※藤田正勝(1949-)『西田幾多郎――生きることと哲学』(2007年)
(4)-6 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は西田によって、「場所」と呼ばれるようになる!(93-94頁)
D-8 西田は、アリストテレスの「基体」(個物)概念を《逆転》し、それによって「純粋経験」論(1911年)は、「場所」論(1926年)へと移行した。(93頁)
Cf. 「純粋経験」は「論理化」すれば、すなわち「超越論的述語面」(西田)として捉えることができる。「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で、「直覚的」だ。(92-93頁)
Cf. また『芸術と道徳』(1923)では「経験」(「純粋経験」)の創造的な性格が強調される。《反省されることのない自己》、その「深い生命の内容」が、それ自身を表現し客観するプロセスという観点から、「経験」(「純粋経験」)が見られる。(芸術はそのような経験の典型とされる。)(80頁)
D-8-2 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は西田によって、「場所」と呼ばれるようになる。そのような《自己》は一つの対象として把握されるものでないし、一つの概念で言い表すことができない。その《自己》は「超越論的述語面」と呼ばれる。(93頁)
D-8-2-2 「真の我(※《反省し尽くすことのできない自己》or「純粋経験」)は同ということもできない、異ということもできない、有とも無とも云えない。所謂論理的形式によって限定することのできない、却(カエ)って論理的形式をも成立せしめる場所である。」(西田)(94頁)
D-8-2-3 反省し尽くすことのできない「真の我」(「純粋経験」)は知識の具体的な内容でなく、むしろ知識が成立する「場所」である。(94頁)
(4)-6-2 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は「無の場所」であると西田は言う!Cf. 評者としては、「場所」(「純粋経験」)は存在論的には「無」でなく、「有」と言うべきだ、つまり《無規定》という意味でのみ「無」だ!(94-95頁)
D-8-3 反省し尽くすことのできない「真の我」(「純粋経験」)は、《いかなる論理的な規定によっても言い表すことのできないもの》として「無」と言いあらわすこともできる。(94頁)
D-8-3-2 ただしこの「無」は、《有から区別された無》、《論理的な規定としての無》ではない。(94頁)
D-8-3-3 西田が「場所」(「純粋経験」)を「無」と言うとき。その「無」は、《有に対立する無》でなく「有無を包んだもの」、「有無の対立を超越して之をうちに成立せしめるもの」(西田)だ。(94頁)
D-8-3-4 かくて「場所」(「純粋経験」)は「無の場所」(西田)だ。(95頁)
《感想》「場所」(「純粋経験」)は、有無以前の場所、有無の対立を超越した場所、そして有無をうちに成立せしめる場所だ。西田は「場所」(「純粋経験」)は、(有無以前の・有無を超越する)「無」の場所と呼ぶが、評者としては、(有無以前の・有無を超越する)「有」の場所と呼んでもいいと思われる。
《感想(続)》評者としては、「場所」(「純粋経験」)は存在論的には「無」でなく、「有」と言うべきだ。「場所」(「純粋経験」)は《無規定》(判断以前)という意味でのみ「無」だ。
(4)-7 「純粋経験」(「実在」)における「自覚」は「自己の中に自己を写(映)す」こと(反省)でありながら、それ自体一つの《直観》だ!Cf. 西田が「自覚」と呼ぶのは、普通に日常で「意識する」と言う場合の「意識」に相当する!(95-96頁)
D-9 新カント学派の思想に触れた西田にとって、《直接的な経験(直観)が唯一の実在である》(※「純粋経験」)という考えと、《思惟ないし反省の能動的な働き》とをどのように統合するかが大きな問題となった。(95頁)
D-9-2 かくて西田は『自覚に於ける直観と反省』(1917)において、「自覚」に注目した。「自覚」は自己への《反省》であると同時にそれ自体が一つの《直観》の性格を持つからだ。(95頁)
《感想》西田が「自覚」と呼ぶのは、普通に日常で「意識する」と言う場合の「意識」に相当する。
《参考》西田の「純粋経験」はベルグソンの「直観」に相当する!「分析」は対象を「言語」に「翻訳」して理解するが、「直観」は対象と「共感」する!ベルグソンにおいて「直観」とは「物自身になって見る」ことだ!(57-60頁)
D-9-2-2 西田にとっては「実在」(※「純粋経験」)においては、「自己の中に自己を写(映)す」(反省する)ことが、そのまま《無限な、そして動的な発展》(※自己の発展)でもある。西田は『働くものから見るものへ』(1927)において「真の我」(※「純粋経験」)は「自己の中に自己を写(映)す」ものだと述べている。(95-96頁)
《参考》『善の研究』(1911年)における西田の根本の主張は「『純粋経験』こそ実在、つまり真にあるものである」というものだ。西田は「純粋経験」が「余の思想の根底」だと言う。「純粋経験」が「唯一の実在」とされる。(38頁)
(4)-7-2 西田の「場所」論は《知の基礎付け》という意味を持つ!(96-97頁)
D-10 《「無」(※無規定)である鏡》(※純粋経験or超越論的主観性)が、《それ自身のなかに形あるもの(※規定or判断)として自己を投影していく》ことが、『働くものから見るものへ』(1927)において「自覚」(※「意識」)と考えられている。(96-97頁)
D-10-2 「自覚」を通して投影された《形あるもの》が「判断」であり「知」だ。(97頁)
D-10-3 論文「場所」(1926)のあとに書かれた「左右田博士に答う」の中で西田は述べる。「《包摂判断の述語面が述語となって主語とならない》と考えられた時、それが私の所謂《場所》としての意識面であり、《之に於いてあると云うことが知るということである》と云うのが、私が『場所』の論文に於て到達した最後の考えである。」(97頁)
D-10-4 西田の「場所」論は《知の基礎付け》という意味を持つ。(97頁)
(4)-7-3 西田の理解では、《有るもの》《働くもの》とは「無の場所」(※純粋経験)が自己自身の中に投影した形(影)である!(97-99頁)
D-11 『働くものから見るものへ』(1927)の後半において、つまりアリストテレスの「基体」概念への論及がなされて以後、「働くもの」つまり「意志」(※判断作用)の背後に、「見るもの」つまり「直覚」or「直観」的なものを西田は認める。(98-99頁)
D-11-2 「見る」とは、「直覚」的なものつまり「無の場所」(※無規定の「場所」or「純粋経験」)が「自己の中に自己を映す」ことだ。(99頁)
D-11-3 西田は『働くものから見るものへ』(1927)の「序」で言う。「私の直観というのは・・・・《有るもの》《働くもの》(※規定されたもの、判断)のすべてを、《自ら無にして自己の中に自己を映すもの》(※純粋経験or場所)の影と見る。」西田の理解では、《有るもの》《働くもの》とは「無の場所」(※純粋経験)が自己自身の中に投影した形(影)である。(99頁)
(4)-8 自己(※「純粋経験」)を「場所」として捉える西田の思想は、《近代(西洋)の人間観》と根本的に異なる!《「主観」「主体」としてものを認識し行為する》ことは事柄の起点でなく、《「場所」or「無の場所」(※「純粋経験」)のなかで生起する一つの出来事》である!(99-101頁)
D-12 自己(※「純粋経験」)を「場所」として捉える西田の思想は、《近代(西洋)の人間観》と根本的に異なる。(100頁)
D-12-2 《われわれが「主体」「主観」としてものを認識し行為すること》は事柄の起点でなく、《「場所」or「無の場所」(※「純粋経験」)のなかで生起する一つの出来事》であるという理解が、西田にはある。
D-12-3 藤田正勝氏は、さらに、西田が「場所」を「無」と言い表すことは、《「存在」を中心に置いて考察してきた西洋の哲学》そのものを見直すという意味を持つものであったと述べる。
《感想》(a)西田が、「純粋経験」or「場所」を出発点とするとしても、それらは「無」ではなく、《無規定or判断以前》という意味で「無」であるにすぎない。
(b)「純粋経験」or「場所」は《無規定or判断以前》だが、「有」である。
(c)「無」は「無」であって、「有」(《有るもの》《働くもの》)が、「無」から生まれるはずがない。
(d)《無規定or判断以前》の「有」に、新たに《規定がなされ・判断された事態》つまり新たな「有」が生まれるだけだ。「無」から「有」が生まれることはない。
かくて西田が「場所」を「無」と言い表すとき、《「存在」を中心に置いて考察してきた西洋の哲学》そのものを見直すという意味を持つとまで言うのは、難しいと思われる。
(4)-6 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は西田によって、「場所」と呼ばれるようになる!(93-94頁)
D-8 西田は、アリストテレスの「基体」(個物)概念を《逆転》し、それによって「純粋経験」論(1911年)は、「場所」論(1926年)へと移行した。(93頁)
Cf. 「純粋経験」は「論理化」すれば、すなわち「超越論的述語面」(西田)として捉えることができる。「超越論的述語面」とは、「限りなき述語の統一」であり《すべての判断の基礎となる超越的なもの》で、「直覚的」だ。(92-93頁)
Cf. また『芸術と道徳』(1923)では「経験」(「純粋経験」)の創造的な性格が強調される。《反省されることのない自己》、その「深い生命の内容」が、それ自身を表現し客観するプロセスという観点から、「経験」(「純粋経験」)が見られる。(芸術はそのような経験の典型とされる。)(80頁)
D-8-2 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は西田によって、「場所」と呼ばれるようになる。そのような《自己》は一つの対象として把握されるものでないし、一つの概念で言い表すことができない。その《自己》は「超越論的述語面」と呼ばれる。(93頁)
D-8-2-2 「真の我(※《反省し尽くすことのできない自己》or「純粋経験」)は同ということもできない、異ということもできない、有とも無とも云えない。所謂論理的形式によって限定することのできない、却(カエ)って論理的形式をも成立せしめる場所である。」(西田)(94頁)
D-8-2-3 反省し尽くすことのできない「真の我」(「純粋経験」)は知識の具体的な内容でなく、むしろ知識が成立する「場所」である。(94頁)
(4)-6-2 《反省し尽くすことのできない自己》(「純粋経験」)は「無の場所」であると西田は言う!Cf. 評者としては、「場所」(「純粋経験」)は存在論的には「無」でなく、「有」と言うべきだ、つまり《無規定》という意味でのみ「無」だ!(94-95頁)
D-8-3 反省し尽くすことのできない「真の我」(「純粋経験」)は、《いかなる論理的な規定によっても言い表すことのできないもの》として「無」と言いあらわすこともできる。(94頁)
D-8-3-2 ただしこの「無」は、《有から区別された無》、《論理的な規定としての無》ではない。(94頁)
D-8-3-3 西田が「場所」(「純粋経験」)を「無」と言うとき。その「無」は、《有に対立する無》でなく「有無を包んだもの」、「有無の対立を超越して之をうちに成立せしめるもの」(西田)だ。(94頁)
D-8-3-4 かくて「場所」(「純粋経験」)は「無の場所」(西田)だ。(95頁)
《感想》「場所」(「純粋経験」)は、有無以前の場所、有無の対立を超越した場所、そして有無をうちに成立せしめる場所だ。西田は「場所」(「純粋経験」)は、(有無以前の・有無を超越する)「無」の場所と呼ぶが、評者としては、(有無以前の・有無を超越する)「有」の場所と呼んでもいいと思われる。
《感想(続)》評者としては、「場所」(「純粋経験」)は存在論的には「無」でなく、「有」と言うべきだ。「場所」(「純粋経験」)は《無規定》(判断以前)という意味でのみ「無」だ。
(4)-7 「純粋経験」(「実在」)における「自覚」は「自己の中に自己を写(映)す」こと(反省)でありながら、それ自体一つの《直観》だ!Cf. 西田が「自覚」と呼ぶのは、普通に日常で「意識する」と言う場合の「意識」に相当する!(95-96頁)
D-9 新カント学派の思想に触れた西田にとって、《直接的な経験(直観)が唯一の実在である》(※「純粋経験」)という考えと、《思惟ないし反省の能動的な働き》とをどのように統合するかが大きな問題となった。(95頁)
D-9-2 かくて西田は『自覚に於ける直観と反省』(1917)において、「自覚」に注目した。「自覚」は自己への《反省》であると同時にそれ自体が一つの《直観》の性格を持つからだ。(95頁)
《感想》西田が「自覚」と呼ぶのは、普通に日常で「意識する」と言う場合の「意識」に相当する。
《参考》西田の「純粋経験」はベルグソンの「直観」に相当する!「分析」は対象を「言語」に「翻訳」して理解するが、「直観」は対象と「共感」する!ベルグソンにおいて「直観」とは「物自身になって見る」ことだ!(57-60頁)
D-9-2-2 西田にとっては「実在」(※「純粋経験」)においては、「自己の中に自己を写(映)す」(反省する)ことが、そのまま《無限な、そして動的な発展》(※自己の発展)でもある。西田は『働くものから見るものへ』(1927)において「真の我」(※「純粋経験」)は「自己の中に自己を写(映)す」ものだと述べている。(95-96頁)
《参考》『善の研究』(1911年)における西田の根本の主張は「『純粋経験』こそ実在、つまり真にあるものである」というものだ。西田は「純粋経験」が「余の思想の根底」だと言う。「純粋経験」が「唯一の実在」とされる。(38頁)
(4)-7-2 西田の「場所」論は《知の基礎付け》という意味を持つ!(96-97頁)
D-10 《「無」(※無規定)である鏡》(※純粋経験or超越論的主観性)が、《それ自身のなかに形あるもの(※規定or判断)として自己を投影していく》ことが、『働くものから見るものへ』(1927)において「自覚」(※「意識」)と考えられている。(96-97頁)
D-10-2 「自覚」を通して投影された《形あるもの》が「判断」であり「知」だ。(97頁)
D-10-3 論文「場所」(1926)のあとに書かれた「左右田博士に答う」の中で西田は述べる。「《包摂判断の述語面が述語となって主語とならない》と考えられた時、それが私の所謂《場所》としての意識面であり、《之に於いてあると云うことが知るということである》と云うのが、私が『場所』の論文に於て到達した最後の考えである。」(97頁)
D-10-4 西田の「場所」論は《知の基礎付け》という意味を持つ。(97頁)
(4)-7-3 西田の理解では、《有るもの》《働くもの》とは「無の場所」(※純粋経験)が自己自身の中に投影した形(影)である!(97-99頁)
D-11 『働くものから見るものへ』(1927)の後半において、つまりアリストテレスの「基体」概念への論及がなされて以後、「働くもの」つまり「意志」(※判断作用)の背後に、「見るもの」つまり「直覚」or「直観」的なものを西田は認める。(98-99頁)
D-11-2 「見る」とは、「直覚」的なものつまり「無の場所」(※無規定の「場所」or「純粋経験」)が「自己の中に自己を映す」ことだ。(99頁)
D-11-3 西田は『働くものから見るものへ』(1927)の「序」で言う。「私の直観というのは・・・・《有るもの》《働くもの》(※規定されたもの、判断)のすべてを、《自ら無にして自己の中に自己を映すもの》(※純粋経験or場所)の影と見る。」西田の理解では、《有るもの》《働くもの》とは「無の場所」(※純粋経験)が自己自身の中に投影した形(影)である。(99頁)
(4)-8 自己(※「純粋経験」)を「場所」として捉える西田の思想は、《近代(西洋)の人間観》と根本的に異なる!《「主観」「主体」としてものを認識し行為する》ことは事柄の起点でなく、《「場所」or「無の場所」(※「純粋経験」)のなかで生起する一つの出来事》である!(99-101頁)
D-12 自己(※「純粋経験」)を「場所」として捉える西田の思想は、《近代(西洋)の人間観》と根本的に異なる。(100頁)
D-12-2 《われわれが「主体」「主観」としてものを認識し行為すること》は事柄の起点でなく、《「場所」or「無の場所」(※「純粋経験」)のなかで生起する一つの出来事》であるという理解が、西田にはある。
D-12-3 藤田正勝氏は、さらに、西田が「場所」を「無」と言い表すことは、《「存在」を中心に置いて考察してきた西洋の哲学》そのものを見直すという意味を持つものであったと述べる。
《感想》(a)西田が、「純粋経験」or「場所」を出発点とするとしても、それらは「無」ではなく、《無規定or判断以前》という意味で「無」であるにすぎない。
(b)「純粋経験」or「場所」は《無規定or判断以前》だが、「有」である。
(c)「無」は「無」であって、「有」(《有るもの》《働くもの》)が、「無」から生まれるはずがない。
(d)《無規定or判断以前》の「有」に、新たに《規定がなされ・判断された事態》つまり新たな「有」が生まれるだけだ。「無」から「有」が生まれることはない。
かくて西田が「場所」を「無」と言い表すとき、《「存在」を中心に置いて考察してきた西洋の哲学》そのものを見直すという意味を持つとまで言うのは、難しいと思われる。