※浮世博史(ウキヨヒロシ)「もう一つ上の日本史、『日本国紀』読書ノート、近代~現代篇」(2020年)「敗戦と戦争」の章(315-384頁)
(88)-4 GHQが天皇の戦争責任を不問にしたのは、「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」もあるが、戦争中の天皇の行動を調査・分析し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからだ! (344-346頁)
G-5 GHQやマッカーサーが天皇の戦争責任を不問にしているのは、「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」(346頁)もあるが、戦争中の天皇の行動、そして述べられた「意見」など膨大な資料・証言調査によって調査・分析し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからだ。(344頁)
G-5-2 例えば「十五年戦争」開始の契機となった「南満州鉄道爆破事件」(柳条湖事件)(1931/9/18)と直後の軍事行動(Ex. 全線全関東軍出動,奉天攻撃、朝鮮軍の独断越境、錦州攻撃)は、天皇命令で始まったものではない。(344頁)
(ア)「朝鮮軍の独断越境」を事後報告された天皇は、「此度(コノタビ)ハ致方(イタシカタ)ナキモ将来充分注意セヨ」と述べた。1931/9/21金谷(カナヤ)参謀総長が朝鮮軍の不始末を天皇に詫びた。(344頁)
(イ) 1931/9/21、天皇は「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議ノ趣旨ハ適当」と、若槻礼次郎首相に政府の不拡大方針への支持を伝えた。(344頁)
(ウ) 1931/9/22、天皇は「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次(タケジ)侍従武官長に命じた。(344頁)
(エ) これ以後、統帥部は天皇に軍事行動の事後報告、不正確な情報の提供を続ける。他方「天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できない」。(345頁)
(オ) 1931/10/08、本庄繁関東軍司令官が示した「張学良政権に対する否認声明」について、天皇は「本庄司令官の声明及布告は内政干渉の嫌(キライ)あり」と批判した。「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム、此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」。(『奈良武次日記』)(345頁)
(カ) 1931/12/23、天皇は、犬養毅首相兼外相に対しても「錦州不攻撃の方針」を示し、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と述べた。(345頁)
(キ) 1932/1/11には、天皇は「支那ノ云イ分モ少シハ通シテ遣ル方可然(シカルベク)」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示す。(346頁)
※天皇のこれらの「意見」にもかかわらず、「陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ」、1932/3/1満洲国が成立した。
G-5-3 百田氏の誤り④:「南満州鉄道爆破事件」の後も、「日中戦争」・「太平洋戦争」・「沖縄戦」・「終戦」において、天皇はそのつど「意見」し「判断」しており、天皇が「聞いているだけ」だった(百田419頁)ということは史料的に確認できない、つまり誤りだ。(346頁)
G-6 GHQは、 (a) マッカーサーが「1945年9月の面会で、昭和天皇の人柄に感銘を受け、天皇としての覚悟を知った」からという「個人の感想」にもとづいて、天皇の戦争責任を免じたわけでない。(346頁)
G-6-2 GHQは(b)「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」を立てたうえで、 (c) GHQ の調査により「天皇が戦争の節目で国際協調の立場から不拡大や回避を試みようとしたが、軍部の不正確な情報で判断を歪められてきた」という事実に基づいて、「戦争の責任はない」と判断した。(346頁)
G-6-3 もちろん(c)-2 昭和天皇の言動には「軍部の行動を後押しするような例も散見できる」。(346頁)
(88)-4 GHQが天皇の戦争責任を不問にしたのは、「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」もあるが、戦争中の天皇の行動を調査・分析し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからだ! (344-346頁)
G-5 GHQやマッカーサーが天皇の戦争責任を不問にしているのは、「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」(346頁)もあるが、戦争中の天皇の行動、そして述べられた「意見」など膨大な資料・証言調査によって調査・分析し、それを連合国代表・極東委員会も理解したからだ。(344頁)
G-5-2 例えば「十五年戦争」開始の契機となった「南満州鉄道爆破事件」(柳条湖事件)(1931/9/18)と直後の軍事行動(Ex. 全線全関東軍出動,奉天攻撃、朝鮮軍の独断越境、錦州攻撃)は、天皇命令で始まったものではない。(344頁)
(ア)「朝鮮軍の独断越境」を事後報告された天皇は、「此度(コノタビ)ハ致方(イタシカタ)ナキモ将来充分注意セヨ」と述べた。1931/9/21金谷(カナヤ)参謀総長が朝鮮軍の不始末を天皇に詫びた。(344頁)
(イ) 1931/9/21、天皇は「満州事件ノ拡大セザル様トノ閣議ノ趣旨ハ適当」と、若槻礼次郎首相に政府の不拡大方針への支持を伝えた。(344頁)
(ウ) 1931/9/22、天皇は「行動ヲ拡大セザル様」と奈良武次(タケジ)侍従武官長に命じた。(344頁)
(エ) これ以後、統帥部は天皇に軍事行動の事後報告、不正確な情報の提供を続ける。他方「天皇が直接軍事行動を命令したことは確認できない」。(345頁)
(オ) 1931/10/08、本庄繁関東軍司令官が示した「張学良政権に対する否認声明」について、天皇は「本庄司令官の声明及布告は内政干渉の嫌(キライ)あり」と批判した。「出先軍部ト外務官吏トノ間ノ意見ノ相違ハ、陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ其政権ト交渉セントスルニ反シ外務側ハ其独立政権ヲ好マザル点ニアリト認ム、此点陸軍ノ意見適当ナラザル様思ハル。其積リニテ陸軍中央部ニ注意スルヨウニ」。(『奈良武次日記』)(345頁)
(カ) 1931/12/23、天皇は、犬養毅首相兼外相に対しても「錦州不攻撃の方針」を示し、さらに「国際間の信義を尊重すべき」と述べた。(345頁)
(キ) 1932/1/11には、天皇は「支那ノ云イ分モ少シハ通シテ遣ル方可然(シカルベク)」と攻撃の不拡大、国際関係の重視、中国との協調を示す。(346頁)
※天皇のこれらの「意見」にもかかわらず、「陸軍ハ満蒙ヲ独立セシメ」、1932/3/1満洲国が成立した。
G-5-3 百田氏の誤り④:「南満州鉄道爆破事件」の後も、「日中戦争」・「太平洋戦争」・「沖縄戦」・「終戦」において、天皇はそのつど「意見」し「判断」しており、天皇が「聞いているだけ」だった(百田419頁)ということは史料的に確認できない、つまり誤りだ。(346頁)
G-6 GHQは、 (a) マッカーサーが「1945年9月の面会で、昭和天皇の人柄に感銘を受け、天皇としての覚悟を知った」からという「個人の感想」にもとづいて、天皇の戦争責任を免じたわけでない。(346頁)
G-6-2 GHQは(b)「日本の占領政策に天皇を利用しようという方針」を立てたうえで、 (c) GHQ の調査により「天皇が戦争の節目で国際協調の立場から不拡大や回避を試みようとしたが、軍部の不正確な情報で判断を歪められてきた」という事実に基づいて、「戦争の責任はない」と判断した。(346頁)
G-6-3 もちろん(c)-2 昭和天皇の言動には「軍部の行動を後押しするような例も散見できる」。(346頁)