持は因幡に国司として左遷された!(222-229頁)
J-7  坂上郎女によって和歌の手ほどきを受けたとされる大伴家持(718?-785)は、旅人の子として生まれた。745年(27歳)、従五位下に叙せられる。746年から5年間、越中守として赴任(28-33歳)。帰京して、その後兵部大輔(ヒョウブタイフ)(兵部省2等官)など歴任するが、758年因幡守として左遷される(40歳)。翌年正月の一首をもって万葉の歌は終わる。彼は全万葉集歌4500余首のほぼ1割の歌を詠んだ。(222-223頁)
J-7-2  天平20年(748年)、越中での家持の優れた短歌が次の一首だ。
「立山の 雪し消(ク)らしも 延槻(ハイツキ)の 川の渡瀬(ワタリセ) 鐙(アブミ)浸(ツ)かすも」(巻17、4024)
立山山中の雪どけの水を湛(タタ)えた延槻川の早春を馬の鐙に感じたときに、家持の越中の歌は第一の到達点を得た。家持30歳。(226頁)

J-7-3  勝宝5年(753年)、家持より宰相橘諸兄に届けられた秀作が次の一首だ。
「うらうらに 照れる春日に 雲雀(ヒバリ)上がり 情(ココロ)悲しも 独りしおもえば」(巻19、4292)
うらうらと照る春日のゆえに心が悲しいという詩情はかつて何びとも所有しなかったものだ。独り物思いに沈みゆく心には、まぶしい春日が逆に暗い。この逆説的な感傷は近代人ならたやすく理解できる。家持の孤独感は「古代に稀有な感傷の詩」を生み出した。(228-229頁)

《参考1》藤原仲麻呂に対して757年、橘奈良麻呂(橘諸兄の子)の乱が起こるが失敗する。乱後。仲麻呂側の弾圧は峻厳を極めた。宝字2年(758)、仲麻呂(恵美押勝)の時代(758-764)が始まる。大伴家持は因幡に国司として遠ざけられた。翌759年、その国の役所で家持が詠った。
「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重(シ)け吉事(ヨゴト)」(巻20、4516)
(新年にして立春のよき日、降りしきる雪のように吉事よ重なれ!)これが万葉集の最後の一首だ。(206-209頁)

《参考2》大伴家持は762年、京官に復すが、淳仁朝の藤原仲麻呂に対する暗殺計画立案の嫌疑で捕らえられ764年1月、薩摩守へ左遷される。この間、同年9月藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起きる。これは孝謙太上天皇・道鏡に対して、太師(太政大臣)藤原仲麻呂がクーデターを起こすが失敗した事件だ。家持は、767年大宰少弐に転じる。
《参考2-2》770年に称徳天皇(在位764-770)(孝謙重祚)が崩御すると大伴家持は京に戻り、要職に就く。(道鏡は失脚し、772年死去した。)光仁朝(770-781)で家持は、京師の要職や上総・伊勢と大国の国守を歴任し、780年に参議、781年に従三位となる。
《参考2-3》桓武朝(781-806)に入ると、783年には家持は中納言に昇進、また皇太子・早良親王の春宮大夫も兼ねる。784年持節征東将軍。しかし同年、薨去。(陸奥国で没したor遙任の官として在京していたとの両説あり。死没地は平城京説と多賀城説がある。)
《参考2-4》家持が没した翌年785年、藤原種継暗殺事件が造営中の長岡京で発生、家持も関与したとされ、追罰として埋葬を許されず、官籍から除名。子の永主も隠岐国へ流罪。家持は没後20年以上経過した806年に恩赦を受け従三位に復した
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